聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★神のことばなる聖書

2005-04-25 | 「聖書について」

        

  南太平洋のある島での話です。ヤシの木陰で一人の土人(土着の住民)が熱心に聖書を読んでいました。そこへ、神を信じない西洋人が通りかかり、「私たちの国では、よほど時代遅れの者でなければ、そんな本は読みませんよ!」と言いました。すると、その土人は顔を上げて、”ニッ”と白い歯を見せながら、「しかし、私がこの本を読んでいればこそ、あなたは、無事にここにいられるのですよ。私どもは人喰い人種でしたが、聖書に触れてキリストを信じてから、以前の悪習慣を捨てて、全く生まれ変わった人間になったのです。もし、私が聖書を知らなかったなら、今頃、あなたは、私の腹の中にいることでしょう・・・。」すると、かの西洋人は「ブルッ」と身震いしたまま、二の句もつげず、そのまま足早に立ち去って行ったそうです。

 また、こんな話もあります。ある橋のたもとで、果物売りの老婦人が客のない時には、いつも聖書を読んでいました。「一体、何の本を読んでいるのですか。」と、一人の客が尋ねました。「ああ、これは聖書という本で、神様のみ言葉です。」と答えました。彼は「どうして、聖書が神のことばであると分かるのかね?だれがそのことを教えたのですか?」と聞きました。その老婦人は「神様ご自身ですよ。」と答えると、その客は「あなたは神様と話したことがあるのですか。」と尋ねました。

 その老婦人は聖書が神のみことばであることを証明しようとして、しばらく考えていましたが、「お客さん、あなたは、あれが太陽であるとことを証明できますか。」と太陽を指さして尋ねたのです。「そんなこと、簡単じゃないですか。最上の証明は、あれが、私に光と暖かさを与えてくれるということですよ。」との返事が返って来ました。そこで、老婦人はにっこり笑いながら、「お客さん、その通りですよ。聖書が神のみ言葉であるという最上の証明は、これを読むことによって、私の心に光と暖かさが与えられるのですよ。」と答えたのです。

 ドフトエフスキーは、シベリヤに流刑される途中、一人の夫人から聖書を手渡され、死の家と言われるようなシベリヤの流刑地で、聖書だけを数年間読みました。それが、後年、数々の不朽の大長編小説の名作を生むきっかけとなりました。また、ゲーテが長い一生のほとんどを費やして書いたという有名な詩劇「ファースト」は、聖書のヨブ記にその構成のヒントを得たと思われるところがあります。さらに、シェークスピアの作品のうちには、ところどころ、聖書に書かれていることばから取ったと思われる文章があると言われています。このように、もっとも偉大な文学者は、常に聖書に関係し、聖書を深く身につけた人たちでありました。(聖書は、決して文学作品ではありませんが、文学的にみても非常にすぐれているのです)。

 よく言われることですが、聖書を知らない者は、一般文学をも理解することができない者であるとは、まさにその通りであると思います。文学に限らず、聖書が音楽や美術などの芸術に与えた影響は多大なものがあり、限られたスペースでは書き尽くすことはできません。聖書は、読めば読むほど興味が増し、汲めども尽きぬ深い味わいがあります。一般の本ならば数回読めば底の深さも分かり、それ以上読む気にならないのですが、聖書は読むにつれてなお読みたくなる不思議な本であります。スポルジョンは、聖書を100回読んでのち、「100回目に聖書を読み終えたときに、私は最初に読んだ時よりも、ずっと、すばらしいものだと知りました。」と言ったそうです。

 さて、聖書は大きく分けて旧約聖書と新約聖書に分かれています。多くの人は、旧約聖書は旧教(カトリック)のことが書かれており、新約聖書には新教(プロテスタント)に関係することが書かれていると、はなはだしい思い違いをしています。これは、大変な誤解であります。このように書いている自分自身も、最初はそう思っていた一人であります。
しかし、旧約聖書と新約聖書はいずれも、「イエス・キリスト」が主人公であり、イエス・キリストの中心は十字架と復活であり、聖書の中心の主題は「イエス・キリストによる人類の救い」ということであります。

 旧約聖書には、イエス・キリストがやがて人類のの救い主としてこの世に来られてどのようなことをなさるかについて、イエス・キリストが来られる前に神様の約束されたことについての予告が記されています。新約聖書には、約束の救い主イエス・キリストが事実この世に来られて、十字架の尊いみわざを完全に成し遂げられて死後三日目に復活されたことが中心として書かれています。アウグスチヌスは「新約聖書は旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は新約聖書の中に表されている。」と言いましたが、事実その通りで、これはまさに至言であると思います。

 旧約聖書に書かれているイエス・キリストに関する預言があまりにも見事に新約聖書において的中しているので、旧約聖書の預言は後代になって付け加えられたのではないかと疑念を持った人々もいたようであります。しかし、今では旧約聖書の古い写本が次々と発見されており、それらはイエス・キリストが来られるはるか前に書かれたものであることが、考古学的に証明されています。それでも、なお疑い深い人は、イエス・キリストは意識的に旧約聖書の預言が的中するように預言通りに行動したのではないかと疑う人もいるようであります。しかし、そのようなことは、聖書を実際にお読みになれば不可能であることがすぐお分かりいただけると思います。例えば、「私は死んで三日目によみがえります。」と言って、あなたはその通りに実現できるでしょうか。

 昔、イタリヤの数学者で三次方程式の解法を発見したカルダーノは天才によくある変わり者で、自分の死ぬ日を予言しました。ところが、当日になっても、なかなか死なないので、自殺したということです。イエス・キリストも、他人とかかわりなく自分ひとりで行った出来事については、そのように「預言通りに行動したのではないか」と、こじつけで説明しようとする疑い深い人もいるかもしれません。しかし、他人、特にイエス・キリストに反対する人々の関係している預言はどのようにも説明のしようがありません。一例をあげると、12弟子の一人、イスカリオテのユダがイエスを裏切ったこと、十字架の場面でローマの兵卒たちがイエスの下着をくじ引きにして分け合うことなどは、そのようなことではどうしても説明できないのです。

 ただ、全知全能の神が旧約聖書で預言したそのとおりに成就したのであると考える以外に説明のしようがないのであります。もし、イエス・キリストについての350ほどの預言が偶然にことごとく的中したとすれば、それこそ、不思議過ぎてかえって考えられないことです。また、聖書の中には、この世の常識では考えられない「奇蹟」がたくさん出て来ます。ある人は、聖書の奇蹟の記事を除けば聖書を信じることが出来るのだが、という人があります。しかし、みなさん、真の神がおられてしかもその御子が人としてこの世に来られたのなら、奇蹟の一つも行えない方が不自然で、理解し難いことであると思います。聖書自らが語っているとおり、聖書は神のみことばであります。

●「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」 (使徒の働き4:12)。

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