あの脱線事故で、乗り合わせた社員が救助活動をせずにそのまま出社したり、社内の慰安行事を予定通り続行したとして、JR西日本がさらに叩かれています。
もちろん、本来あってはならないことは、言うまでもありません。
しかし、JRの人間が、全て極悪非道の冷血人間だと決めつけてよいのでしょうか? 正義感ぶった記者たちの態度には、正直、共感できません。
むしろ、今の日本社会では、誰もが同じ過ちを犯す可能性があるような気がします。
サラリーマン社会の中では、定時に出社し、予定通りの勤務を遂行するのは、何にも増して優先されることだとされています。子どもが風邪をひいたくらいで休むのは、望ましからぬことだとされています。
恒例になっている社内行事の遂行も、実務と同様に評価のポイントになります。慰安行事といっても、事実上は仕事の一環であり、適当というわけにはいきません。
要するに、こうした不祥事は、普通のサラリーマンだったら、誰もが犯すかも知れない失敗であるわけです。
確かに、JR西日本の体質は古いと思いますが、大企業の体質って、みんな似たようなものじゃないでしょうか。
だからといって、叩くなというのではありません。だからこそ、どんどん叩くべきです。何を叩くのか。「会社が全世界」という閉鎖的な価値観に埋没している、日本のサラリーマン文化をです。
どう考えたって、定時運行や社内行事より、人命のほうが重いわけです。大事故発生を認識した時点で、一切を非常体制に切り替えるべきでした。その常識が、長年サラリーマンとして「飼い慣らされていく」ことで、マヒしてしまう。会社以外の世界が、視界から消えてしまう。
これは、他人事ではありません。サラリーマン社会全体の問題です。
今回の件で、サラリーマンとして善良であろうとすることが、全体観からすると、かえって過ちを招きかねないことが、ハッキリしたと思います。
「サラリーマンが悪である」というわけではありませんが、会社が全世界になってしまうと、本来あるべき優先順位を、見失ってしまいます。
僕らは、サラリーマンである前に、まず人間でなくてはならないのです。
身は会社の中にあっても、視線は常に、社外に開かれていなくてはならない。
「僕らがどこにいるか」の問題ではなく、「僕らがどれだけ開かれているか」なのです。
かつて新潟で、少女が9年以上に渡って監禁される事件がありました。人々を驚かせたのは、犯人と同居していた母親が、監禁に気づいていたことです。
「いつか、息子が自分の意志で少女を解放すると信じていた」
息子を信じ、かばう。
それは、母親としては、模範的だったかもしれません。
しかし、人間として、明らかに間違っています。
結果としては、長期監禁に加担したわけです。
愛する息子は、現行法で可能な最高刑に服することになりました。
少女自身が、少女の家族が、どんなに悲しんでいるか。それが、見えていなかったのです。自分と息子が、全世界になっていた。そのために、よかれと思ってかばい続けたのが、最悪の結末を招いてしまった。
世界が狭いことは、それ自体が大きな罪なのです。
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もちろん、本来あってはならないことは、言うまでもありません。
しかし、JRの人間が、全て極悪非道の冷血人間だと決めつけてよいのでしょうか? 正義感ぶった記者たちの態度には、正直、共感できません。
むしろ、今の日本社会では、誰もが同じ過ちを犯す可能性があるような気がします。
サラリーマン社会の中では、定時に出社し、予定通りの勤務を遂行するのは、何にも増して優先されることだとされています。子どもが風邪をひいたくらいで休むのは、望ましからぬことだとされています。
恒例になっている社内行事の遂行も、実務と同様に評価のポイントになります。慰安行事といっても、事実上は仕事の一環であり、適当というわけにはいきません。
要するに、こうした不祥事は、普通のサラリーマンだったら、誰もが犯すかも知れない失敗であるわけです。
確かに、JR西日本の体質は古いと思いますが、大企業の体質って、みんな似たようなものじゃないでしょうか。
だからといって、叩くなというのではありません。だからこそ、どんどん叩くべきです。何を叩くのか。「会社が全世界」という閉鎖的な価値観に埋没している、日本のサラリーマン文化をです。
どう考えたって、定時運行や社内行事より、人命のほうが重いわけです。大事故発生を認識した時点で、一切を非常体制に切り替えるべきでした。その常識が、長年サラリーマンとして「飼い慣らされていく」ことで、マヒしてしまう。会社以外の世界が、視界から消えてしまう。
これは、他人事ではありません。サラリーマン社会全体の問題です。
今回の件で、サラリーマンとして善良であろうとすることが、全体観からすると、かえって過ちを招きかねないことが、ハッキリしたと思います。
「サラリーマンが悪である」というわけではありませんが、会社が全世界になってしまうと、本来あるべき優先順位を、見失ってしまいます。
僕らは、サラリーマンである前に、まず人間でなくてはならないのです。
身は会社の中にあっても、視線は常に、社外に開かれていなくてはならない。
「僕らがどこにいるか」の問題ではなく、「僕らがどれだけ開かれているか」なのです。
かつて新潟で、少女が9年以上に渡って監禁される事件がありました。人々を驚かせたのは、犯人と同居していた母親が、監禁に気づいていたことです。
「いつか、息子が自分の意志で少女を解放すると信じていた」
息子を信じ、かばう。
それは、母親としては、模範的だったかもしれません。
しかし、人間として、明らかに間違っています。
結果としては、長期監禁に加担したわけです。
愛する息子は、現行法で可能な最高刑に服することになりました。
少女自身が、少女の家族が、どんなに悲しんでいるか。それが、見えていなかったのです。自分と息子が、全世界になっていた。そのために、よかれと思ってかばい続けたのが、最悪の結末を招いてしまった。
世界が狭いことは、それ自体が大きな罪なのです。
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「僕らがどこにいるか」の問題ではなく、「僕らがどれだけ開かれているか」なのです。
まさにこのフレーズに共感いたします。サラリーマンではローンも抱え知らず知らずに会社に囚われてしまう精神構造にもなりますが、もうそこから脱却するべき時期でもあり、またこれからの若者にはそれが分かっていると希望をもっております。
いろいろな事を知ること、自分の頭で考える事、それが人の生きる道かな。
これからもご活躍ください!!