花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

若き日の世間知らずの原因は?

2019-09-17 13:15:09 | Weblog

若き日を振り返ると

世間を知らないが故の

お目出度さが思い出され、、、

苦笑する

一人笑いがこみ上げてくることが有る。

[自意識が過剰な時代]なのかもしれない。

 

競走馬のように、先へ、、、先へと

理想を確立しようと無茶をする。

世の中、、、なるようにしかならない。。。と

解るのは70歳になるころである。

 

若き日に、年寄りを大切にして、

「思い出話をたくさん聞いておけば、、、」良かった。

灰で縄を編んで納税しなさい、、、と言われることだって

時代時代には避けられない現実であった。

母も、叔母さんも、

[鍋も窯も、金属製の物はすべて差し出した時代]に生まれていた。

叔父さんは学徒出陣!

もう一人の叔父さんは、シベリアの体験者。

出兵で会社も廃業、女子供の手で

鶏を200羽も飼って、

農協に卵を持って行ったり

にわかにお百姓さんが増えて、

おばさん方の集会所のような

助け合う作物つくりの戦後を観てきた。

父の診療所には、

疎開者を受け入れてくれた地元のおばさん方が

炊事場を手伝ってくれていた。

誰もが、どうやって生きて行こうかと、、、

傷痍軍人も松葉づえをついて、

飯盒に似ていたカンを「托鉢」のようにお金を入れる入れ物にして

頭をうなだれていた。

医師だった父は、疎開地では一番忙しい男性だった。

村中がお金のない時代に

疎開で診療所の先生をしていた。

 

お金の為には、、、

とても勤まらない条件だったと,,,,

 

子供ながらに、

戦地を体験してきた医師の根性のような落ち着きに

父というより、

皆の大切な、いなくてはならない人だとおもって

威厳を感じていた。

 

医療報酬は

[保険制度]が出来ていなかったせいもあり

川の魚,

山の果物、

野生の動物の肉、

炭、備長炭、等、

栗やシイの実まで、診療報酬に届けられた。

 

