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科学史1 死闘編

2011-05-01 12:20:08 | 若さが歴史を動かした(ノンフィクション)
肖像 学生時代のガリレオ



 本編に登場する若き革命児:コペルニクス ブルーノ ガリレオ ケプラー パスカル



 科学の歴史を振り返ってみたときに、ガリレオ・ガリレイこそ近代科学の祖であることは、疑いの余地がない。彼もまた、歴史を変えた若者の1人だった。

 ガリレオは子どものころから賢く、弁が立つことで知られたが、なぜか数学だけはひどく苦手で、興味を持てなかったという。どちらかというと、文系タイプだった。そんな少年が科学に革命を起こしてしまったのだから、若者の可能性は計り知れない。

 17歳のときにピサ大学医学部に入学するが、医学よりも物理に興味を示す。だが、当時の大学では、アリストテレスに代表される古い記録を暗記するだけで、科学にとって最も重要な「実験・証明」が行なわれていなかった。

「大切なのは文献を暗記することではなく、自分自身の目で確かめることだ」

 理屈っぽいところのあったガリレオ少年は、実験の必要性を訴えたが、一新入生で、しかも専攻外のガリレオの言葉が、頭の堅い教授連中に受け入れられるはずもなかった。当時の教育の在り方に絶望した彼は、1年もすると不登校気味になり、独学で物理を研究する意志を固めていた。


 その後、ガリレオ青年は1人で観察と実験を繰り返し、19歳で『振子の等時性』を発見。これは、「振子の重さもひもの長さも同じならば、揺れる速さと幅は変わらない」という法則で、これを応用すれば狂わない時計を作ることができると、ガリレオは論文に発表した。事実、後に発明された振子時計の理論は、全て、ガリレオがこのときに発見した原理に基づいていた。
 この実験は、近代物理学のみならず、科学全般の、記念すべき出発点となった。実証主義は、その後の科学に変わることなく受け継がれ続け、今日に至っている。今日の意味においての科学は、10歳代の若き天才ガリレオが確立したのだった。

 彼の名は、一躍ヨーロッパ中に知れ渡った。あくまで自分の考えを突っ張り抜いたこの学生は、ついに、教授連の鼻をあかせることに成功した。
 ピサの人々は、ガリレオを「ピサの誇り」と誉め讃えたが、関係者は、本来の医学の勉強をないがしろにして物理に手を出す「素人」を、快く思わなかった。1年後、つくづく大学に嫌気が差したガリレオは、正式に大学を中退する。頭脳流出、ずば抜けた逸材が自由の無い大学を去るのは、いつの時代にも変わりない。

 20歳のガリレオは田舎のフィレンツェに戻り、ひとりで研究を進めた。『比重計』を発明したり、「固体には必ず重心がある」という法則を発見したりして、たちまちのうちに当時を代表する実験物理学者・発明家となる。

 しかし、彼は決してうぬぼれることはなかった。科学者として研究を進める上で、数学の必要性を痛感し、数学者オスティリオ・リッチに教えを乞うた。その甲斐あって、ガリレオの数学力はめきめき向上した。
 何事も、本人が必要性を感じていれば、覚えられる。大切なのは、本人の意欲の芽生えをじっと待つことである。つぼみをこじ開けようとしても、花は咲かずにただ散るばかりだろう。


 ガリレオを讃える世論に推されるかたちで、ピサ大学は、彼を試験的に採用することにした。時の最高学府が、正規の物理教育を受けていない一アマチュア学者に、事実上白旗を掲げたのだった。大学を去って5年後、25歳のときだった。

 青年教授となったガリレオは、学生たちの前で、アリストテレスの物理学の欠点を指摘した。その欠点とは、実験や観察の欠如である。過去2千年間、このことを公衆の面前で堂々と指摘した学者は、皆無だった。
 一例としてガリレオ教授は、アリストテレスの物理学では、重いものは早く落ちるとしているが、実際には、形が同じものは、重さに関係なく、同じ速度で落ちると主張した。だが、ほとんどの学生は信じなかった。

 そこで翌年、26歳になったガリレオ教授は、実際に木球と鉄球を同時に落下させる実験を行なう。結果は当然、何度やっても、2つの球は同時に着地。これによって、いわゆる『落体の法則』を証明する。論文『運動について』を著したのも、この年だった。


 ガリレオ教授は、当時の学説の過ちを厳しく攻撃した。それは今日の目で見るとまったく正当な指摘なのだが、多くの「遅れている」学者たちに恥をかかせ、敵に回すことになった。
 いつの時代にも、あまりにも優れた人物は、始めは必ずひんしゅくをかい、固定観念に縛られた輩に、妬まれることになる。まして、ガリレオのような若き天才となると、「若造のくせに」という偏見も加わる。周囲の妬みは、若き天才にとって、避けられない試練なのだ。

