――例の如く初めにイジメ自殺を認めまいとする意思あり。その意思を演じているのは校長・教師・教育委員会たちである――
いじめ防止対策推進法は2013年6月28日第183回国会を似て成立し、同年9月28日に施行された。
第1章総則 第1条目的
〈この法律は、いじめが、いじめを受けた児童等の教育を受ける権利を著しく侵害し、その心身の健全な成長及び人格の形成に重大な影響を与えるのみならず、その生命又は身体に重大な危険を生じさせるおそれがあるものであることに鑑み、児童等の尊厳を保持するため、いじめの防止等(いじめの防止、いじめの早期発見及びいじめへの対処をいう。以下同じ。)のための対策に関し、基本理念を定め、国及び地方公共団体等の責務を明らかにし、並びにいじめの防止等のための対策に関する基本的な方針の策定について定めるとともに、いじめの防止等のための対策の基本となる事項を定めることにより、いじめの防止等のための対策を総合的かつ効果的に推進することを目的とする。〉
要するにイジメは精神面の生命(いのち)を著しく傷つけて、日常的な喜怒哀楽の人間性を奪い、時には肉体面の生命(いのち)の損壊をも強いる。
2014年2月17日の衆議院予算委員会での下村博文の答弁。
下村博文「いじめ改革抜本改革案ができたからといってイジメや自殺がなくなると、ゼロになるということではありませんが、しかし制度設計として戦後の抜本改革をしていくことは必要なことだと思います」
フッと笑いながら答弁していた。過剰なイジメをキッカケとした自殺事件が起きて、法律をつくっても何にもならないではないかと批判を受けたときに備えて、自身を安全地帯に置く前以ての緊急避難措置発言だろう。
確かに法律が全てを解決するわけではない。だが、下村博文が児童・生徒の生命(いのち)に対する深い想いを持っていたなら、教育行政を与る文部科学大臣としてゼロを前提としない発言はできるはずはない。ただ単に自身を責任から離れた場所に置くことだけを考えたからできた発言であろう。
2011年10月11日に滋賀県大津市立中学校2年男子生徒がイジメを苦に自宅で自殺した事件では校長も教師も教育委員会も、最初はイジメの存在自体を認めず、認めざるを得なくなったときも、イジメと自殺の因果関係を認めず、自分たちを責任から離れた場所に置くことだけを考えた。
校長や教師たちが自殺を知って、とんでもないことが起きたと衝撃を受けたとしても、自殺以後のアンケートでイジメが公然と行われていたことを知ってからは、男子生徒の13歳の突然の死に対するとんでもないことではなく、あるいは存在し、存在し続けるはずのものがもはや存在しなくなったことに対するとんでもないことでもなく、自分たちにどういう責任が及ぶのかという、とんでもないことに変わっていったはずだ。
でなければ、学校も教育委員会もアンケート結果の公表を回避することも、「イジメた側にも人権がある」といった口実で加害生徒への聞き取り調査を回避することもなかったろうし、非常に逆説的なことだが、これらのことが教育に携わる者による事実隠蔽を目的とした情報開示の回避と徹底した調査の回避であることも理解する力を持たず、なおかつそういった不備・不足が、例え結果論としていじめと自殺との間に因果関係が事実存在しなかったとしても、結論の組み立てとしては合理性の欠如を強いることになるにも関わらず、早々にいじめと自殺との因果関係を否定するといった、合理的に説明し得る事実提示の回避に走ることもなかったろう。
すべては自分たちを責任から離れた場所に置くことを優先させたことからの数々の隠蔽であり、数々の回避行動であろう。
今年(2014年)1月、長崎県新上五島町立奈良尾中3年の松竹景虎(かげとら)君(当時15歳)が自殺した。《長崎・中3自殺:同級生アンケで「悪口」 両親に説明せず》(毎日jp/2014年05月28日 13時40分)と、《長崎・中3自殺:一部同級生「みんな共犯者」当日朝教室で》(毎日jp/2014年05月30日 18時55分) の二つの「毎日jp」記事から見てみる。
松竹君は同級生から日常的に「嫌い」などの悪口を言われて悩み、2学期から「LINE」(ライン)で同級生に自殺をほのめかすメッセージを送っていた。3学期の始業式があった1月8日朝、家を出たまま登校せず、近くの町営グラウンドのトイレ付近で首を吊って命を絶った。
始業式当日に命を絶ったという事実を一つ取っても、学校を忌避していたことの証明となる。その忌避が同級生に対するものなのか、学校の勉強に対する忌避なのか、教師に対する忌避なのか学校は特定する責任を負ったことになる。
学校側は自殺翌日の1月9日に同級生らにアンケートを実施した。複数の同級生が「松竹君に悪口を言った」、「『うざい』と言ったことがある」などと回答。
学校は1月下旬になって両親に「いじめは見つからなかった」と説明。
どのような忌避なのか特定できなかったのか、特定したが、隠したのか、いずれかになるが、複数の同級生の松竹君に対する悪口をイジメと把えなかったばかりか、イジメと受け取られかねない紛らわしい言葉とも把えなかったことになる。
これらのことは町教委が5月28日の記者会見で明らかにした事実だという。
