花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

幸せという字を考えてみた

2019-09-16 02:52:51 | Weblog

幸せという状態はどんな状態なのか?

漢字をしばらく見つめていた。

土、、、立つ、、、¥計算とは違うようだ、、、辛い、、、という字も入っている。

上下に「+」という記号とも考えられる。

そうなると真ん中の_土台のような字は見たことが無い。

土が上下にひっくりかえって、日本の||縦線で結ばれている。

土を盛ったり、、、掘ったり、、、二人の人が助け合って立っているのかな?

 

人間も75歳になると「幸せ」って言う字が気になることが有る。

無我夢中で生きてきた戦後の昭和20年代から

75年間も経ったなんて、、、時間の速さに驚きますね。

生きるために生きた、、、戦後の助け合い。

食べ物のなかった時代、、、

栗の実を一生懸命剥いて、「栗色は栗にしかない、、、美味しい色!」

山に入って「ヤマモモの実を食べた子供のころ、、、」

夕方、小魚を餌に、ウグイが釣れた時

早朝の川で、昨日の夕方仕掛けた「ウナギ籠」に

ウナギがいっぱい入っていた時、、、

、、、、、、

子供の頃の幸せは笑顔とともに、いつも一緒だったような気がする。

幸せという事をことさら考えて生きていたわけではなかったが

終戦から、「もう一度日本!」と、

闇市や、屋台や、寅さんの世界があっちにも、こっちにもあった時代に

一握りの人たちだけが、世界の中の日本という事に気が付いていたようだった。

湯川秀樹博士が「ノーベル賞を授与されました。」

ノーベル賞って???何ですか?

「偉い!」という賞や(^^

野口英世とどっちが偉いんや?

、、、解らん???

それからは「秀樹」という名前の子供がいっぱいやった。

右往左往しながら、眼から鱗を落としながら歩いた75歳まで

「幸せ」という字も、

幸せという」ことも、

とりわけ考えていた時間が有ったことは記憶にない。

「生きる為に生きた、、、」

 

父親が戦場から帰ってきた「医師」だった。

傷痍軍人や、戦後のエポックの中で

青白きインテリが、吹き溜まりになっていた時代に

医師という職業は必要とされた。

疎開先の町立の医療施設には

毎日、早朝から、深夜まで、患者さんが来ていた。

疎開先自体にはもともと、100軒も家が有っただろうか?

疎開の人たちで、

にわかに

3000人ぐらいは

住んでいたと思い出の中の記憶である。

にわかに、村は騒がしくなり

祭りの太鼓も響く村に、私は幼い時代の「幸せをもらっていた」と

振り返ると、、、「幸せ」は

大勢の人々の「復興」への勢いの中にあったような気がしてきます。

                      つづく

医師の家に生まれてしまった以上は

自分が医師になるか、

医師と結婚して、医師の父の一人ぼっちの大変さを救えるか?

自分の生まれた子供を、

「医師になりたい」という希望を抱けるように

医師の息子が父親の日進月歩の医学のレベルが持てる環境をつくるか!?

普通ではない、、、孤独な切磋琢磨の父の背中を見ながら育てられた。

幸せとか、いい気になっている暇は無かった。

にわかにできた「疎開の町」の唯一の医師として、

夜も昼も、、、働く父は、

終戦からの復活を目指す勢いをつくり、健康を守り

精神を前向きに向かわせる大きな役割の中で生きていた。

父の、、、幸せって、、、なんだったのだろうか?

              つづく

 

 


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