戦争から引き揚げてきた親類は、

父の周りに集まってきた。

正月は餅つきで、

村人や疎開の人々で祖父の洋館の地下室は人でいっぱいだった。

アメリカのフロリダ州から帰ってきていた親類たちの中でも

南紀には、、、少し離れた村が

「アメリカ村」と呼ばれているところもあった。

祖父の洋館の地下室は、、、大賑わいであった。

お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、知恵がある人だった。

ベランダの下に玄関が有った。

ドアを開けると、祖父の描いたという

ゴールデンゲイトの橋の油絵が架けてあった

今振り返れば、

当時の日本人の普通の家庭の人に比べると

お婆ちゃんの方は、なんでも出来る人だった。

開拓のアメリカで、働いて人生の半分を

アメリカで過ごした女性は

歩き方が違っていた。

60歳は過ぎていたはずであるが

背筋はピンとまっすぐだった。

レンガで内装した冷蔵庫の上段には

毎朝海辺の「氷」がバタコ(三輪トラック)で届けられてきていた。

牛馬の肉が塊で保管してあった。

食堂は地下室の上にあり

現代と同じようなダイニングセットが

昔ながらの大きな灰釜のある流し場と奇妙な組み合わせであった。

村の地元の奥さん方をまとめて、祭りなども

和紙を使った洋花で飾りつけをするのに

現在の文化教室のように、

女性たちの楽しいパーティとして

戦後の復活の生きがいづくりにもなっていた。

アメリカから持って帰ってきた電蓄のついたラジオは

夫人のしおれそうだった戦後を、やる気満々の女性サークルにしていった。

当然のことながら、

田畑も耕し、

赤色の球のついたネットを張った水田で、

祭りの時には「花をつくっていた夫人」たちは

もんぺ姿で、

赤い球のある所に、苗を差し込んでいた。

「私もやりたい!」お婆ちゃんに頼んだが、

「あんたを怪我させたㇼ、足に、虫でも吸いつかさせてしまったら

おかさんは、婆ちゃんが悪いと言って怒るだろうから、、、」」

子供の参加は

ケンもホロロに却下された。

母は、明治生まれで大学を卒業していたという事で

賢い人ではあったが、、、

知恵は無い方だったかもしれません。

同窓生には、山本直純さんのお母様とか

近衛家の、一般の大学を出られてから、

音楽大学入学を許されたという旧貴族の方とか、、、

私とは住む世界が違っていたような

エキゾチックな環境で、刈り上げ髪スタイルで

ブーツを履いて

自転車に乗っていた女子大時代がアルバムに残っている。

お婆ちゃんは、

「あんたのおかさんは、学校の先生とか、音楽をする人と同じで、

指揮は出来るけど、

何か頼んでも、ろくろく出来ることが無い!」

「梅干し漬けるとき、誘ってほしいというから、つくり方を説明しながら

干したり、洗ったり、又洗ったり、

大きな樹のたるに漬け込む前の、

樽の準備に時に、

「梅干しはつくるの大変だと解ったから」と言って、

途中から

あきらめてしまったんよ、、、アカンな~」

母の悪口とも、

途中でギブアップした母のわがままに

はらをたてているようだった。

子供ながらに、、、母の自分勝手な割り切りが目に見えるようだった。

お婆ちゃんが、

「女の子が居るのだから、、、囲炉裏にはやぐらをかぶして

火傷をさせないように、予防線を張りなさい。

あんたのお母さんは、嫉妬の渦の中にいるという事が解ってない!」

貧乏な心ほど、予期できない行動を起こすから、

発作的な事故は、未然に防いで

こんな苦しい時代には、羨望と尊敬と嫉妬は同居しているから

娘がとばっちりを受けないように

やぐらをかぶせて、

ストレス発散の

一瞬の≪悪魔の活躍≫を

封じ込めるというわけなのだった。

アメリカで暮らす日本女性の緊張感が伝わってくるような

貧富の差のある土地での配慮が足りない

哀しきインテリであった母は、

生涯、このような感情が理解できる女性ではなかった。

両親の目の前では丁重でも、親と離れた場所では

何かと、、、

「つい、、、わざと、、、あんたなんか、、、得ばっかりして、、、!」

小学校に通う階段で、何度も体当たりされて、、、

転びそうになったリ、

「ごめん。。。」と言いながらも「顔は意地悪く笑っていたㇼ、、、。」

「親が医者だから、得ばっかりしてる、、、!」

太宰治の作品に出てくる、、、耳元で、、、

「わざわざ!」と囁くような

大人子供が私は苦手であった。

婆ちゃんは、

「私だって、あんたのお母さんを見ると、特別待遇で腹が立つ時があるから、

他人で、しかも、明日のコメが無いという

一家心中を考えている人だって

いっぱいいるんだから、、、

無意識の贅沢は、恨まれるんよ、、、ね。

自慢のピアノを教えてもらう娘さんの手は

お母さんの宝物だったかもしれん。

避けがたい事故ではではあるが、、、

「ざまーみろ!、、、て、あんたは十字架にかけられたのかもしれないね、、、。」

「ふ~~~~ん。人の心って、寂しいね。」

でも、、、父には神様がついていて

17歳まで、7回の形成手術を受けたけれど、

「エリーゼの為に」や「ソナチネ」ぐらいなら、、、弾けるようになった。

「乙女の祈りだけは、、、オクターブの小指が1つの鍵盤だけ届かないけど、、、」

神様は私を見捨てなかった。

父母も、うっかりミスの事故として片づけたから

心の傷にはなりませんでした。

むしろ、、、手を火傷しなかったら、、、ピアノを強要されて、

己の才能ののなさに、、、留学先で思い知らされ、、、、発作的に飛び降りていたかもしれない。

それほど、、、私は音楽の才能が、、、はじめっからなかった。

「塞翁が馬」とは、、、このことである。

医師の素晴らしい腕に惚れ込んで、

自分の手を見るたびに、、、芸術だと思えるほど、、、感謝をしている。

婆ちゃんの見解は違っていたが、、、。

「人間って、、、貧乏な心」が「敵」だよね!。

こんこんと母に諭したのに

母は、「見ればわかる囲炉裏に

落ちるほど、子供らはお馬鹿さんではありません。」

せっかく、祖母が、

大工に頼んでつくってきた「やぐら」を

囲炉裏にかぶせないで、

廻りに座布団を置いて、語らいに使っていた。

准看の免許を取りに通っている女中さんの膝の上に

2歳の私が座っていた。

母は、囲炉裏を囲んで、

女中さんに縁談を世話したのだそうである。

2歳と言えばやっとミルクが離れた頃である

女中の膝から、娘は、真っ逆さまに囲炉裏に落ちた。

 