1月9日のアンケートから1月下旬の両親に対する報告という日数のズレは調査に必要だったと説明がつくが、5月28日の公表という日数の大きなズレは単にマスコミが知らなかったということなのだろうか。そこにマスコミに知られないようにする力が働いていたとしたら、事実隠蔽の力が存在していたことになって問題となる。
事実隠蔽は責任回避を相互対応とする。いわば事実隠蔽だけで片付けることはできない。
町教委は同級生が卒業後の3月下旬~4月中旬、同級生への2回目の聞き取り調査を行った。
松竹君が通学バスに乗らず、登校してこなかったため、松竹君から無料通話アプリ「LINE」(ライン)で自殺する考えを伝えられていた同級生たちが騒ぎ始めたとの証言。
「数人の会話で『みんな共犯者だよ』と言っている生徒がいた」
「『やばいんじゃないか』と騒ぎになった」
「(松竹君に)『うざい』と言っていた生徒たちが『もしかして自殺 したのでは』と言っていた」
「『全体責任だよ』と言う生徒もいた」
「警察に捕まらないかな」(以上聞き取り調査や同級生の証言)――
自殺翌日の1月9日の1回目のアンケートに対する調査ではイジメは見つからなかったとしているが、2回目では証言がゾロゾロと出てきた。1回目のアンケートでは追及が不足していたことになる。
この追及不足が自分たちを責任から離れた場所に置く責任回避に相互対応させた事実隠蔽を図る意図的な操作だとしたら、その責任回避意識は甚だしいものとなる。
同中の3年は1クラス21人しかいないそうだが、「みんな共犯者だよ」と、「全体責任だよ」という言葉はクラスの多くの生徒からイジメられていたことを証言する言葉となるはずだ。
「警察に捕まらないかな」はイジメが悪ふざけの域を超えて執拗な継続的域――警察に捕まっても仕方のない程度に達していたことと、そのことを生徒たちが自覚していたことを意味することになる。
但し「LINE」で自殺を仄(ほの)めかされていた同級生たちは担任教師に誰も松竹君が自殺する恐れがあることを伝えていなかったという。自殺を仄めかしてら実際に自殺することも一つのパターンとなっている。生きて在る一個の生命(いのち)に対してタカを括っていたことになる。
尤も生きて在る一個の生命(いのち)と認識することができていたなら、イジメも起きなかったろう。
町教委が5月28日の記者会見。
道津(どうつ)利明教育長「一つ一つの行為はいじめと認められるが、いろんな人間関係の中であったことなので、自殺の原因とは断定できない。
(一部の同級生が「いじめが原因で自殺した」と証言していることについ)いじめがなかったと言う生徒もいる。いじめが原因で自殺したと断定するのは慎重にならざるを得ない。
(松竹君が無料通話アプリ「LINE」(ライン)で複数の同級生に自殺意図を伝え、一部の保護者も知っていたのに両親や学校に伝えなかったことについては)非常に残念だ」――
「一つ一つの行為はいじめと認められるが、いろんな人間関係の中であったことなので、自殺の原因とは断定できない」という言葉が理解できない。イジメは人間関係の中で起こる。外では起こり得ようがない。イジメが正常な人間関係を損なう程度にまでエスカレートしていたのか、歪んだ人間関係を強いていたのか、教育長でありながら、人間関係に於ける心理面を問題にすべきを、イジメがあったという意味でしか人間関係を把えていない。
また、「いじめが原因で自殺した」という証言に「いじめがなかったと言う生徒」を対置させて、「いじめが原因で自殺したと断定するのは慎重にならざるを得ない」と結論づけているが、これは刑事が取調べで「お前が盗んだところを見た目撃者が3人もいるんだ」と言ったことに対して、犯人が「じゃあ、俺が盗んだところを見ていない目撃者を100人連れてくる」と言って、自分の無実を証明するのと同じで、論理的に意味を成さない証明でしかない。
「いじめが原因で自殺した」という証言と、「いじめがなかったと言う」証言のいずれが信憑性ある事実なのかを証明して初めて論理的に結論づけることができるイジメと自殺の因果関係であるはずである。
にも関わらず、非論理的な証明方法で因果関係を否定する。一人の生徒が生命(いのち)を断った重大性の原因追及に論理的な証明を用いていない以上、これは事実隠蔽に当たる。
同じことを言うが、事実隠蔽は責任回避を相互対応とする。
1回目のアンケートで、少なくともイジメと思われる証言がありながら、満足な調査を怠って、結果として事実隠蔽に力を貸すことになった学校側の責任を満足に果たそうとしない姿勢と言い、もし意図的な調査回避なら、問題なく事実隠蔽と責任回避を謀ったことになるが、道津(どうつ)利明教育長の論理的な説明の体を成していない発言で事を遣り過そうとする姿勢と言い、論理的な説明が可能となる検証を待たずにイジメと自殺の因果関係を否定する姿勢と言い、2011年10月の大津中2年男子生徒イジメ自殺事件での学校・教育委員会の自分たちを責任から離れた場所に置く責任回避と事実隠蔽を相互対応させた姿勢と否応もなしに類似性を見ないわけにはいかない。
同じことの繰返しが別の学校で行われた。
要するに法律の問題ではない。教育者としての責任感の問題であろう。