大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

いじめられ続けた神様

2011-05-10 00:34:01 | 奇跡の人々(人物辞典)
 神様。手塚治虫ほど、この称号にふさわしい人物はいない。

 人々は誰言うとなく、彼をそう呼び讃え始めた。
 無理もない。
 手塚は、たったひとりで今日の長編ストーリーマンガを完成させ、巨大なジャンルとなった少女マンガを生み、さらに日本初のTVアニメを成功させた。

 手塚は、ひとつふたつのジャンルを創造しただけではない。少年少女にとって、最も影響力の大きい文化であるマンガやアニメ、すなわち、戦後世代の人生そのものを創造したのだ。まさに、それは神の仕業そのものだった!

 その神様に、日本中から叩かれた時代があったといったら、あなたは信じられるだろうか? 



 子どものころの手塚は、体が小さくて運動神経も鈍く、物心ついたころから、ひとりで絵を描いているのが好きな少年だった。
 小学校に入学すると、ひどいくせ毛をからかわれて(このくせ毛が、アトムのヘアスタイルのヒントになった)、毎日のようにいじめられ、泣いて家に帰っていたという。
 やり返したくても、体の小さな彼では、とてもかなわない。
 そこで彼は、ノートに得意のマンガを描いて同級生に見せることで、徐々に自分の居場所を作っていった。
 手塚にとって、マンガはお遊戯などではなかった。最初の時点から、生きるための闘いだったのだ。



 手塚が中学に入ったのは、第2次大戦が勃発し、大政翼賛会が結成された時期だった。 手塚は美術部に入部したが、やがて絵の具が不足し、スケッチそのものさえ禁止されてしまった。
 だが手塚は、隙を見てはノートや黒板にマンガを描いていた。部活でさえ絵が描けないのに、マンガとは言語道断! とうとう「犯行」を目撃された手塚は、体育の時間のたびに、完全武装で校庭を10周するという罰を与えられた。

 手塚は、どんなに叱られてもマンガをやめなかった。マンガなくして、彼の居場所はなかったのだから。しかし、意外にも、将来マンガ家になれるとは思っていなかった。戦死するだろうと思っていたから、将来の希望そのものがなかった。
 彼だけではなく、当時の青少年は、皆そうだった。戦争は、若者の自然な憧れの心さえ蝕んだ。手塚にとって、マンガとは唯一の自己証明であり、現実の絶望を忘れさせてくれる、たったひとつの生き甲斐だった。



 旧制中学4年生(今なら高1)の夏休み、体育の苦手だった手塚は、国民体育訓練所に入れられて、毎日、1日中、軍事教連を科せられた。ここで、手塚は両腕とも水虫になる。
 普通なら大したことではないのだが、激しい疲労と栄養失調のために症状が進行し、腕を切断する寸前まで悪化する。水虫菌が筋組織の中まで入り込んで、腕は弾力を失い、指で押すと反対側が出っ張るほどだった。
 仮に切断しないで済んでも、もう二度とペンを握れないかもしれない。マンガが唯一の生き甲斐である少年にとって、これ以上の苦しみがあるだろうか。
 しかし、地道な治療と、手塚のマンガにかける執念によって、両腕は奇跡的に後遺症を残すことなく、元通りに蘇った。この体験は、手塚が医学部を志すきっかけとなった。



 闘病生活から復帰すると、手塚はそのまま学徒動員に借り出され、授業を受けられずに工場で働くことになる。
 もちろん、仕事の合間をぬって、マンガは描き続けた。見つかったらただでは済まないから、知恵を絞った末、工員専用のトイレに張り出すことを思いついた。マンガを発表するだけでも、弾圧を覚悟しなければならない時代だった。

 そんなあくる日、手塚が監視塔で空襲を見張っていると、警戒警報抜きで突然、頭上にB29が現れ、焼夷弾を雨のようにバラまいた! 

