聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★聖書の奇蹟について

2005-08-04 | 「聖書について」

 

多くの方から、「聖書に記されている”奇蹟”は非科学的ではないですか?」との質問を受けることがあります。そして、その聖書の「奇蹟」の記事につまずいて、聖書を信じることができないとか、「聖書に奇蹟の記事がなければ、信じることができるのだけれどもね・・・」という方もおられます。私個人のことで恐縮ですが、私は若い頃、聖書の神とキリストを信じるのに、奇蹟の記事は何のつまづきにもならなかったと言っても過言でないと思います。ところで、「奇蹟とは何か」とうことですが、公辞林では、「常識では考えられない不思議な出来事」と書かれています。もう少し別な言い方をすれば、「奇蹟とは、既に知られているところの自然の法則に反しているような方法で起こる出来事」と定義付けることができるかと思います。聖書開巻冒頭の、最初の1節の「初めに、神が天と地を創造した。」という全知全能の神を信じることができるならば、聖書中の奇蹟を信じることは、それほど大きな障害とはならないのではないでしょうか。
 
 たとえば、宇宙のことを考えますと、地球は太陽の周りを一日一回自転しながら一年で一回転します。そして、この宇宙にはその他様々な自然法則が存在します。これらの法則は偶然に出来たのではなく、その背後にそれを設計し造った方(創造者)がおられるからであります。この立法者であられる神は、時計師が時計の針を思いのままに進ませたり、止めたり、遅らせたりすることができるように、神が創造者であり全能者であるならば、ご自身の意志に従ってご自身で定めた自然の法則に従う働きを一時的に進ませたり、止めたりすることも、また、全く新たな創造をなさることも自由自在なはずであります。この神にとっては普通の、しかし人間にとっては異常で不思議に見える神の行為が「奇蹟」と呼ばれているのです。通常の摂理においては、神はこの世界に自ら与えられた法則性を用いられますが、「奇蹟」においては、これらの法則を超え、また、それらの法則に反して自由に行動されるのです。

 聖書には、イエス・キリストが神と等しい御方であり神の御子であられることは、何度も繰り返し述べられています。その中の二、三のみことばを列挙します。

●「初めに、ことば(キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方(キリスト)によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 」(ヨハネの福音書1:1~3)。

●「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子(キリスト)によって造られたのです。万物は、御子(キリスト)によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ人への手紙1:16~17)。

●「・・・・・神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」(ヘブル人への手紙1:2,3)。
 
 新約聖書の福音書には、キリストが盲人の目を開けたり、手足の不自由な人を癒されたり、らい病人を癒されたり、一瞬にして水をぶどう酒に変えられたり、荒れ狂っている嵐に向かって「黙れ、静まれ。」と一喝して大凪にしたり、死人をよみがえらせたり、荒れている湖の上を歩かれたり、その他数々の奇蹟を行われたことが記されています。もし、キリストが聖書が語るとおり、神の御子であるならば、このようなことを行ったとしても少しも不合理な出来事ではないのです。もし、キリストが、神の御子であり、神と等しい方であると認めるならば、「キリストが湖の上を歩くことは、畳屋がタタミの上を歩くより簡単なことである。」と言った人がいましたがまさにそのとおりではないでしょうか。聖書はキリストは神の御子であると語っているのに、もし、キリストが奇蹟の一つも行えないようなお方であるなら、普通の人間と一体どこに違いがあるのでしょうか。

 さて、これらの奇蹟は、時計の針を進めたり、止めたりしてもそれが一時的なので、時計の法則を破ることがないように、神が定めた自然法則を破るものではありません。そして、聖書を調べるならば、神は無秩序にいつでも奇蹟を行われたのではなく、聖書にある奇蹟は大体四つの時期に分類されることが分かります。(1)神の民がエジプトから救い出され、カナンに定住した時期。(2)預言者エリヤとエリシャが神の御名のために働いた時期。(3)神の民がバビロンに捕囚となっていて、神が御自身の力が異教の偶像の神々よりも優れていることを示された時期。(4)約2000年前、イエス・キリストがこの地上に来られ、ご自身が神の御子であると証しされた時期。もちろん、その他の時期にも奇蹟はありましたが、ほとんどの奇蹟はこの四つの時期に行われています。そして、これらの時期はみなメシヤによる人類救済と関連した出来事であって、何の意味もなくなされたものではないのです。