 あまりにも他の学者と折り合いが着かなかったガリレオは、試用期間の3年を過ぎると、そのまま大学を辞めることになった。彼の収入に頼っていた一家の生活は、たちまち窮乏した。それでも彼は、学問に対する厳格さを、いささかも曲げることはなかった。

 窮すれば通ず。28歳になったガリレオは、パトヴァ大学からスカウトされる。ガリレオ教授はここでも、アリストテレスの誤りを堂々と訴えた。しかし、自由な気風にあふれたパトヴァ大学では、権威を恐れぬガリレオは、熱狂的な喝采を以て迎えられた。その後、ガリレオは、ここで18年間を過ごすことになる。

 ガリレオ教授に次の転機が訪れたのは、32歳のときのことだった。彼の元に、『神秘の宇宙』と題する、1編の論文が送られてきた。その送り主こそは、ガリレオと共に「近代科学の祖」とされるもう1人の若き天才、ヨハネス・ケプラーだった。


 ケプラーは、ガリレオ生誕から7年後に、ドイツで生まれた。幼いころから体が弱く、体を使う仕事は無理だろうと、神学校に入学させられる。ケプラーは数学と自然科学に抜群の能力を示し、17歳で、特待生としてチューヴィンゲン大学に入学した。

 ケプラーは、ここでも優れた才能を示した。教授のメーストリンは、ケプラーに様々な論文を貸し与えた。その中の一冊に、すでに没していたコペルニクスの『天体回転論』があった。

 コペルニクスは23歳からイタリアに留学し、最新の天文学に学ぶ中で、天動説に疑問を抱くようになった。しかし、教会からの弾圧を恐れ、地動説を発表したのは、死の直前だった。ケプラーは、たちまち地動説に賛成し、天文学に夢中になる。

 大学を優秀な成績で卒業したケプラーだったが、地動説を信じていたために神学者たちから反対され、聖職者や神学者の道は閉ざされた。そこで、高校の教師をしながら天文学の論文を執筆し、革新的な科学者として知られていたガリレオに、論文を送ったのだった。25歳のときだった。

 ガリレオが驚いたのは、『神秘の宇宙』の中で、ケプラーが堂々と地動説を支持していたことだった。地動説は聖書の教えに背くもので、当時、宗教改革の先駆を成したルターでさえ、これを厳しく否定していた。ルターのお膝元であるドイツで地動説を支持することは、プロテスタントを敵に回すことを意味していた。
 しかも、ケプラーはこの論文の中で、引力の考え方にも言及している。ニュートンが『万有引力の法則』を発見する、半世紀以上も前のことだった。

 ガリレオは、ケプラーに返事の手紙を送った。こうして、近代科学を生んだ2人の若き巨人同士の交流が始まった。2人は良き友人として、またライバルとしてお互いに刺激し会い、次々に、近代科学の礎となる偉大な業績を残していくことになる。


 実は、ガリレオも以前から、地動説の正しさには気付いていた。しかし、危険を推してそれを発表する踏ん切りはついていなかった。パトヴァ大学のあるイタリアでの、カソリックの権力は、国家をも凌ぐ。ヨーロッパ各地で地動説を唱えていたブルーノが、イタリアに帰国して法王庁に逮捕され、激しい拷問を受けていた最中でもあった。

 ブルーノは、ガリレオより16歳年上で、若いころから独自の宇宙論を唱えていたことで知られていた。35歳で『原因と原理と一者』『無限な宇宙と世界について』など、代表的な著書を発表する。
 その宇宙論は、太陽系はこの宇宙に無数に存在し、栄枯盛衰を繰り返す存在だというものだった。さらに、不変にして不滅の「単子」が、万物を形成しているとも唱えていた。おおまかな考えとしては、今日の物理学とも、ほとんど矛盾しない。

 しかし、当時、それは許されない考え方だった。ブルーノは、最後まで転向を拒んだため、火刑に処されることになる。そのような情勢の中で、ガリレオが地動説の支持を表明することは、そのまま生命の危険に直結していた。
 だが、7つ年下のケプラーが就職を妨害され、それでも決然と信念を曲げずに表明する姿に、ガリレオもまた、若き日の自分の姿を思い出したのだろう。たった1人で大学の教授たちを敵に回し、信念を貫いて闘い続けたあの日々を。
 33歳になっていたガリレオは、あえて命を懸けて、ブルーノやケプラーに続き、地動説の支持を明らかにするのだった。それは、ガリレオとカソリックとの、長い闘いの始まりだった。

 ケプラーは、プロテスタントからの弾圧のため、まもなく高校も去ることになった。だが、彼の才能を惜しんだ天文学者のティコ・ブラーエが、ケプラーを助手として採用する。29歳のときだった。
 翌年にティコは世を去るが、ケプラーは皇帝ルドルフ2世の家庭教師となり、ティコの残した火星観測記録を受け継いで、研究に励んだ。この研究から、一連の『ケプラーの法則』が発見され、近代科学の出発点となったのであった。

