聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★晩秋と人生の儚さ

2006-10-26 | 「人生と孤独」



 ●「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。 」(Ⅰペテロ1:24,25)。

 北国では日毎に秋が深まり、朝夕はめっきりと冷え込む季節となりました。しかし、黄色、橙色、深紅の紅色、緋色など、色とりどりの鮮やかな美しい紅葉の葉も、やがて 寒い木枯らしに吹き散らされて晩秋から初冬へ駆け足に 移って行くのです。 冬枯れの時が、間もなく訪れようとしている晩秋の物憂いこの季節は、どなたも何か人生の孤独とか、空虚で儚い寂しさを感じるのではないでしょうか。また、ご年配の方であれば、ご自分の人生をこの晩秋から初冬にかけての季節に重ね合わせてお考えになることもあると思いますが、いかがでしょうか。

 冒頭に記しました聖句のように、人生は一時はどんなに繁栄しているように見えても、それは、みな草の花のようであるというのです。「草はしおれ、花は散る。」のです。人間の一生も必ず散る時が来るのです。春や夏に咲く花々も美しく咲きますが、しばらくすると、枯れて散ってしまいます。秋の美しい紅葉の葉の一枚一枚が初冬の木枯らしに吹き飛ばされてしまうように、人の生涯もどんなに栄えても散ってしまうときが来るのです。人生の晩年も冬枯れの木々の葉っぱのように感じることはありませんか?かつて、モーセは人生の儚さを想い、次のように詩(うた)っています。

●「あなた(神)が人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます・・・・・・・・私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(詩篇90:5~6) 。

 一体、人間はなぜ孤独を感じるのでしょうか。孤独、空しさが何処から来ているのかということを深く掘り下げて考えていく時、私たち人間は実は、肉体や精紳、心を持っているのみではなく、霊的な側面を持っている者であることを教えられるのであります。神様は人を造られた時、霊と魂を持つ者として造られました。しかし、殆どの人々は、体や心を満たすことばかりに人生を費やしていて、魂を枯渇させるといることに気づかないでいるのです。ですから、どんなに表面的には有意義で繁栄している生活をしていても、心の奥底にある孤独感と空虚感が消えることはないのです。あなたの魂の奥底で真に求めているお方は、実は神様(創造者)であることを、どうかお知りになっていただきたいと思います。

 神様のみがあなたの内側の深い渇きと心の空洞を満たす事が出来るお方なのであります。もともと神様は私たち人間が神様との個人的な交わりを持つ存在としてお造りになられたのです。神様に背を向けた人生を私たちが送ろうとするとき、取り去ることのできない、神様以外には決して埋めることのできない空洞があるのをあなたは発見します。アウグスチヌスが、何世紀も前に語った次のような有名なことばがあります。「神様、あなたはあなたご自身のために私たちをお造りになりました。私たちの心は、あなた御自身に自らの安らぎを見出すまでは、真の平安を得ることはありません。」とのことばは真実です。
 
 自分の心の内側の思いや動機を深く探るならば、今まで自分が考えていたほどには、良い人間ではなく、醜く汚れた思いが満ちていることを知らされて愕然とするのを否むことができません。しかし、聖書が語っている偉大な真理は、神様は私たちを新しく造り変えたいと願っておられるということです。主イエス様は私たちの外側の行動を変えるというだけではなく、内側の心の奥深いところの思いをも変えることがお出来になるお方なのです。主イエス様は、人は「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」(マタイ12:34,35)と言われました。私たち人間は神の前にはすべての人が罪人であることを聖書は明確に語っています。

 このような罪に満ちた人生から抜け出すには、まず、あなたの人生をキリストに明け渡すことです。あなたの心と思いの中に、キリストに入ってくださる様にお願いすることです。そして、毎日キリストと共に歩むことを学び、キリストによって人生が満たされることを経験することなのです。あなたはバケツに長い間溜まって、もう臭くなってしまっている水を見た事があると思います。どの様にしてバケツをきれいに出来るのでしょうか。それは、その汚く臭くなってしまっている水を捨ててしまい、そのバケツをきれいに洗うことによってです。そして、新しい新鮮な水を入れるのです。

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」(Ⅱコリント5:17)。

 これこそ、キリストが私たちのためにして下さることなのです。私たちは、キリストに自分の人生を委ね、聖書のみ言葉によって心を満たすことが何よりも優先しなければならないことであり、大切なことなのです。私たちは、神から離れ、神に背を向け、神に反逆した自己中心的な生活をして来ました。しかし、愛に満ちた神は、このような罪深い者たちのために、ご自身のたったひとりの御子イエス・キリストを救い主として、この世に遣わしてくださいました。罪のない聖よい33年間の地上の生活を送られたイエス様は、その生涯の最後に十字架に架かって、身代わりに死んでくださり、また三日目に復活されて、今も生きていられるあなたの救い主です。

●「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 」(Ⅱコリント4:16~18)。

 あの大使徒パウロは、人生の晩年を迎え、加齢と共に体が衰えても、決して意気消沈したり、勇気を失うことはありませんでした。絶望したり、希望を失うこともありませんでした。益々、キリストの再臨という輝かしい希望で胸を膨らませたのです。あなたも、キリストを信じるなら、パウロと同じようになれるのです。若い時はみな希望と夢があり、力もあります。しかし、年を重ねる毎に体は衰え、元気がなくなり、未来に対して明るい希望をもつことができなくなります。しかし、クリスチャンは違います。益々、天の故郷を思い、希望に輝くのです。お若い方も、是非、今のうちに死を迎える備えをなさってください。

●「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。 」(伝道者の書12:1)。

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