あの時、、、

母がお婆ちゃんの意見を聴いて、尊重して守っていたら

母が賢い人であったなら、、、

私はやけどをしなかっただろう。

母が謙虚な人であったなら

勤務してくれていて、自尊心も高いであろう未来の准看に

お見合いなど、、、進めるのはお門違いであったという事が

解りそうなものですよね。

医師は尊敬されていても、「医師の奥さん」という座には

決定権や、命令権や、特別の地位なんてないのですから、、、

外野が勤務スタッフの個人的な結婚を勧めるなんて、、、

「解雇されると、勘違いするのは当然です。」

悪気が無くても、、、一瞬頭が真っ白になり、

娘を抱きとめる手の手の力が抜けたとしか思えません。

傷は、身体の傷だけでいい!

私は婆ちゃんの言う事は、、、そういう事もゼロではないぐらいに考えて、

廻りを刺激しないように生きる知恵を戴きました。

母が、、、知恵はであっても、

「賢い人ではなかった」ことが

後半の人生の学びにはなりました。

 

お婆ちゃんの、、、経験からくる賢さを受け止めて、

愚痴は言うまい過ぎたことだから。

若さとは、、、傲慢で、うぬぼれで

若きが故にチヤチヤされることが、迷わせる。

老人の知恵ある経験の皺皺の顔を、

いぶし銀のような光だと気が付かないのだろうか?

30代半ばの母であるから、

過ちに気が付く賢さは無かったのかもしれません。

 

年寄りの経験からくる言葉は「知恵」であると

思うのですよね。

年寄りを、孫子ともっと接触できれば、

日本の文化の素のような、、、何かが伝わって

ハイカラさや、華やかさとは一味違った

隠された知恵が、伝わってゆくのではなかろうか?

 

例えば、、、着物の基本的な知恵は、

太っても、痩せても、、、一枚で足りる、、、不思議。

 

その知恵を洋服に取り入れれば

膨大な衣類は要らなくなるかもしれません。

自分自身が着るための

自分の延長線上にある服。

ジーパンなどはエデンの東で目から鱗の魅力を感じたものです。

消費生活とはまた別の文化が、

復活に役に立つかもしれませんね。

 

 

父が亡くなったとき、

私はまだ大学生でした。

54歳と言えば、壮年期ですが、

戦争から帰ってこれた父は、

身に付いた経験が総てだったような生き方をしていたのではなかろうか?

断捨離を

そのまま実行していたような父でした。

戦争からのPTSD様の精神の患者さんらは

診療所の2階を開放していたダンス教室に現れては

かこち顔も、緩んで回復していきました。

「ブルータンゴ」「イタリヤの庭」「南京豆うり」「アルゼンチンタンゴ」

思い出すと、懐かしくって、、、

もう一度、手回し蓄音機で聴いてみたい。

疎開地の村に

浮き沈みの極端だった明治、大正、昭和を生き抜いた人生の体験で

心まで磨かれたであろう小さな光を

戦後の人々に出来る医療の心を復興に役立てていたと信じている。

どんなびっくり事件でも動じない冷静な父の動きはどこで身に付いたのだろうか?

戦地で累々と横たわる命を見たという事ではなかったのだろうか?

人間の一生、、、54歳は若すぎる一生だったと思えるが、

疎開地での十数年は輝きの仕事だったと思いたい。

 

「東京で育って、戦争に行って、坊ちゃまから、総合病院の院長から

全てを喪った、、、

野戦病院の軍医から、

戦地の病院のスタッフに

西洋医学の外科を指導。

鉄砲の傷やら、爆破の傷の手当てを指導。

そして敗戦。

戦地まで、迎えに来てくれたお爺ちゃんは

子供三人を喪った娘夫婦を救おうと

捨て身の行動をしたことを、本人は自覚していたのだろうか?