 また、福音書に記されている奇蹟は、単に人々の好奇心を満たしたり、人々を惑わすために行われたものではなく、繰り返し述べますが、特にヨハネの福音書に書かれているように、イエスが真の救い主であり、神の御子であることを示す「しるし」(証拠)として行われたものであります。また、奇蹟は単に不思議な出来事であったというよりも、イエス・キリストのわざを通して、神のあわれみと愛と恵みなどの御性質が啓示されたものであるということが言えると思います。また、キリストの復活昇天後、使徒たちによって奇蹟が行われた時期がありましたが、これも神の御霊の力が教会(ギリシャ語でエクレシャ:「召し出された者の集まり」の意味で建築物や団体を示していません)に現存していることの証しとして一時的に行われたものです。

 ある人たちは、「では、何故、今日奇蹟が行われないのか?」と尋ねます。それは、もし神が常に自然法則を超えて働き、奇蹟を一種の日常茶飯事として行ったとしたら、この世界は大混乱に陥り、人々は深刻な事態に陥ることは明白であります。自然法則と秩序の全体系の基礎は危うくなり、人間(科学者)はその法則や秩序を学んだり研究する気も起こらなくなるでしょう。歴史的には、確かに奇蹟が行われました。しかしそれは、最も重要な事柄である救いの計画においてです。新約聖書に見られる奇蹟は、ヨハネが「しるし」と呼んでいるように、イエスが救い主であることを示す点に、重要な目的があったのです。しかし、今日、神の救いのご計画は成就しました。聖書の中心はイエス・キリストであり、キリストの生涯のクライマックスは十字架と復活のみわざであります。今の時代も、神(キリスト)は、同じ全能の力を持っておられ、奇蹟を行う力を持っておられますが、神はむやみやたらに、意味もなく奇蹟を行われる御方ではありません。

 たとえば、神は、三重苦のヘレン・ケラーを、奇蹟をもって癒すことも出来たと思います。しかし、神はご自身の深い摂理とみこころによって、奇蹟を用いて彼女を癒すことはなさいませんでした。そして、その大きな身体的障害に対して彼女が克服して行く姿は、自分にとっても、同様の苦しみにある人たちにとっても、大きな感動を与え、はるかにすばらしい偉大な、まさに奇跡的な結果をもたらしたことは周知の事実であります。このように、現代において、奇蹟は必ずしも最上の問題解決法ではないことに気づかれると思います。また、人が奇蹟によって重い病気が癒されたとしても、必ず、再び「死」に直面しなければなりません。その死の問題の解決なしに真の救いと幸福はないのであります。人生において、最も大切なことは、イエス・キリストの十字架と復活の福音を知り、彼を信じて永遠の滅びから救われることなのです。

 人々は、このような記事は現代の科学の時代に全く馬鹿げており、非科学的で信じられないというのです。しかし、神の「奇蹟」は、非科学的というよりも超科学的なことであります。科学というのは、時代と共に変遷し、修正されて行くものであります。50年前の科学で正しいされていたことも現代の科学では、間違いであると証明されることもあるでしょう。また、現在、正しいと思っている科学も20年後にはもう古いものとして捨てられるかもしれません。多くの人は、科学万能の時代が到来したかのような錯覚に陥っているのではないでしょうか。キリストが、神の御子であり、神と等しい全能者であるとお認めになられるならば、キリストが湖の上を歩くことは、何ら問題のないことであると理解できるのではないでしょうか。

 2000年の時間を越えて現代に生きる人たちにとっては、キリストの奇蹟は信じ難い事のようですが、キリストが創造主であり神であられることを信じるならば、人間の常識を超えた事を行ったとしても何の不思議もないと言えるのではないでしょうか。神のみこころによってなされた聖書の「奇蹟」を現代の科学によって証明する必要もないのです。これは、人間の理性と人知を超えた超科学的な事実であります。現代の科学で証明できないことはすべて否定するという論理は、科学を過信した矛盾した結論であります。あなたが、神の偉大な力と愛を信じる方となられますように祈ります。

●「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。 」(ヨハネの福音書20:30,31)。

●「イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。 」(ヨハネの福音書21:25)。
  

★私の友人:台 豊氏が開設しているHPの「聖書館」には、「奇蹟について」分かりやすく書かれていますのでご覧になってください。 

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