聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★人生の本当の力は何か!

2006-10-18 | 「人生の幸せと平安」



 人間は、だれでも生きるための力(force、power、might、enegy)を求めています。どうしても、生きて行くためには力が必要なのです。ですから、「力」と名のつく言葉を並べて見るときりがありません。そして、人はそういう「力」と名のつくものを好むのであります。そして、「力」は日常生活のあらゆる場面や分野にわたって使われています。権力、体力、能力、学力、視力、聴力、握力、筋力、脚力、財力、精神力、理解力、集中力、判断力、指導力、免疫力、治癒力、技術力、迫力、活力、威力、火力、出力、資金力、電力、水力、労働力など、数えればきりがありません。政治や国家間でも、経済力、戦力、兵力、核兵器の力、政治的圧力、支配力、統率力‥‥etc。これらはほんの一部だけを無秩序に並べただけであります。

 これらは、物理的な面においても、日常生活においても、対人関係においても、教育の現場でも、医学の世界で、政治の世界でも、あらゆる分野で用いられているものの中から、僅かなものを記しただけです。そして、最近は、辞書にないような新しい言葉も使われるようになっています。最近は、老人力などという言葉も耳にします。それでは、神のみことばである聖書には、「力」について何を語っているのでしょうか。聖書の言葉を示しても、最初から納得される方はまずないのではないかと存じます。人間の考えと比較すると、あまりにもその相違が歴然としているからであります。

●「十字架のことば(キリストの十字架の福音)は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 」(Ⅰコリント人への手紙1:18)。

●「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 」(ローマ人への手紙1:16)。

●「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリント人への手紙1:21~24)。

●「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。 」(Ⅰコリント人への手紙2:4,5)。


 新約聖書の中で、パウロが語っているこれらの真理をみなさんは理解できるでしょうか。初めて読まれる方は、何のことかさっぱり分からないという方も多いのではないかと思います。聖書が語るところによれば、人類の始祖アダムがエデンの園で罪を犯した時以来、人間はみな(もちろん、私も含めて)罪を犯すようになり、すべての人は罪人であると断罪しています。そして、その罪の結果、今日のような混乱した無秩序な世界になってしまったのであります。頻発する殺人、いじめを苦にした子供の自殺など、悲しい事件も連日報道されています。また、多発する凶悪な犯罪、不道徳で淫乱な読み物やTV放送、また、インターネットの世界もしかりであります。

 聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが出来ず・・・。」(ローマ3:23)と語っていますが、人間は本来神の栄光を現す者として造られたのですが、罪を犯すことによって、神の栄光を受けるにふさわしくない者になったのであります。もし、神の人類に対する介入がなければ、人類は永遠の滅亡を刈り取り、永遠の地獄(火の池)の中で苦しまなければならない者となったのであります。しかし、愛なる神は、このようなあわれな罪人となってしまった人間を救うために救いの道を備えてくださったのであります。それこそが、神ご自身が遣わされた御子イエス・キリストの十字架の福音なのであります。これこそが、神が現された「神の力」なのであります。

 神の御子は、処女マリヤの胎に聖霊によって宿られ、あのユダヤの寒村ベツレヘムの馬小屋で誕生され、やがて30歳からの3年半の公生涯には、多くの愛と力を伴なった奇蹟を行われ、ご自身が神の御子であることを示された後、33歳の時に、全人類の罪のために身代わりとなって十字架で死なれた御方なのであります。ここに神の真実の愛が示されたのであります。だれでも、このキリストをご自分の個人的な救い主と信じるなら、罪と永遠の死後のさばきから救われるのであります。これ以外に、だれも救われる道はないと聖書は断言しています。神が用意してくださったこの十字架と復活こそ、まさに「神の力」なのであります。上記した三つの聖句は、みなこの十字架の福音こそ「神の力」であると言っているのであります。

 人生のすべての本当の力の根源は、この「キリストの十字架の福音」であり、これこそが「神の力」なのであります。この神の提供している福音を無視して、いかに人類が努力しても、世界の有能な指導者が知恵を出し合って協議しても、山積する諸問題は解決することは決してありません。また、医学がいかに進歩しても、それによって世界から病気を亡くすることはできないし、死の問題を解決することもできないのであります。地球の温暖化は益々進み、地球環境は悪化の一途を辿り、異常気象による地球規模の災害は益々拡大し、エゴイズムの塊となっってしまった人間は、世界中の賢者が集まって知恵を出し合っても、諸問題を解決することはできないのであります。

 しかし、キリストのい福音を信じて神に立ち返るなら、あなたの人生には希望があり、死後も永遠の天国に入ることができるのであります。そして、この地上の生涯においても、神から与えられる恵みと力によって生きることができるのです。パウロは、次のような確信に満ちたことばを語っています。どうぞ、これらのことばに耳を傾けてください。神に奉仕することも、神の恵みによる力によって行うことができるのであります。実に、生きる力は神の前に自らの罪と弱さを認め、神の力であるキリストの福音を信じ、すべてを神に信頼して生きる者に与えられるのであります。一つの国家の力においても、核兵器などを保有することによって力を誇示するようなことは神の前には愚かなことであることは言うまでもありません。

●「私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。」(エペソ人への手紙3:7~9)。

●「『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 」(Ⅱコリント人への手紙12:9,10)。

●「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。 」(ピリピ人への手紙4:12,13)。

●「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:28~31)。


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