連絡船で大陸まで、迎えに行った祖父だった。

「子供らの母の心」を癒すためにも

疎開地での医師をすることを手配していてくれたのでした。

爺ちゃんが町長をしていたあの時の疎開地は

70年たって、又、、、元の小さな村に戻っていた。

母が戦地から、疎開地に着いたとき

初めて白米を戴いたとき

涙を見せない人であったというが

米俵に持たれて泣いたと言っていました。

 

13年後、私たちは東京へ帰ってきました。

2年遅れて父も生まれ故郷の東京ではあるが、、、

市ヶ谷の自宅はもはや知らない町になっており

下町の大きなお寺の跡に、

15人ほどの入院に応じられる、診療所を開きました。」

そして8年後、、、仕事も軌道に乗り

兄も卒業したての内科医だった。

次男と私は薬剤師になるための大学生だった。

弟は、、、高校生、、、

まだ、復活の途中だった。

無理に無理が重なった父の頑張りは

戦場で鍛えられた頑張りだったのだろう、、、

 

ありがとう、、、お父さん、、、

 

もう。。。私たちを信じて、ゆっくり休んでください。

ここまでしてもらったのですから、、、

アルバイトでも何でもやって頑張るから

、、、ありがとう、、、お父さん。

前日まで、手術に携わり、翌朝眠るように穏やかに永眠していた。

仕事に使うもの以外は、、、なにもありませんでした。

小学生の私と次男の兄が、、、父を画いた画用紙の絵です。

 「シュウカツ」という文字が要らないほど、、、

我が身一つ、

腕一つ、

診療所の道具設備だけでした。

生きていてくれたら、、、100歳を超していますが、、、

その知恵は今生まれたようなフレッシュさで

静かに、、、

言っているように思えてくるこの頃です。

ピアノしか要らなかった母は

父の亡くなった後は本格的に

「よつば会」という

ピアノ教室を始め

81歳まで、毎年コンサートを開いていました。

国立音楽大学を卒業後、

戦前は東京都の女学校の音楽の先生をしていた母は、

50歳半ばから、亡くなる3日前まで現役でした。

父が亡くなった後、

高校生だった弟は

千葉大学の医学部に合格して、

団塊の世代の一人として

戦後の医学会に貢献できたと思います。

西銀座ドラックや、アメリカンフアマシーで

深夜業務の売り子のアルバイトをしながら

薬局を開設して生きることを考えたりしながら

家庭教師やら、、、2件も掛け持ちしながら

夏休みの教育実習の間は、

高校時代の同級生に家庭教師を臨時に担当してもらいながら

大學は、自分の力で、何とか卒業できました。

卒業旅行のお金が足りなくて、

父の後を継いだ兄に

3万円の補助を申し入れたところ、

返事は冷たくて、

学生結婚していたこともあり

奥さんに頭が上がらなくて、、、断られました。

織田信長の歴史あとのあたりを

川下りする学友の写真が、卒業アルバムに残っていますが

私の姿はありません。

昭和の時代は、女性が大学に行く事すら、、、

家族からは迷惑だと言われた時代でした。

母は明治生まれで国立音楽大学に通って

東京都で女学校の先生をしたのですから、、、すごい!!!

障害物競走のような人生だったかもしれませんね。

女性を、自分専用の御用達の奴隷のように

私物化する傾向の日本文化は

今日、令和の時代になっても、

女性の社会進出は世界の水準以下であることは

哀しむべきなのか?、、、

人の嫌がることや、

報われない日陰で

土手の穴をふさぐために頑張っている日本女性が居たからこそ

終戦後、敗戦国にはならずに頑張ってこれたのかもしれません。

子育ての為にも、社会参加も社会の活躍も大切ですが、

共働きの夫婦の家では

やっぱり、、、子供は、、、当たり前の幸せに気が付かないかもしれない。

昔の女性の根性は、、、違う!

