大人に負けるな!

弱者のままで、世界を変えることはできない

若くして成功するための法則

2011-02-07 19:01:32 | 奇跡の人々(人物辞典)
 女性にとってシンデレラ・ストーリーが究極の夢だとしたら、男子一生の夢は、一国の王となることに他ならない。まして、大国を自力で建国し、理想の世界を創り上げられれば、それ以上の大望はない。

 そんな野望を、わずか10年足らずで実現した青年がいる。その名は、アレクサンドロス3世。つまり、かのアレキサンダー大王である。
 大王は、20歳で王位を継承してからわずか10余年という短い間に、西はエジプトから西はインドにまでまたがる超帝国を築き上げた。その規模は、全盛期のローマ帝国をも上回る。もちろん、これだけ短期間でこれだけ広大な領土を手に入れた例は、他に存在しない。空前絶後の超記録であろう。
 大王は、もともと小さなギリシャの、そのまた一都市国家の王に過ぎなかった。それが、数年のうちに超大国ペルシャを滅ぼし、当時、世界の果てと考えられていたインドまで手中に収めている。奇跡が十重二十重に起こったとしか思えない。いったい、この信じられない勝利の秘訣は、どこにあったのだろうか? 

 僕は、アレキサンダー大王の例は、全ての志ある青年にとって、永遠のモデルだと思っている。そこには、時代を超えて通じる「若者のための勝利の法則」が秘められているのだ。



 ①最高の模範を選ぶ

 大王は、3人の人物から大きな影響を受けた。それは、父王フィリッポス2世、伝説の英雄アキレウス、そして大哲学者アリストテレスだった。

 フィリッポス2世は、わずか18歳でギリシャの都市国家マケドニアの摂政に就任している。23歳で正式に王位に就くと、ギリシャの統一を志し、農民によるファランクス(長槍歩兵方陣)を創設し、常備軍としている。ファランクスとは、兵士に6メートルもの長槍を持たせた長方形の隊列で、盾で矢を防ぎながら、正面から敵に突撃する。
 当時の戦争では、正面からの突撃が主な戦法だった。そうなれば、より早く攻撃が届いたほうが勝つ。ならば敵より長い槍を持たせればいいと、若いフィリッポスは単純に考えた。後に織田信長も同じ発想で兵たちに長い槍を持たせているが、実際、単純でありながら、これは戦場で恐ろしいほどの効果を発揮したアイディアだった。銃火気が発達するまで、東西を問わず、戦場の主役は槍だった。
 マケドニアは当時のギリシャで無敵を誇り、霸を競い合っていたアテネとスパルタを差し措いて、たちまち有力な都市国家となっている。
 こうした父親は大王にとって、王としても軍人としても最高の模範だった。大王はわずか16歳で摂政となり、さらに20歳で王位を継いでいるが、気後れしなかったのは、父王の若き日からの姿を見ていたからだろう。

 青年は、青年を模範にするのが一番だと、僕は思っている。

 また、大王の母親は、叙事詩『イリアス』に出てくる英雄アキレウスの家系から出ていると、先祖から伝えられていた。父王が他の女性を寵愛したため、母親は大王を溺愛した。
「お前は英雄アキレウスの子孫なんだよ」
 そんな話を小さな子どもが繰り返し聞かされ続ければ、誰だってその気になってしまう。大王は、自分がアキレウスの再来だと信じていた。実在の人物ではないが、アキレウスもまた、大王にとって模範のひとりだった。
 現実に近くにいなくても、ただ憧れるというだけで、その人物から受ける影響は大きなものになる。

