聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★貧しくなられたキリスト

2006-10-11 | 「キリストの偉大なる生涯」



 ●「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 」(Ⅱコリント8:9)。

  キリストは富んでおられたお方でしたが、貧しくなってくださいました。キリストは天地万物をお造りになられた力ある創造者でしたが、被造物の姿をとってくださいました。永遠の昔から御父(父なる神)と共に親しく交わっておられたお方でしたが、貧しい乙女マリヤの胎に聖霊によって宿られ、人の姿をとって、しかも赤子としてこの世に誕生せられたのです。神の御子であられるならば、人々は宮殿のような所にご誕生になられる場所を用意するべきであったのに、ユダヤの寒村であったベツレヘムの薄汚い馬小屋で誕生せられ、飼葉桶に寝かせられました。少年時代は、イエスの父ヨセフが大工であったので、キリストは大工の子として忠実に働き、両親に仕えられました。キリストは何と貧しくなってくださったことでしょうか。

 どうしてそのようなことができたのか、本当に不思議なことですが、永遠の神の御子は時間を創造され、時間を支配しておられるお方なのに、人類の歴史の中に介入され、時間の中に入って来られました。そして、33年間という長い時間の中で生活なさいました。万物を今も保持しておられるお方なのに、この地上で33年間も旅人のようにして生活なさいました。何千億とう無数の星一つ一つを造られ、また、その星の軌道を正確に定められ、天体を造られたお方であるのに、その無数の星の中のたった一つの小さな星の一つである「地球」に、誕生せられたのです。そして、キリストは地球の引力を造られたお方ですが、引力が支配する地球上で生活なさいました。これは何と驚くべきことでしょう。これは何と不思議で、神秘的なことでしょうか。キリストは何と貧しくなってくださったことでしょうか。

 キリストはこの地上に、ご自分の住まいとして庭付きの立派な邸宅をお持ちになられたのではありませんでした。貧しい質素な家に住まわれたのです。ある時は、旅の途中に宿る場所もなく、野宿をされたことでしょう。ある時は、嵐の湖の小船の中で、船のともの方で、枕をして休んでおられました。人々の病いや煩いを癒されたり、お話をなさったりして、お疲れだったのでしょう。また、ある時は長旅でお疲れになられ、古井戸の側で腰を降ろして休んでおられました。そこにちょうど、水を汲みに来た婦人に、「わたしに水を飲ませてください。」と言われたのです。万物を造られたお方ですから、当然、海や川や湖や井戸の水をお造りになられたはずです。そのお方が、「わたしに水を飲ませてください。」と所望されたのです。キリストは何と貧しくなってくださったことでしょうか。

 キリストが神の御子であるならば、人に仕えられる生涯を送って当然ではないでしょうか。人間は、誰でも偉くなって人に仕えられるような生涯を送りたいと願うのではないでしょうあか。しかし、聖書は「人の子(キリスト)が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである。」(マタイ20:28)とありますように、キリストの生涯は人々に仕えるためのご生涯でありました。寝食を忘れるがごとくにして、イエス様は人々のために働かれました。ある時は、人々のために祈り、徹夜で祈り明かされました。イエス様ご自身がご自身について、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子(キリスト)には枕する所もありません。」(マタイ9:58)と仰せになられました。そのような貧しく多忙な日々を送られたのです。

 キリストがこの世を去られる臨終の時には、静かな家の暖かい布団の上で、静かに息を引き取ったのでしょうか。いいえ。決してそうではありません。キリストは、エルサレム郊外のゴルゴダ(「どくろ」と言われている場所)という丘の上で、十字架に貼り付けにされ、群集の嘲笑と罵倒と、渇きと激痛と、血を吐くような悶え苦しみの中で、息を引き取ったのです。キリストは死刑になるような重罪を犯したのでしょうか。いいえ。そうではありません。キリストの生涯の最後の3年半(公生涯)の間、キリストは病気や煩いで苦しんでいる人々の病を癒し、忌み嫌われていたらい病人を癒し、自分の罪に悩み苦しむ者に救いの手を差し伸べ、「良き訪れ」を述べ伝え、人々を愛することの他は何もしなかったのです。しかし、彼の最期は十字架上での処刑だったのです。

 「キリストが貧しくなられた」というのは、単に物質的に貧しくなられたことを意味していません。もちろん、そのような意味も含まれています。なぜなら、キリストは「私たちの弱さに同情できない方ではありません。」(ヘブル4:15)とありますように、貧しい人々を理解するためであります。しかし、ここで、「キリストが貧しくなられた」と言っているのは、それ以上の深い意味があります。創造者なる神の御子が被造物の姿をとられ、人に仕える僕となってへりくだられ、謙遜の限りを尽くされ、全く罪のない御方が罪人の一人のようにして、処刑場に引いて行かれ、罪人である私たちの身代わりに十字架で死んでくださったことであります。この尊い救い主イエス・キリストを信じる者には、永遠の滅びから救われるだけではなく、「神の子」という身分が与えられるのです。「富む者」というのは、物質的に豊になることを意味しません。罪が赦され、永遠のいのちを与えたられ、神の子とされ、永遠に主とともに天国に住むことのできる特権なのであります。

●「人の子(キリスト)が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである。」(マタイ20:28)。
 
●「すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。・・・・・・・・・・この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:3~12)。

●「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その(十字架の)死によって、悪魔という、死の力を持つ者(サタン)を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル人への手紙2:14,15)。


●「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ人への手紙2:6~11)。

 しかし、イエス・キリストは、この地上での33年間は貧しいご生涯でしたが、十字架の死後、三日目に復活され、その後40日間弟子たちとともにされ、やがて天に上げられ、今は輝かしい栄光のうちにあって、すべての名にまさる名を与えられておられるのであります。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためであると聖書は語っています。天にあるすべての富は、イエス・キリストのものであります。そして、キリストを信じる者たちはその霊的な富に与ることができるのであります。これは、なんとすばらしい恵みではありませんか?あなたも、キリストを信じて救われたいとは思われませんか?

◆(E-mail): goo1639@mail.goo.ne.jp 管理人:「北国のこひつじ」 

★☆●☆★●★☆●☆★●★☆●☆★●★☆