聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★「目からうろこが落ちる」

2006-06-30 | 「聖書と人生」
 
              

●「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。・・・・」(使徒の働き9:18)。

 みなさんは、「目からうろこが落ちる。」ということばをご存じだと思います。また、そのようなことばを用いたことがおありではないでしょうか。あることをきっかけにして、ものごとの真相や本質が急に分かるようになり、ものごとの実態が明らかになったような時などに、「目からうろこが落ちた!」などと表現することがあるのです。人間の目には鱗(うろこ)なんてついていないのに、どうしてこのような言い方をするのだろうと思ったことはありませんか。また、日本人の多くがこのことばは、日本や中国の故事などから来たことばだと思い込んでおられるかもしれませんが、実はこの語源は「聖書」からきていることをご存じだったでしょうか。

 新約聖書の「使徒の働き9章」には、パウロの回心に関連して、次のような内容のことが書かれています。頭脳明晰で有能な学徒であり、当時のユダヤ人社会から将来を嘱望されていた青年サウロ(後の使徒パウロ)は、当時、十字架に架けられて死んだイエスをキリスト(救い主)と信じるクリスチャンたちに憎悪の念を抱き、キリスト迫害に加担していたわけですが、非常な怒りと殺害の意に燃えてエルサレムからダマスコという町に向かって旅をしていたのです。青年サウロは、イエスを信じるというクリスチャンがユダヤ教のしきたりを破ったりすることを教えていると言うことを聞き、我慢が出来ず、クリスチャンであれば、男でも女でも見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコの町に向かって旅をしていたのです。

 サウロの行動は、自分は神の前に正しいことをしているという確信と正義感に満ちたものであったのですが、彼が道を進んで行って、ダマスコの町の近くまで来たとき、突然、天からの光(復活されたキリストの栄光)が彼を巡り照らしたのです。 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞きました。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 との答えがありました。そして、サウロは地面から立ち上がりましたが、目は開いていても何も見えなくなっていました。そこで同行していた人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行ったのです。

 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしませんでした。さて、ダマスコの町にはアナニヤという弟子がいたのですが、神はアナニヤに、幻の中で、「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」と命じました。しかし、アナニヤは神に対して、サウロがエルサレムで、クリスチャンたちにどんなにひどいことをしたかを訴えました。 しかし、神は彼に次のように言われました。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」と答えられたのです。それ以後のことは聖書に次のように記されています。

●「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう祈った。『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお表われになった主イエスが、わたしを遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。』するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がってバプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。」(使徒の働き9:17~20)。

 「サウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった。」とありますが、その前に天からの光に圧倒され目が見えなかった3日間の闇の中にいた間、彼は飲み食いもせず祈っていたのですが、この時まで闇の中に生きていたサウロの人生を180度方向転換させ、回心に導き、キリストの喜びの証人へと変えたのは、明らかに天からの光でありました。この3日間の暗闇、神がご介入された神秘的な時間にサウロの心の中に何かが起こり、その後の彼の生涯を変えたことは事実であります。人生の暗闇と言えるような状態の中にいるときこそ、神が特別にその人の人生に介入され、物事の実態が見え、新しい生き方に出会うチャンスといして神が与えておられることをこの言葉は教えているのではないでしょうか。

 サウロの目からうろこのようなものが落ちたとあるのですが、英訳をみると、「fish scales(うろこ)」と書かれています。うろこはキリストの本当の姿を見抜けない象徴的なものとして表されているように思われますが、この後、迫害者サウロが回心し、使徒パウロとしてキリストの福音を宣べ伝える伝道者となったことからも、人生の覚醒と転換を表現した言葉として、今日に伝わったのではないでしょうか。しかし最近では、もっと身近に、何か新しい事実に気づいた時などに、「なるほど、そういうことだったのですか。”目からうろこが落ちた”ような心境ですね!」などと使われることもありますね。しかし人生において、何よりも大切なことは、聖書のみことばの光に照らされて、あなたの心の”目からうろこが落ちる”という経験をすることです。

●「わたし(キリスト)は、この民と異邦人との中からあなた(パウロ)を救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。 」(使徒の働き26:17,18)。

●「‥‥この世の神(サタン:悪魔)が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。 『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(Ⅱコリント4:4~6)。


 このみことばは、異邦人のための福音伝道者として遣わされた使徒パウロが、当時のギリシヤのコリントの町の人たちに書いた手紙の一部ですが、生まれつきの人間はみなサタンの働きによって霊的に盲目にさせられていて、自分自身のことだけでなく、神のこともキリストの栄光の福音も分からなくなっており、天からの光(神のみことば:聖書)によらなければ、霊の目が開かれないのだと語っているのです。どうか、あなたが、神の言葉である聖書をお読みになられ、自らの罪をお認めになられ、神が遣わされた御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架で身代わりに死なれ、三日目に復活された御方であることを信じて神様からの恵みによる救いを受けることが出来ますように。

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