 さらに大王は13歳から、父王の幼なじみであり、全ての学問の祖として知られる大哲学者アリストテレスを教師に迎え入れ、教えを受けている。アリストテレスは当時まだ40歳そこそこだったが、プラトンの最も優秀な弟子としてその名を知られていた。まさに、当時において考えうる最高の教師だった。
 アリストテレスは、3年間に渡って、大王につきっきりで哲学、政治学、自然科学、それに詩や劇などを教えている。これは、野心家の大王が人格的に洗練され、「理想世界の実現」という壮大な目標を育む絶好の機会となった。
 中国武術には、「修業を3年遅らせても、3年かけて師を探せ」という格言がある。最初に誰の元で学ぶかというのは、人生を左右する大きなポイントになる。自分より優れていれば誰でもいい、というものではない。どうせなら最初から最高の師を選ぶべきだ。自分の模範には、こだわりを持つべきである。



 ②最初に退路を絶つ

 大王は、大遠征に際して、部下たちが後顧の憂いなく出陣できるよう、最初に全ての財産を分け与えている。この時、自らに何を残すかと問われ、「希望のみ!」と答えたエピソードはあまりにも有名。もはや、大王に引き返すべき道はなかった。
 大王は、
「もしこの遠征が失敗に終わったら……」
 などとは、全く心配しなかった。最初から失敗するつもりでチャレンジするなら、やらないほうがよい。やると決めた以上、

「100%絶対完璧にやり遂げる!」

 そう決めつけてしまったことが、大王の成功の秘訣だった。無鉄砲にも思えるが、その無鉄砲さがなかったら、とうていこれほどのことはできなかっただろう。青年にとって、無鉄砲は美徳である。
 青年に必要なのは、安定や保証ではない。失敗しないだけの人生は、結局は絶対成功できない、「引き分け狙い」の人生でもある。ひょっとして、それは最悪の失敗人生かもしれない。スポーツだって、守り一辺倒だったら、失点は防げるかも知れないが、絶対に得点もできない。そんな試合だったらやらないほうがいい。
 人として生まれたからには、「生まれてきて良かった」と思える生き方を選んでほしい。まして、青春はあまりにも短いのだから。



 ③実行力

 もちろん、わずか20歳で即位した大王を、全ギリシャが認めたわけではなかった。この若い王をあなどった都市国家テーベは、反乱を開始する。その知らせを聞くや、即位直後の大王はただちに自ら軍を率いて討伐に向かった。
 400キロの道程をわずか13日という強行軍で駆け抜けて、大王軍は突如テーベに出現する。当時の常識では考えられない電光石火の移動に、テーベ軍は完全に意表を衝かれた。テーベの兵士は全て殺され、女子供は命こそ奪われなかったものの、全て奴隷に売られたという。
 大王には他にも、こうした電撃的な高速移動のエピソードが数多く伝えられている。ちなみに、仏典に登場する、足の速い神「韋駄天」とは、実はアレキサンダー大王のことなのだという。大王の電光石火の進軍が、伝説化されて語り継がれていたのだった。

 成功を収める人物というのは、ほぼ例外なく、せっかちなほど決断が早い。そして、すぐさま行動に移る。ホリエモンを見ればわかるだろう。つまり、決断力と実行力が卓抜している。頭の良さなどより、よほど大切なことである。
 これは、生存競争を考えても、もっともな話であろう。トラックが突っ込んできたとき、右に飛ぶか左に飛ぶか迷っていれば、まごまごしているうちに轢かれてしまう。
 決断が迫られるタイミングというのは、たいてい決断するのに十分な材料が集まっていない時点である。ここで動けば、失敗する可能性もある。だからといって、決断を先送りにしてしまえば、成功はありえない。生き延びるためには、リスクを承知の上で、果敢に決断する勇気が不可欠なのだ。

 もし、大王が、

「自分はまだ若い。人生経験を積んで、大遠征には35歳まで待とう」

 そんなことを考えるタイプの人間だったなら、まずこのテーベの反乱さえ鎮圧できなかっただろう。

「自分は大きな仕事をするには若すぎる。ある程度経験を積んでからにしよう」

 その考えは、青年の最大の敵である。これは逆なのだ。大事業ほど、より早くから始め、少しでも経験を積まなくてはいけないのだ。
 平凡な人生の経験が何百年あろうと、大事業の役には立たない。文明社会の中で普通の生活をどれだけ長く続けても、ジャングルを生き延びる知恵は身に付かないのと同じこと。どんな分野であれ、その分野の経験を積まなければ、スキルにはなっていかない。
 葉も茂らず、花も咲かずに、突然実が成るはずがない。それと同じで、前半生を平々凡々に生きてきて、後半生に突然成功できるわけがない。成功を収めている人は、若いころから他の青年がやらないことに挑んできたからこそ、実を結んだのだ。

