聖書から人生を考えよう

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聖書から「人生」について真剣に考えてみませんか?

★聖書の絶大な力

2005-04-23 | 「聖書について」



 人間の歴史は、今まさに最終段階に向かって恐ろしいスピードで突進している感じがあります。私たちはどうしたらいいのでしょうか。私たちに希望があるのでしょうか。この暗闇の世界に私たちが安心して歩める真理の道があるのでしょうか。もがいてもどうすることもできない絶望の人生から救い出してくれる、すばらしい人生の扉を開く鍵がどこかにあるのでしょうか。私たちがどこから来て、なぜここにいるのか、そしてどこへ行くのかを知ることのできる何か手掛かりがあるのでしょうか。結論を申し上げましょう。「あります!」それは「聖書」であると断言することができるのであります。

 「もし、あなたが無人島で暮らさなければならなくなって、ただ一冊の本を持って行くことを許されたたら、どんな本を選んで持って行きますか。」という質問をされたとしたら、あなたは何と答えるでしょうか。その質問に、ある人は「万葉集」と答えたそうですが、しかし、無人島でたとえそれがどんなにすばらしい歌集であるとしても、それを口ずさんで、毎日、毎日、押し寄せて来る恐ろしい寂しさを紛らわすことができるでしょうか。これは有名な話ですが、文豪ゲーテは「私が獄に繋がれて、ただ一冊の本を持ち込むことを許されたら、躊躇せずに聖書を選びます。」と言いました。

 デフォーの名作「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなったアレキサンダー・セルカークという人は、航海の途中、あまりにも手のつけられない無法者のゆえに、荒くれだった水夫仲間からも見放されて、ある無人島に置き去りにされてしまいました。彼は、最初のうちは一人ぼっちの寂しさと絶望的な前途を想い、気も狂うばかりであったといいます。しかし、彼の母が何とかして息子に読んでほしいと願いながら、航海前に彼の荷物にしのばせて置いた一冊の本がありました。それは、言うまでもなく「聖書」であったのです。

 彼は、何もすることがないので、無人島で聖書を手にして読み始めました。聖書は何と大きな慰めと力を彼に与えたことでしょうか(私も、灯台職員として働いていた若い頃、北海道の松前小島の無人島で、無心になって聖書に読み耽ったのを思い出します。)。長い年月が流れたある日、彼はたまたま近くを通った船に救助さたのです。そして、そのときの彼は、以前とはうって変わった全くの別人のような人格になっていたということです。聖書の力は、彼自身を根底から変えるほどの絶大な力を持っている書物であります。まことに聖書は、今日に至るまで、数え切れないほどの人たちを変えて来ました。聖書の影響力は実に世界の歴史をも動かして来ました。聖書は驚くべき無限の力と人をとらえて離さない不思議な魅力を持っている本であります。

 聖書は日本では、毎年数百万部が売られており、世界においては、その数は数億冊に及ぶことでしょう。まさに聖書こそ、古今無二の超ロング・ベストセラーであります。そればかりか、聖書ほど多くの国のことばに訳されている本はありません。どんな本でも十数ケ国語に訳されていれば、その本は特別に有名な本と言えるでしょう。聖書は何と、1,500以上の言葉に訳されているのであります。現在の世界の国の数は、191ヶ国(?)ですから、聖書は一つの国でも地方や部族によって言葉が違っておればそのその言葉に訳されていることが分かります。聖書は、このように、あらゆる意味で他の本と比較して、桁外れにスケールの大きい本であると分かります。

 BIBLE(聖書)の語源であるギリシャ語のビブロスは「本」という意味です。英国の作家、ウォルター・スコットは、死ぬ間際に、子供に「本を持って来ておくれ。」と言うと、子供は「お父さん、どの本ですか。」と尋ねました。スコットは、「本と言えば、聖書に決まっているではないか。」と言ったという話があります。日本では、世界のうちでも、書物の出版数においては最も多い国の一つであると言われています。しかし、それらの書物のほとんどは、生きておられる真の神様の喜ばれないものであります。活版印刷術の発明のきっかけは、聖書を何とかして多くの人に読んでもらいたいという願いから、グーテンベルクが考案したのであります。

 さて、それでは、この聖書はどのようにして出来上がったのでしょうか。聖書は、BC1,500年頃から、実に1,600年の長きに亙って、40人ほどの人々によって書かれました。その著者には、王、大臣、官吏、学者、漁師、医師、詩人、羊飼など、いろいろな身分や職業の人たちがいます。これらの地位や環境の違った人たちが、風俗、習慣の異なった広大な地域と1,600年という気の遠くなるような隔たりの中で、お互いが何の連絡もなしに書いたのですが、その内容は完全な統一と調和と均整が保たれています。その理由は、その背後で、永遠から永遠にいます唯一の神がおられ、彼らの書くこと一つ一つを聖霊によって導いたからであります。すなわち、聖書は神が40人の記者を用いて書かれたことを示しているのであります。

 いつの時代にも、聖書が神のことばであることを否定する人がたくさんいます。聖書が神によって書かれたものであることを証明するため、ジョン・ウエスレーは次のように説明しています。「聖書は次の三者のうち、だれかが書いたに違いありません。なぜなら、それ以外には考えられないからです。」
(1) 善人か天使。
(2) 悪人か悪魔。 
(3) 創造主(神)。
 
まず、「聖書」は善人や天使の創作と考えることはできません。もしそうであったら、自分の書いたものに、「主なる神はこう言われる。」などと、ご丁寧にも3,000回にも亙って、ウソを書き連ねることはできないはずです。次に、「聖書」は悪人や悪魔の創作と考えることもできないことです。なぜなら、自分の魂が永遠の地獄に行くことを何度も繰り返し、はっきりと宣言するような本をわざわざ自分で書くことはあり得ないからです。それゆえ、残された唯一の結論は、「聖書」は神によって書かれた書物であるということであります。

●「‥‥‥聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテの第二の手紙3:15,16)。

●「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 」(ペテロの第二の手紙1:20,21)。

●「この天地は滅び去ります。しかし、わたし(イエス・キリスト)のことばは決して滅びることがありません。」(マタイの福音書24:35)。 

●「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への第二の手紙5:17)。


           

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