 だが、プロテスタントからの弾圧は終生、続いた。皇帝の死後は定職も得られず、放浪しながらの研究が続き、病と貧困に苦しめられた。特に、母親が魔女として告発されたことは、最大の迫害だった。それでもケプラーは、最後まで地動説を主張し続け、先輩のガリレオに先立って、59歳の生涯を閉じたのだった。


 ガリレオやケプラーと同時期に登場した、近代科学のもうひとりの祖が、パスカルだった。パスカルは、前の2人から半世紀ほど遅れて誕生しているが、極めて早い時期から、その才能を発揮していた。

 わずか12歳でユークリッドの定理を証明し、16歳で『パスカルの定理』を発見、幾何学に貢献した神童だった。19歳で『計算機』を発明している。また彼は、『バス』の考案者でもある。

 成人後は物理学に興味を持ち、真空に関するさまざまな実験を行なう。さらに、25歳で大気圧の存在を実証し、液体にかかる圧力に関しての法則である『パスカルの原理』も発見。これまでの固体物理学を超え、真空、気体、液体といった分野の物理学を開拓した。

 30歳代からは再び数学に没頭し、整数論、確率論、微分積分の基礎などを、数学の一分野として確立した。
 同時に、哲学にまで興味を示し、『プロヴァンシアル』を発表。これは、近代フランス散文の文体を決定した名文とされている。しかし、カソリックの主流派に背く内容だったので、大衆には受け入れられたが、教会からはただちに禁書とされている。

 その後も、哲学と信仰に関する書簡を綴り続けたが、わずか39歳にして世を去る。死後、彼の書簡は友人たちの手で『パンセ』として出版され、その哲学は、広く世に知られるところとなった。

 パスカルは、ガリレオやケプラーと違って、信仰の必要性を強く信じる科学者だった。にもかかわらず、同様に教会からの弾圧を受けていた事実は、興味深い。これは、宗教が権力と結びついた場合の危険性を示すものだといえよう。
 これはもちろん、信仰を持つ個々人の参政権を認めないという意味ではない。むしろ、宗教によって高められたモラルは、政治にとって絶対的に必要である。仮に、宗教がこの世に存在していなかったなら、人類はすでに核で滅びているだろう。
 それでもなお、宗教上の理由によって権力が行使されることは、決して認められてはならないだろう。権力そのものは、宗教・思想・信条にたいして、絶対的中立を保たなければならない。教義上の対立は、権力の介入ではなく、あくまで法論によって決着すべきであろう。


 ケプラーが苦難の生涯を終えたとき、ガリレオは66歳になっていた。彼も、すでに10年以上前に宗教裁判にかけられ、地動説を公言しないよう、警告を受けていた。
 その陰には、いまだにアリストテレスの古い学説から離れられない学者たちの圧力があった。ガリレオの新説が認められるほど、それについていけない学者たちは、学生たちから馬鹿にされ、教授の職を逐われる者もいた。元を正せば、彼らの不勉強が招いた結果なのだが、彼らはガリレオに逆恨みの矛先を向けた。彼らが、陰に陽に教会と結びつき、ガリレオの研究を封じようとしたのだった。

 法王庁から警告を受けていたガリレオは、それ以来、地動説の公言を封じられていた。しかし、盟友ケプラーが最後まで自説を曲げなかった姿に勇気づけられ、ケプラーの死から2年後、『天文対話』を発表し、今までにないほどハッキリと、地動説を支持する。それは、カソリックとの全面対決を意味するものだった。
 『天文対話』はただちに禁書となり、ガリレオはローマへの出頭を命じられる。持病の痛風が悪化して、とても旅に出られる状態ではない。しかし、法王庁は出頭の延期を認めなかった。ガリレオは、全身の激しい痛みを推してローマに向かった。
 ローマにつくと、ガリレオは再び宗教裁判にかけられた。裁判官は、「地動説を放棄しなければ処刑する」と迫る。ガリレオは、自分だけならまだしも、残された家族にまで危害が加えられることを恐れ、やむなく、この条件を呑むのだった。ガリレオは数ヶ月の拘束の後に釈放されたが、その後もフィレンツェ郊外に幽閉され、常に監視の目が光り続けた。

 ガリレオはその後、失明しながらも研究を続け、78歳でこの世を去る。思想犯であるガリレオの葬儀には、弔辞を述べることも、家族の墓地に葬ることも、碑を建てることも禁じられた。それが、近代科学を確立した、一代の偉人の最期だった。

 その年のクリスマスに、イギリスで、1人の少年が生まれている。この男の子こそは、ガリレオの築いた科学の土台の上に、金字塔を打ち立てることになる、あのアイザック・ニュートンだった。



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