81歳の母の葬儀は弟が、母の遺言のとおりに

全てを引き受けてくれました。

弟が居てくれたから、母は幸せだったと思います。

役に立たなかった「姉でした。」

北海道で、、、やむなく、、、成り行きで生きてきましたが

ミラトリガ、ミイラになった状態でした。

無給委時代の奨学金で大学院に通学していた主人は

博士号を取得したら、故郷の東京に帰り

亡き父の後を働いてくれるという

契約結婚であった。

主人が嘘をついたわけではなかったが

医学会は個人の都合でどうにでもなるというシステムではなかった。

北大を卒業させてもらって

北大から博士号を戴いた主人には

北海道に尽くすレールの上に居たという事です。

ごく自然に北海道で生きてゆく道が授かりました。

医師を連れてくるはずの私は

北海道に居点いてしまい、、、

母の晩年は3人の嫁さんたちの方が知っているという、、、

居場所のない葬式でしたが、

弟は、何十人と次から次にお焼香に来てくれるお弟子さん家族に

深々と、頭を下げながら、、、、

「僕は、、、生涯現役だった母が、たった3日間だけ寝て、父のもとに行きました。」

。。。。

息子として、「立派な人生だったと、生涯現役だった母に尊敬と、感謝で、、、」

弟は、国立がんセンターで、日本の画像診断の黎明期を

団塊の世代の、東芝や、大きお技師さんたちと走り切って

コロンブスが新大陸を発見したように

早期がんの発見に一時代献身出来たと、、、義姉として、感謝しかありません。

父の後ろ姿を観て育ち、

母の感性豊かな五感を遺伝でキャッチした能力は

画像診断という、

光の世界に、

医師という科学者が観て

医師にとって必要な画像を映し出すという研究は特殊な才能だと思いました。

感性と、科学と技術と、国立がんセンターの先輩方の理解が

世界の知る所となる

「国立がんセンターの黎明期に生き抜いたのだと、、、」

姉としては、

誰も気が付かないだろう、、、母の特殊な能力を遺伝でゲットした弟は

一代限りの、、、

誰も後を継げない、、、宝物の人生を、

本人は、気が付くことも無しに、

ひたすら画像診断の発展に人生をささげたと思っています。

弟の著作の教科書を使って、

息子も、画像診断医として、臨床に頑張っています。

がんセンターという巨大な存在になった今、

昭和40年代に、

検診研究センターの小さなコンクリーの建物が

見上げるような大きな築地のがんセンターになるまで、

我が家としては、全員が、弟とともに発展を観ていました。

弟をがんセンターに誘ってくださった市川平三郎先生は

弟と、囲碁を楽しんでくださったㇼしたそうで、

その出会いは「社会で出会った運命の人」だったようです。

その暖かなご指導で、才能が引き出されたと信じています。

ハーバード大学に居た時には

そこのドンにあたる先生が

「彼は、、肝、胆、膵の私の先生です。」と紹介してくれてからは

病院の廊下で出会う巨人の先生方が

ニコニコとあいさつをしてくれるようになり、

留学は多くの事を学べたと言っていました。

アメリカの学会の発表会場に

がんセンターの胃カメラの指導医を戴いていた兄が

アメリカの学会畳まで聴講に行き、

弟と、アメリカで合流したと言っていました。

私の「卒業旅行費」をけちる兄貴は

男の人生には、ずいぶんと思い切った散財をするものだと

男女の価値観に当分日本の女性は耐えねばならないと推測できますね。(**!

昭和、平成と燃焼した弟も

70歳代という、年齢になりましたね。

大きくなって世界に名声を成し遂げたがんセンターは

これからは、東京大学を始め、国立大学の先生方にとって

研究の舞台となってゆくのでしょうか?

核戦争廃絶を目指して、

これ以上「がん患者が増えない日本でありたいですね。世界も、同じ思いでしょうね。」

ストロンチュームの半減期は24000年前後だとか?