 この瞬間、手塚は死を覚悟したという。

 偶然にも、焼夷弾の束は監視塔にはひとつも命中せず、すぐ横をすり抜けていった。気が付いて頭を上げると、工場全体が炎に包まれている。
 手塚は、自分がまだ生きていることに気付くと、必死で淀川に向かって逃げ出した。やがてB29は去っていったが、大阪中が炎に飲み込まれ、空まで真赤に染まっている。地面には、真っ黒に焦げた死体が転がっていた。

 このとき治虫は、いつか見た焦熱地獄の絵がそのまま現実になったと思ったという。「地獄はこの世にある」と語る人がたまにいるが、戦争を体験した人にとって、それは誇張でもなんでもない実感だろう。
 例えば、同時期に行なわれていたスターリングラードでの闘いでは、ドイツ軍に包囲された人々が、ネズミや人肉さえ口にして抵抗しながら、市の人口の99パーセント以上が命を失った。一家や一族どころではない。ひとつの都市が、丸ごと死滅したのである。人間が、獄卒ではなく同じ人間の手によって徹底的に殺戮され、絶滅に追いやられる。その悲惨さは、地獄絵図をもしのぐ。それが戦争なのだ。



 手塚は、戦時下の特別措置によって4年で中学を卒業し、大阪大学医学部に入学する。その年の夏、突如として戦争は終わった。

「僕は、生き延びたんだ! ひょっとすると僕は、マンガ家になれるかもしれない!」

 そのとき、生まれて初めて手塚には、将来の夢を抱くことが許された。描きためていたマンガは、3000枚にもなっていた。

 しかし、やっと夢が持てるようになったといっても、マンガ家への道は容易ではなかった。新聞社に原稿を送るも、相手にされない。神様にさえ、そういう時代があった。

 やっとのことで地方の新聞社から依頼が来るが、内容は希望していた長編ではなく、四コママンガだった。それも、毎回数枚の原稿を持っていって、1枚だけ採用されるという厳しさ。

 翌年には、『新宝島』の作画で長編マンガ家としてのデビューを果たす。これはたちまち全国で40万部の売り上げを記録し、戦後ストーリーマンガの記念すべき第1号となった。
 しかし、作画のみの彼に印税は支払われず、一人前のマンガ家として認められたわけではなかった。

 関西を拠点にしていた手塚の名前は、まだまだ全国区ではなかった。翌年には『地底国の怪人』『ロストワールド』を発表し、上京して出版社に売り込むが、あえなく追い払われ続ける。
 アニメスタジオの求人にも募集するが、不採用。
 先輩マンガ家からは、もっとデッサンの練習をするように叱咤された。
 神様でさえ、デビューしたからといって、すぐ認められたわけではない。

 しかし、今まで絵を描くことさえ禁止されてきた手塚にとって、これしきの逆風は、そよ風のようなものだった。腕を切断する危機、命の危機をも乗り越えてきた。悪意に満ちた運命に苦しめられてきた手塚がリベンジを開始するのは、まだまだこれからだった。

 戦時で美術教育を受けられなかった手塚の絵は、落書きの延長線上にあるもので、プロの画家として上手いとはいえない。それは手塚自身も認めている。
 当時の手塚は、将来は医者になるつもりだった。マンガは、あくまでも夢だった。本当にマンガ家になれるとは思っていなかった。青春の思い出にするつもりだった。

 そんなある日、大マンガ家である横井福次郎に、作品を批評してもらう機会があった。横井はまだ30代だったが、すでに大家として知られていた。
 大阪では一番の売れっ子だった手塚は、いささかながらも自信を持っていたが、横井の感想は「子供だまし」。手塚は、トップのマンガ家と自分との差を思い知り、大いに発奮する。

 このままでは終わりたくない。

 手塚は、医師の道を蹴って、マンガ家を目指す決心をする。今だってこんな進路変更をする人は少ないのに、マンガを発表する場そのものがなかった当時、こんな思い切った決断をした手塚は、とんでもない度胸の持ち主だったのだろう。