 成功者は、たいてい30歳までには、なんらかの見るべき実績を残している。30歳から「ようやく社会的に認められる年齢になった、さあやろう」そう決意しても、厳しくいえば手遅れである。
 例えばビジネスであれば、いずれ独立するつもりがあるなら、まず今すぐ独立し、経営全般の経験を積むべきだろう。生活できなければ、アルバイトしながらでも、週末起業でもいい。たとえ倒産しても、倒産したという経験は残る。雇われ人の立場でどれだけ長く経験を重ねても、経営の経験はゼロでしかない。

 理想を語る人は多い。けれど、実行する人は少ない。結果が出るまで挑戦し続ける人は、なお少ない。だから成功者は少ないのだ。



 ④率先垂範

 大王自身、常に騎兵隊の先頭に立って突撃し、自ら命を懸けて敵と切り結んだ。一兵士と変わらぬ血と汗を流す大王を、部下たちは敬愛した。
 リーダーが自ら最も危険な場所で戦う。これは、ジャンヌ・ダルクやナポレオンなど、あらゆる偉大な将軍に共通する姿勢である。兵士たちは、戦わされているのではなく、将軍と共に戦っているという誇りを抱くことができた。

 このやり方で大成功を収めた典型的な例が、超大国ペルシャとの最初の決戦だろう。
 大王の率いる軍隊は、総勢4万に満たなかった。一方、ペルシャ軍は、なんと60万! 20倍近くの戦力差があった。特に、海軍の実力差は歴然としていた。数字の上では、どう考えても無謀な挑戦だった。事実、先陣はあっさり全滅している。
 しかし、大王は絶体絶命の危機を脱するため、まず自ら先頭に立って、60万の大軍に突撃する。敵将と激しく切り結び、兜の飾りを切り落とされるほどの白兵戦を演じた。
 その姿を見た兵士たちは、驚くと同時に奮い立った。闘いは人数や物量ではなく、志気で決まる。一方、ペルシャ軍のダリウス王は、戦場に金銀財宝や豪華な家具、妻子まで引き連れ、部下たちの戦いに高みの見物を決め込んでいた。これでは、部下の志気が消沈こそすれ、高まるはずもない。
 見事な団結を見せる大王軍に、盛り上がらないペルシャ軍はあえなく分断され、若き大王は奇跡の逆転大勝利を収めたのだった。この戦いによる大王軍の犠牲者は、500人に満たなかったのである。60万を相手にして。

 こうした教訓は、企業経営にもそのまま通じるものだろう。上司が重役出勤であれば、部下たちも上司が来るまで、できるだけサボろうとする。当たり前のことだ。それをよしとする風潮が、知らず知らずのうちに、停滞と没落を招く。
 社長たるもの、本来は誰よりも早く出勤し、やることがなければ掃除でもしているべきなのだ。あなたが、あなたの会社のために必死で動かずに、誰が動いてくれるだろう?



