聖書から人生を考えよう

私のプログへようこそ!!
お互いに、たった一度だけの人生です。
聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★神の愛の告白

2005-08-20 | 「神の愛について」


●「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)。

  旧約聖書イザヤ書43章に書かれているのは、神様ご自身が贖ったイスラエルの民に対して語っておられることばですが、これは、また神様と私たちとの関係でもあります。この4節のことばは、神様の私たちに対する「愛の告白」のことばであります。聖書は、旧約と新約合わせて全部で66巻、1.189章ですが、すべてが私たちに対する神様の愛の告白であり、神様からの長い長いラブ・レターであると言っても過言ではありません。みさなんも、これほで長いラブ・レターをもらったことも書いたこともないと思います。(私事で恐縮ですが、私が今までに一番長い手紙を書いたのは、自分がキリストを信じて間もなく、母親に宛てた手紙ですが、便箋24枚でした。神様のこんな大きな愛があるならまず苦労して自分を育ててくれた母親に伝えたいと思ったからです。)

 神の全人類に対する愛がどれほど大きなものであるかを考えてみたいと思います。

【1】まず第一に、神様はだれも彼も無条件に私たち一人一人に「あなたは高価で尊い」と言って愛してくださるのです。

 神様の愛は無条件の愛であります。現代の物質文明の社会では、人間の価値も物と同じように扱われてしまいます。有能で他人よりも実績を多く積んだ人は価値のある人と見なされるのです。裏返して見ると、貧しい人、地位の低い人、病弱であったり、身体に障害を持っている人、そして、年老いて働けない人は価値のない者としてゴミのように捨てられてしまうのです。また、この世の中の進歩について行けない人、学校の授業について行けないで落ちこぼれたような人は価値のない者とみなされてしまいます。しかし、聖書の神様はそのような能力などには関係なく、だれかれの区別なく、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と言ってくださるのです。

 人間の愛は、「金持ちだから」とか、「顔が美しいから」とか、「仕事ができるから」など、自己中心的な条件付きの愛でありますが、神様は何の条件もつけずに、私たちを高価で尊い存在として、愛してくださり、受け入れてくださるのであります。なぜかと言いますと、神様は、すべての人間を一人一人、ご自身の愛の交わりの対象として、人格的な存在として造られたからです。「わたしの目には‥‥」とあります。たとい、他人が自分を認めてくれなくても、神の目には尊い価値ある存在として、受け入れてくださるのです。聖書の別な箇所には「すべての人は迷い出て、、みな、ともに無益な者となった。」(ローマ人への手紙3:12)と書かれてありますが、しかし、それでもなお神様は私たちを愛してくださり、無益な者を有益な者に変えてくださる愛の御方なのです。

【2】次に、神様は私たち一人一人を「わたしは、あなたを愛しています。」と言って個人的に愛してくださる方であります。

 神様は十把一からげにして「あまたがたを」と言われるのではなく、「わたしは、あなたを愛しています。」と言われます。「わたしは、あなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)とあります。神様は、創造の神、贖いの神で、親がわが子の名を呼ぶように、夫が妻の名を呼ぶように、私たちの名前を呼んでご自分の者として愛してくださる方であります。神様は親しみを込めて、個人的に私たちの名前を呼んで救い出し、ご自身の栄光のために用いてくださるのです。アブラハム、モーセ、サムエル、エリヤ、マリヤ、ザアカイ、サウロなど‥‥みな、神様から、個人的に名前を呼ばれました。

 この世の中の不幸な問題の殆どは、愛の欠如によるものです。そして、自分はだれかに個人的に愛されているという実感がないときに、人は孤独を感じるのです。親に愛されている子供も、夫に愛されている妻も実に幸せそうではありませんか。そのように、神様に個人的に愛されているという実感は、その人の心を幸福感で満たします。天地万物を創造され、宇宙を支配しておられる全能の神様が、私たち一人一人に関心を持っておられるだけでも驚きですが、そのような偉大な御方が私たちを個人的に愛しておられるということは、さらに驚くべきことではないでしょうか。

【3】次に、その神の愛は、抽象的なものではなく、現実に人類の歴史の中に表された愛です。
 それを証明する聖書のみことばは、聖書にたくさんありますが、もっとも代表的な聖句は次のみことばです。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16)。

 「愛」ということばは、形がなく、抽象的なものですが、その形のないものの本質を表すのに表現が必要であります。神様の愛は、絵に描いたボタモチのようなものではなく、ご自身のひとり子イエス・キリストによって具体的に私たちに表された現実の愛であります。口先で「愛しています」と言っても、それが目に見える行いとなってあらわさなければ、そのことばは、空しいものではないでしょうか。しかし、神様はご自身から離れて永遠の滅びに向かっている人間を愛して、そのひとり子イエス・キリストを全人類の救い主として遣わされたのです。そして、キリストは、十字架で私たちの罪のために身代わりに死んでくださったのです。

 「そのひとり子をお与えになったほどに‥‥」とあります。贈りものは、今、本当に相手にとって何が必要であるかを考えて決めるのです。神様からのプレゼントは、神様のひとり子であります。これは、私たちに対する最高の贈りものであり、大きな犠牲を伴なったものなのです。愛の大きさは、何によって測ることができるでしょうか。それは、相手のために払われる犠牲の大きさによって測ることができます。キリストは、あなたや私のためにご自身のいのちを捨ててくださいました。いのちよりも価値のあるものはありません。

●「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネの福音書15:13)。

●「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(ヨハネの第一の手紙3;16)。


 神様のこのような真実で命がけの愛の告白に対して、私たちは無関心でいてよいのでしょうか。神の愛はあなたに強く迫っています。真実な愛であれば、自分が相手に愛を告白したならば、当然、相手にその愛を信じて受け入れてほしいと願うのではないでしょうか。神の愛も同様であります。神様はあなたからの真実な応答を期待しておられることは間違いのない事実です。




最新の画像もっと見る