 それからまもなく、横井福次郎は結核のため、37歳の若さでこの世を去る。戦前のマンガを支えてきた青年の情熱のバトンは、若き手塚の手に受け継がれたのだった。



 手塚は、学校に入れてくれた親の手前、中退はせず、医師免許は取得しておくことにした。授業や演劇サークル活動の合間をぬって、20歳のときに『メトロポリス』を、翌々年には『来るべき世界』を発表する。傑作と名高いSF3部作を、学生時代までに早くも完成させていたのだった。

 学生とマンガ家の二足のわらじには、戦時下に、厳しい訓練の合間をぬってマンガを描き続けてきた経験がプラスとなっていた。「校庭10周」の罰でさえ、ペンを握り続けるスタミナを養ってくれたと、手塚は振り返っている。
 逆境がプラスになるのも、マイナスになるのも、本人の一念次第であることを、神様は教えてくれる。

 また、この時期には、『ジャングル大帝』の構想にも着手している。業界での評価は低かった手塚だが、子供たちの圧倒的な支持に推されるかたちで、21歳のとき、東京の小さな出版社から『ジャングル大帝』の連載を開始する。当時、連載マンガは4ページ程度が普通だったが、手塚には20ページ近くという破格のページ数が与えられた。
この連載が、新人発掘に力を入れていた大手雑誌『漫画少年』の編集者に注目され、『アトム大使』が誕生することになる。後の『鉄腕アトム』だった。
 だが、今ではとても信じられない話だが、『アトム大使』の連載は、思うように人気が出なかった。何事も、一時の評価では分からない。さらに、書き下ろし単行本時代を知るファンからは、
「連載なんて手塚の堕落だ」
 なんて投書もあった。手塚は、思い悩みながら仕事を続ける。手塚治虫ほどの、天才と執念と精進の人でさえ、スランプを避けることはできない。



 ようやく連載の人気も安定し、手塚は当時を代表する人気マンガ家のひとりとなる。まだインターンが終了する前後のことだった。

 しかし、子供たちの人気はまだしも、マンガはまだまだ社会的に認知されていなかった。悪書追放運動が盛り上がるたびに、人気マンガ家・手塚治虫は真っ先に槍玉に上げられることになる。家族からも、マンガをやめて医師になるように説得される。

 ファミコンが登場した当時も、目が悪くなるだの外で遊ばなくなるだので、世間は散々非難していた。インターネットも、犯罪を助長するだの何だので、激しい批判に晒されている。ケータイも同様。新しいメディアが保守層の反発を招くのは、いつの時代も同じこと。

 手塚は、雑音に耳を貸さず、自分の仕事に打ち込んだ。25歳のときには関西の、翌年には全国の画家の中で、所得第1位となっている。
 その猛烈な仕事ぶりは、他のマンガ家の嫉妬を招いた。そこには、彼が関西出身のよそものだというムラ意識もあった。
「手塚は、がめつい奴だ」
 マンガ家の間には、そんな風評が流れた。
 いまだに、手塚以前の世代のマンガ家やアニメーターの間では、彼の評判は良くない。手塚治虫は新しい時代を築いたが、それと引き換えに、昔からのマンガやアニメを凋落させた張本人でもある。だが、新たな時代を築く上で、これは避けられないことだろう。



 手塚がこれほど仕事をしたのは、何も贅沢をしたかったからではない。本人は4畳半のアパートで満足していた。
 実は、資金を貯めて、アニメスタジオを設立しようと考えていたのだった。
 彼は子どものころ、よく戦意高揚のためのアニメ映画を見せられた。これは効果テキメンで、青春時代の手塚は、あれほどひどい目に遭いながら、まだ日本軍の正義を固く信じていたのだ。手塚は、アニメーションが青少年に与える影響の強さを、身を以て痛感していた。
 だからこそ、アニメーションを通じて、青少年に平和の尊さを訴えたいと、祈るような思いで願い続けていた。事実、手塚治虫がマンガやアニメを通じて、終生多くの青少年に戦争の悲惨さを語り続けた影響と功績は、計り知れないほど大きい。

 しかし、手塚治虫が有名になり出したころから悪書追放運動は本格化し、彼は売り出し早々「青少年に悪影響を与えるマンガ屋」の烙印を押される。今考えれば、ブラックユーモアにもならない。6年も前に発表したマンガのキスシーンを批判されたり、太股を描いたという理由だけで、店頭に本を置いてもらえないことさえあった。