 ⑤奇抜な発想

 ペルシャ海軍の要である、地中海の都市国家ティルスは、沖合の小島に城壁を張り巡らせ、難攻不落を誇っていた。
 陸からの攻撃では、届かない。船で近づけば狙い撃ちされる。
 大王は、どう決断したか? なんと、
「敵に地の利があるのなら、地形そのものを変えてしまえばいい」
 からと、島までの海を埋め立てて堤防を築き、陸続きにしようとしたのだった! 戦争というより、工事である。
 もちろん、こんな戦法は前代未聞。「できっこない」と、ティルス市民は大王をあざ笑った。
 ところが、大王は本当に長い堤防を築き上げた。そして、島を取り囲む城壁よりもさらに高い矢倉を建て、弓矢や投石を降り注ぐ。思いも寄らない攻撃に、ティルス軍はあわてる。
 しかし、まだ彼らの優位は動かない。船に火を付けて堤防に激突させるという荒技に出る。負けじと、大王は堤防を伸ばし続けるが、ティルスの地の利はやはり動かしがたく、戦法は失敗に終わった。
 それでも、大王は挫けなかった。上から攻めるという発想は悪くなかった。そこで今度は、2隻の大型船を連結させ、その上に塔を建てて攻撃するという手に出る。だが、ティルスも負けてはいない。鍵のついたロープで塔を引き倒そうとしたり、海中から錨を切断してくる潜水兵もいた。双方知恵を尽くしての攻防だった。
 そして、ついに城壁の一角が崩れた。上陸さえすればこっちのもの。大苦戦の末、若き大王の元にようやく凱歌が上がった。

 高い丘の上にあるガザの要塞を攻めたときには、負けじと大王も丘を築き、その上に塔を建てて攻撃する。同時に、地下道を掘って城壁を陥没させた。またもや大工事だ。
 想像を絶する「天地からの挟み撃ち」に、難攻不落を誇ったさしものガザも、大王の軍門に下った。

 中央アジアのバクトリア・ソグディアナ連合軍との戦いでは、四方を断崖絶壁に囲まれた山中の砦に直面する。弩も投石も、敵には届かない。
 すると大王は、とある深夜、300人の隠密を放ち、闇に紛れて岸壁を登らせた。翌朝、山頂から砦を見下ろす大勢の兵士たちの姿に、ソグディアナ軍は慌てた。もはや完全に戦意を失い、砦はほどなく占領された。

 インドのボルス王軍は、200頭の象を戦車として挑んできた。象の巨体には、突撃も投石もまるで歯が立たない。兵士たちは、初めて目にする象の巨体と怪力に恐れおののいた。
「いくら大きくても動物だ。弱点は同じはず」
 そのとき大王は、自ら斧をつかんで走りだし、象のアキレス腱を力任せに叩き切った。あるいは、崇拝する英雄アキレウスの唯一の弱点を、無意識のうちに無敵の象に当てはめてみたのかもしれない。
 立てなくては、象の巨体も恐るるに足らず。この戦法で兵士たちの恐怖心も拭い去られ、形成は逆転。ようやく勝利を収めた。このように、大王の遠征は、一戦一戦が執念と創意工夫による逆転のドラマだった。

 大王の戦法は、その豪胆なイメージとは裏腹に、大軍にモノをいわせた正面からの突撃を主流としていた当時において、実にトリッキーだった。数に恵まれない大王の軍には、そうするしか手がなかったという事情もある。
 そこでは、古い考えに縛られない若き大王の斬新な発想が必要不可欠だったことは、間違いないだろう。もし、彼に豊かな経験があったり、あるいは経験者の意見を聞きすぎれば、むしろ敗北を招いていた可能性が高い。

 ジャンヌ・ダルクがあれだけ活躍できたのも、タブーを無視して大砲を活用したからだった。当時、フランス軍は騎士の誇りから大砲を使わなかった。だが、農夫の娘であるジャンヌにとっては、勝てれば戦法なんてどうでもよかった。

 セオリーを無視できるのが、青年の恐さであり、強さなのだ。



 ⑥理想主義

 アリストテレスは大王にとって確かに優れた教師だったが、大王には、たったひとつだけ納得できない点があった。
 それは、アリストテレスがギリシャ人以外の民族を全て野蛮人と考え、他民族を奴隷とすることを肯定していた点だった。
 大王は、民族にかかわらず、人間は善人か悪人かで区別するべきだと考えていた。これは、キリストが出現する300年以上も前の時代である。大王は、卓越した思想家でもあった。