大洗の事故現場のレポートがPDSに掲載されていました。

世界がウランやストロンチュームの汚染時代になれば

やがて医学の大海の一滴として、、、

弟の生涯の検診の仕事も歯が立たなくなりますよね。

弟も誰も知らない歴史の波に消えてゆくのかもしれませんが

そのような地球にしないためにも、

がんセンターの権威ある学問力で、

後進国はじめ、各設備に走る国々に

地球汚染の結果の

「がんの発生率や、死亡率」で啓蒙してほしいと思いました。

振り返れば、同じ母の胎内から産まれたとは思えないほど、、、

姉は、がんに対しての認識も知識もありません。

私は、、、弟に、、、良性ではありましたが

ムチンの入った卵巣嚢腫を診断を受けました。

「良性だ」と言われたとき

翌日手術に踏み切りました。

もし、、、悪性のがんだったら、、、私は

手術はしないで、、、ターミナルの安らかな日々を選んでいたと思います。

翌日、北海道に帰って、主人の勤務病院で手術しました。

その時から、弟が、手術前に

この中に「ムチンが入っていて、ハチの巣のように仕切りがあって、、、」

たぶん大きさは何センチで、、、」

絵に描いてくれたのとそっくりの

病理の標本写真が主人を通して渡されたときには

画像診断は「魔法」のように、

読む医師の眼力で、実物そっくりの絵が、

病理所見の前に解るという事が

感動でした。

医療現場を離れると全く普通の叔父さんですよね、、、弟は。

個人的には、サラリーマンの家庭より質素でしたが

がんセンターというところに勤務したことは

本人も気が付かない、母の五感と

父の医師としての科学の眼が開花するには

最高の理解者が集まる所だったんだなと、、、

才能が、戦後の医学の復活と進歩に大きく役立ったことを

姉の私は、神様は居ると思いました。

 

「お母さん、、、あなたの時代に、運命の楽譜が日本に来たように。」

弟の仕事の見えない才能の偉大さを知るのは、

医師だけの能力者でも、

音楽家のだけの能力者だけでも、、、見抜けない、、、

すごいものがあった事を

私は信じています。

霧のように、ぼやけた初期の画像を

的確に読み取り、

東芝や、多くの技師の専門家と

寝る暇もなく、がんセンターの廊下で寝泊まりしながら

研究を重ね、画像を改良していったという事を

単行本で読みました。

東芝の創始者は、封建時代の旧き時代に

時計を創った人らしいですね。

NHKで、からくり人形や、時計から始まって

精密な医療機械にまで発展した東芝の名前が

日本においては、歴史になっているそうですね。

その末裔の魂の社員のスタッフと、

日本の画像時代は、歴史になって

きっと、、、ウエルカム医療博物館に残るかもしれませんね。

行ってきたんですよ、

ウエルカム医療博物館に!、、、

日本の画像診断の黎明期に生きた弟は

戦争を知らない「希望の新生児」として疎開地で生まれました。

父が疎開地で、、、戦争を知らない男の子を授かり、

甦っていったように、

母も、村全体も、疎開で来ていた3000人は

「医者に、、、医者の家に、、、男の子が生まれた!!!!!」

村中がお祝いに来てくれました。

可愛かった、、、

皆、あたらしい日本の夜明けを感じた。

私が、、、孤立していた北海道の暮らしの中で

弟という存在と、

TVや読売新聞に、朝日に、、、

掲載される弟に頑張らせていただいた。

かろうじて、、、医療に興味を持てた原因が自分にもあったとしたら、、、?

「自らが薬剤師であった事」が

医学への理解と興味と、感動と、驚きを伴いながら

痛みのない診断へ向かう弟の選んだ人生が輝いて思えたという事です。

 

子育てと、家事と、息子たちの進学の費用の足しにと

5年間「薬剤師」をした虎の子は、、、

我が子が「画像診断医」として育つのには多少は役には立ちました。

「叔父さんは神の域だよ、、、」

医学生の頃から、

がんセンターの叔父さんの指導を感心しながら、

研究棟を訪ねては、

僕には叔父さんがまぶしいと言っていた息子には

多くのヒントを授けてくれた叔父さんでした。

 

息子は、叔父さんとは違った道で

臨床医として、

叔父さんたちの開発した技を取得して

生きがいを持って生き生きと

ERのドクターヘリの飛んでくる患者さんと密着した部署で

貢献しています。

はた目には、、、医師はお金持ちだとか、、、

優雅だとか、、、、

風評被害の避けられない様々の条件が、足を引っ張ってきますが

我が家の、、、親子3代の医師を観るにつけて、、、

頑張りは、、、サッカーのシュートではありませんが、、、

「ハンパではない集中力」であろうと、、、伝わってくるものがあります。

45歳も、、、過ぎて、、、

家なし、車なし、医療以外の時間貧乏。

生きることに賢すぎる女性からは、条件的に却下!(**!