 大人たちは、子供の成績低下ばかりか、不良化までもマンガのせいにした。校庭にトラックいっぱいのマンガが積み上げられ、焼かれたこともあった。もちろんその中には、手塚マンガもあった。手塚は、どんな気持ちでそれを見つめていただろう。秦の始皇帝による焚書を思い出させる。
 このようなことが、「戦後の民主主義の日本」に、現実にあったことを忘れてはならない。
 この運動を推進したのは、政治家、文化人、PTA、教育評論家、児童文学者など、要するに、良識を代表するあらゆる大人たちだった。彼らが率先して、表現の自由を破壊しようとしていたのだった。『赤胴鈴之助』などは、剣で斬り合う場面がふんだんに登場するのにもかかわらず、鈴之助が親孝行だからといって批判を免れたのだから、この運動がいかに偽善的だったかが分かる。
 良識の最大の敵は、良識を語る良識無き人々であろう。



 社会からも、仲間のマンガ家からも嫌われ、愛する家族にさえ反対され、孤立する手塚治虫。
 だが、手塚はそんな批判と孤独をも闘志に変え、マンガを宗教の域にまで高めた大作『火の鳥』や、少女マンガの元祖『リボンの騎士』などの代表作を、次々と発表していく。

 あの『鉄腕アトム』にも、手塚の悲しみと達観が込められているように思われる。
 アトムは、ロボットであるために、人間社会の中で差別される。それでもアトムは、人間を憎むことなく、自らを傷付けながら、人間のために闘い続けるのだ。
 手塚自身、読者のために寝る間も惜しんで働き続けながらも、常に偏見にさらされ、いじめられ続けた。手塚が自由に羽ばたけるのは、いつでもマンガの中だけしかなかった。

 だが、マンガを描くことも、マンガ家を夢見ることさえも許されない青春時代を送った手塚が、いまさらこれしきのことに潰されるはずもなかった。悲惨な戦時体験でさえ、手塚は、己の強さに変えてしまった。

 日本中を敵にまわして、一人信念を貫いた時代があったからこそ、手塚治虫は余人が思わず「神様」と仰いでしまうほどのオーラを身に付けるに至ったのだ。
 星の数ほどいるマンガ家の中で、手塚治虫ほど多くの逆境に直面し、ことごとくハネ返してきた者が、他にいるだろうか? 
 他のマンガ家とは、どだいステージが違う。どれほどの天才マンガ家も、決して手塚と同列に論じられることはない。その生きざまに絶対的な差があることを、誰もが分かっているからだ。
 手塚は、決して才能だけのマンガ家ではない。楽をして一流になった人間などいない。絶対にいない。



 一連のバッシングは、手塚の大人に対する不信感を決定的なものにした。後に手塚は、
「大人が眉をひそめるほど良いマンガなんです」
 そう語っている。手塚が信じたのは、読者の子どもたちだけだった。子どもの味方であり続けようとすれば、頭の固い大人たちの敵となるしかない。そんな手塚治虫の心を、子どもたちは本能的に見抜き、熱狂的に彼を愛した。

 そんな手塚の元には、志ある青年マンガ家たちが続々と集結してきた。手塚が暮らしたトキワ荘には、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、つのだじろうといった面々が次々と入ってきた。また、松本零士や横山光輝も、手塚の弟子にあたる。
 青年たちは、手塚と共に、マンガの未来を守るため、ペンをとって悪書追放運動と闘った。戦後マンガの若き創造者たちも、そのルーツは、手塚治虫に辿り着く。

 子どもたちの絶大な支持に推されるかたちで、手塚は29歳のとき、『びいこちゃん』『漫画生物学』で、小学館児童漫画賞を受賞する。手塚はようやく、社会から正当な評価を勝ち得たのだった。

