聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★何かが欠けている人生

2005-08-11 | 「人生の幸せと平安」




  残暑お見舞い申し上げます。私たちは、日々の多忙な生活の中で、日頃どなたでも自分の人生には、今何かが欠けているものがあると、痛感する時があるのではないでしょうか。もちろん、ある方々は仕事も充実し、家庭も円満で、特に病気でもなく、体も健康で満足していると感じているおられる方もおられると思います。しかし、それでも、ふっと「私の人生はこれでいいのだろうか・・・・・。」と空虚な気持ちになることがないでしょうか。新約聖書に出て来る一人の人物も、多分、そんな一人ではなかったかと思います。

●「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 」(ルカの福音書19:3~6)。
 上に記したのは、ルカの福音書19章の一部分ですが、ここに登場するザアカイさんは、日曜学校の子供たちでも知っている有名な人物です。私にとっては、ザアカイさんは聖書の中に出て来る人たちの中でも、特に親しみを覚える人物の一人であります。ザアカイさんはエリコという町に住んでいた取税人のかしらで金持ちでありました。当時はユダヤはローマの支配下にあって、取税人というのは、ローマ人の税金取立て請負人に使役され、その手先となって、税金取立てを職業としていた人たちであります。しかし、ユダヤの一般の人からは嫌われ、憎まれ、異邦人(ユダヤ人以外の外国人)のように見なされていたのです。子供の時には「チビのザーカ~イ!チビのザーカ~イ!」とからかわれ、大人になってからは、売国奴のように言われ、彼は孤独な寂しい人生を送っていた人ではないでしょうか。

 ザアカイさんは、多くの富を得て、贅沢な生活をしていたのですが、心の中に何か空しさを感じていました。それが、一体何であるのか分かりませんでしたが、ザアカイさんは、自分の人生に何かが欠けていることを感じていたのです。自分の心の中にポッカリと大きな穴が空いているような、そんな感じがしていたのです。どんなに財を貯めても、庭付きの大きな邸宅を持っても、立派な家具をそろえて何不自由ない生活をしていても少しも幸福感に浸ることができなかったのであります。そして、何をしてもその心の中の空しい気持ちは消えませんでした。ザアカイさんは、長い間お金さえあればきっと幸福になれると、そう堅く信じて生きて来たのです。

 しかし、彼の心の中は、いつも孤独で、満たされませんでした。お金というものは人を幸せにするものと考えて生きておられる方が多いと思いますが、決してそうではないことを教えられるのであります。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる」(伝道者の書5:10~12)とありますように、人は財産が増すことによって、幸福になると錯覚しがちですが、かえって悩みや心配が増えるのが現実ではないでしょうか。貧しい人は失うものもないので、それだけ悩みも少ないわけです。

 さて、イエス様がエリコの町をお通りになられると知ったザアカイさんがいちじく桑の木に登ってまで、イエス様を見ようとしたのは、半分は好奇心からであったでしょうが、彼が心の渇きを満たす「何か」を求めていたこともまた事実であります。自分に何かが欠けていると気づいてそれを悟る人は幸いな人だと思います。欠けていると本当に分かった人はその「何か」を埋めるために、真剣に探し求める人だと思います。彼が失っていたのは、一つには、人との真実な交わりではなかったかと思います。

 人間というのは「対物」ではなく、「対人関係」の中に生かされている存在であります。ですから、どんなに沢山の物を所有していても、対人関係がうまく行かないと本当の幸福な生活はないのであります。しかし、ザアカイさんとの交わりを望む物好きな人はエリコの町には一人もいませんでした。それは、当然であったと思います。ローマ政府から委託されてユダヤの同胞から不正に税金を取り立てる、売国奴のようなザアカイさんなどと交際したいという人など誰もいなかったとしても不思議ではありません。

 しかし、イエス・キリストだけは違っていました。こんな罪深いザアカイさんにも暖かい愛の配慮をしてくださり、彼を罪の生活から救い出し、彼との交わりを求めておられたのであります。頑なな彼の心が開かれて、人間としての真実な生き方ができるようになるためにも、イエス様はザアカイさんに近づかれたのです。ザアカイさんの心の中は冷たく貝のように固く閉じていましたが、しかし、イエス様はザアカイさんを愛しておられ、彼に近づいてくださいました。ザアカイさんは、自分は知られずに木に登ってこっそりとイエス様を見ようとしたのです。しかし、こんなザアカイさんに主イエス様は、そしりを受けるのも厭わずに、交わりを求めて彼の家の客となられたのです。

 イエス様が木の上にいたザアカイさんに向かって、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)と言われたとき、ザアカイさんは、急いで降りて来て、大喜びでイエス様を自分の家に迎えたのは、彼がいかに孤独であり、また、真実な何かを探し求めていたかを物語っています。そして、イエス様がザアカイさんに与えたものは、彼が失っていた根源的なものである”神との交わり”であったのであります。人間の心の空洞を埋めるもの、心の渇きを満たすものは、イエス・キリストご自身であり、それ以外にないのであります。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」とのイエス様のおことばは、その時の思いつきなどではなく、以前から計画されていたことであることを示しています。愛なる神様は一人一人の人生に深い愛情をもってかかわってくださる方なのです。

「人の心の中には神が造った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることができない。」という、パスカルの有名な言葉があります。私たちは、誰でも自分が神から離れ、迷っている失われた罪人であり、イエス様を通して真の神に立ち返るまで本当の満足と平安を得ることができない存在なのです。そして、そのような救いと真の幸福を与えるためにこそ、イエス様はみ父のみもとから人の姿を取って来られ、罪のない生涯の後、十字架にかかって死んでくださり、よみがえってくださった方なのです。

●「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来られたのです。」(ルカの福音書19:9)。

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