仕事さえあればという、、、母からは、、、寂しすぎる人生。

女房、子供を世話する暇が無いという事だけは解るから、

結婚をする意思のない息子ですが、、、

私の母の音楽性のようなひらめきの在る息子が

自分の遺伝子をこの世に残さないで

医師の仕事に捧げてしまい、

せっかくのユニークな

他人には見えない、感性が、

一代で終わってしまうかと思うと、

医師をするという行動に威儀を感じてくれて、

手伝う裏方に生きがいを感じてくれるような

家庭的な優しさや見返りを期待しないで

 

人生を応援してくれる、、、奇特な娘さんが現れない限り、

結婚はありえないという、、、

二人が引き合うという、若さだけが総てという時代。

天与の結婚シーズンのチャンスを逃してしまった息子は

自分を愛してくれる家庭が無いから、、、

100まで、、、生きろ!

そして、東京の婆ちゃんのように

3日寝て、苦しまずに旅に発て!」

聴こえてくるような気がする。

「働きかた改革の成立後も、、、その法律は届かない仕事場であることだけは確かです。」

母の葬式には、

戦後我が家に居候をしていた3姉妹が6人家族や5人家族で

母の眠る笑顔のそばに居て、

子供たちが騒いでいました。

弟の娘が大きな声で言いました。

「みなさん!!!!静かにしてください!!

おばあちゃまが眠れません!起きてしまいます。」

しんみりとした時間は無くて、

皆笑った。

居候だった従妹の姉妹は娘以上に娘だったようだ。

「伯母ちゃん、、、ありがとう、、、本当にありがとう、、、」

居候だった3姉妹の長女で

、大きな病院の息子と結婚して

イタリアンレストランを経営して、

ゴルフはシングルという、、、

セレブに成長した、、、かっての居候さんは

「社員連れて、北海道の貴女の家の近くの紅桜のお茶室に寄ったとき

よっぽど、電話しようと思ったんだけれど、、、出来なかったわ、、、

ごめんね、、、伯母ちゃんをとってしまっていたから。」

「。。。。。」

答えようがなかった。

母は、誰も私からとってしまう事は出来ません。

母は、フアッションナブルで

センスが良くて、

宝塚に入りたい、、、などと、

居候の環境で、華やかな夢に走る貴女が、好きだったのだと思いますよ。

理科系の私が、好きではなかっただけだと思います。

私は母が好きでしたが、、、

接点が無かったから、、、

居てくれるだけでよかった。

父の亡くなった後、

母が自分で働いたお金で購入したヤマハのグランドピアノと

アップライトのピアノが3台有った。

母が亡くなったとき、

このピアノは

お弟子さんに届けられた。

一台は老人ホームに行ったらしい。

母のピアノのキーが

象牙だったことに気が付いている人はいたのだろうか?

子供の頃に右手を火傷した私には

娘は右手を火傷していたから

グランドピアノは不要だと思ったのかもしれません。

弾きこなせるお弟子さんのもとにと、

ピアノは母が死んだ後も、、、生き続ける。

昔の人たちは、

知恵の塊のように

無駄な動きが無かったと、、、敬服するのです。

私が、、、死んだら、、、孫たちはきてくれるでしょうか?

滝野でクマの親子を遠くに観乍ら

私の事を誰も知らない北海道の地が、、、私を包んでくれるだろうか、、、?

医師を連れて行けなかった私には

故郷には居場所が無いから、、、

医者の家庭って

目に見えない、守るベースがあてがわれているように思います。

医師をすることを援助する以外の居場所は見つからないのが

医師の家に生まれて娘の宿命ですね。

女医になると、、、居場所が出来るかもしれませんが、、、

その時は家族としての居場所ではなくて、

医師としての居場所になるから、、、

今度はサポーターを求めて、

男性医師の10倍は頑張らないと、、、

男性社会の医療界は、、、どなたも、頑張るしかありません。

母のように、、、自分に生きると、、、

夫からは早く別れることになるかもしれませんね。

忠ならんとすれば,、、考ならず、、、

考ならんとすれば、、、

孤独な主婦の

閉じ込められたような家事の僕。

老人で、

見事に生きた人の知恵が

いただきたい

75歳の婆ちゃんのたわごとでした。」

 これは、、、日記です


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