 凶暴に吹き荒れた悪書追放運動の嵐も、なけなしの小遣いでマンガを買い求める子どもたちの健気な心までは、握りつぶすことはできなかった。何の権力も持たない、無名の子どもたちが、最終的には手塚と共に大人たちを打ち倒し、マンガの市民権を確立したのだった。



 また、この年の手塚は、医学博士号を取るため、超多忙の合間をぬって、奈良の研究室に通い始めている。

 しかも、手塚はさらに仕事を増やした。31歳のときには、当時の金額で1000万円近くの収入を得て、再び画家の長者番付全国1位になっている。
 手塚は節税しようとせず、むしろ進んで納税しようとした。高額納税者となることで、マンガ家の社会的地位を高めるのが狙いだった。

 手塚はこの収入を、アニメ製作会社『虫プロダクション』の設立に当てている。マンガに加えてアニメの仕事も加わり、手塚はますます多忙になったが、翌年には論文『異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究』で、医学博士号を取得した。
 マンガ家の医学博士誕生は、大きなニュースとなった。この研究も、マンガ家がいかに高度な知的職業なのかを、世間に示す狙いがあった。全てが、死に物狂いの闘いだった。


 手塚の、たったひとりの苦闘の甲斐あって、若くて才能あるクリエイターが、次々とマンガ界に飛び込んできた。マンガ人気はますます膨れ上がるが、一方で、「手塚はもう時代遅れ」という声も出始めていた。プロダクションも倒産し、苦しい時代が続いた。

 そんなある日、手塚に5回程度の短期連載依頼が舞い込んでくる。彼ほどのビッグネームに短期連載とは意外だが、この時代の手塚は、もう過去の人と見なされていたのである。この依頼も、「手塚治虫漫画生活30周年記念作品」としてであり、功労者に対する慰労の花道としての企画でしかなかった。

 だが、否定されればされるほど偉大な作品を生み出してきたのが、手塚の人生だった。ここで、手塚は最後の大勝負に出る。今までずっと温め続けてきたあるアイディア、前代未聞のアイディアを、ついに世に出したのだ!

 この作品こそ、史上初の医療マンガであり、今日では手塚治虫の代表作のひとつに数えられている、あの『ブラック・ジャック』だった。医学博士としての知識を存分に駆使し、しかも手塚作品のオールスターが総登場とあって、人気は徐々にヒートしていく。連載開始から1年もしないうちに、手塚は時代の最先端に舞い戻ってきた。

 しかも『ブラック・ジャック』には、単なる医療マンガに留まらない、生と死への深い問いかけがある。その後も、『スーパードクターK』『ゴッドハンド輝』などの名作医療マンガが世に出ているが、だからといって決して『ブラック・ジャック』の斬新さが色あせることはない。それほどまでに、衝撃的な作品だった。

 業界の第一人者にして、革命児。
 もはや、手塚治虫を過去の人などと呼ぶ者は、誰もいなかった。
 その後も、『アドルフに告ぐ』などの超傑作を生み出し、いっこうに衰えぬ神様の底力を見せつけ続けながら、手塚治虫は、60年の生涯を駆け抜けたのである。



 現在、日本でヒットしたマンガやアニメは、ほぼ例外なく全世界に紹介されている。もはや、「MANGA」「ANIME」は国際語。政府も、輸出産業としての支援を本格的に考えている。死してなお、神様は、世界の青少年のライフスタイルを変え続けている。

 なぜ、日本のマンガ・アニメ文化や産業は、ここまで巨大かつ高度に発展したのか? その問いには、「手塚治虫がいたからだ」としか答えようがない。どう控え目に見積もっても、手塚治虫というただひとりの人間がいなかったら、決して今日のマンガ・アニメはありえなかったと、誰もが認めざるを得ない。誰もが。

 そう、今部屋にあふれているマンガ、テレビに写っているアニメは、全て神様の孤独な死闘の証であり、そして勝利の凱歌なのだ。






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1 コメント

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おしらせ (kemukemu)
2007-01-28 21:49:18
こんにちは。
大道芸観覧レポートという写真ブログをつくっています。
ピカさんもとりあげています。
よかったら、寄ってみてください。

http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611
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