 大王は、降伏した敵に寛大だったことで知られている。ペルシャのダリウス王が敗走した際には、その母、妻、娘たちは戦場に置き去りにされ、捕虜の身となった。当時、捕虜はどんな扱いを受けてもおかしくなかったが、大王は彼女たちにこれまで以上の待遇を与え、常に礼儀正しく接するよう、部下に命じた。
「敵はペルシャ軍であり、女子どもをまきぞえにする理由はない」
 ダリウス王の母は、大王の高潔な人格に感激し、彼をこよなく敬愛した。後に大王が病死すると、彼女は悲しみのあまり死んでしまったという。大王に地位を追われたダリウス王でさえ、家族の保護を伝え聞くと、
「私の王座を継ぐべき人は、アレキサンダー大王の他にいない」
 そう語って大王を誉め讃えたという。

 大王は、アジアを征服した後も、ギリシャの配下に置こうとはしなかった。ペルシャ人を高官に登用し、3万人ものペルシャ兵を軍に入れ、ペルシャの儀式を取り入れた。さらに、1万人のギリシャ将兵とペルシャ女性との集団結婚式を挙げ、自らダリウス王の娘やアジア人のロクサネと結婚するなど、むしろ進んでギリシャの色を消し、アジアに溶け込もうと努力した。
 あまりにも大王が現地人ばかり重用するので、不満を持ったギリシャ人の部下から、2度も暗殺されかかったほどだった。それでも大王は、アジアとの融和を進め続けた。
 現在でもイスラム圏では、侵略者であるはずの大王を「英雄イスカンダル」と呼び、愛し続けている。敵でさえ味方に変えてしまう高潔さと人徳。これが大王の成功の秘密だった。



 しかし、歴史は残酷だった。大王はわずか32歳で病に倒れ、主を失った帝国は分裂。青年の壮大な理想は、儚く砂漠に消えていった。
 しかし、この奇跡の青年の物語を人々は忘れず、子々孫々に語り継いでいった。いつの日か再び、志ある青年が現れ、混迷の歴史に終止符を打ってくれることを願って。

 人生はあまりにも短い。青春はさらに短い。けれどその短すぎる青春に、どれだけの可能性が秘められているのか。アレキサンダーは、時を超えて我々に語りかける。



 今、日本が行き詰まっている最大の原因は、間違いなく、若い世代の社会に対する無関心にある。
 僕は、若者たちを責めているのではない。なぜなら、この風潮は、戦後政治によって意図的に作り出されたものだからである。



 戦後の混乱の中で、最初に学園の民主化を叫び始めたのは、教師でも保護者でもなく、青少年だった。最初は、高校生による同盟休校や、文部省への校長解任陳情から始まる。それが大学にも広まり、48年には学生の自主的学園改革を目的とした全学連が発足した。この時代、青少年の社会参加の意欲は極めて高かった。
 だが、これはリベラルな勢力を全て共産主義に結びつける風潮の中で、権力から警戒された。60年には、都内の高校生による安保反対集会が開催されたが、文部省は「高校生による連合体結成は望ましくない」と通達。これは当然、憲法に定められた集会・結社の自由を踏みにじる違憲通達だ。
 世界的に学生運動が巻き起こった68年には、紛争を抱える大学は100を超え、翌69年には、高校での紛争も100以上に至った。こうした動きに対し、政府は過剰なまでの強硬姿勢で望む。同年には、政府が大学の閉鎖や廃校まで決定できることを定めた「大学の運営に関する臨時措置法」が成立。上半期の、政治活動で逮捕された高校生は、150人近くに達した。文部省は、高校生の政治活動を禁止する公式見解を示す。
 徹底した弾圧の結果、学生運動は急速に収束する。青少年の政治的無関心は、国策として意図的に造り上げられたものなのだ。

 もちろん、当時の学生運動の過激さには目に余る部分があったし、政治的な思惑がからんでいたのも事実。しかし、それを口実とした政府の過剰な弾圧が、青少年の自然な自立心を根こそぎ摘んでしまったことも、また事実だった。
 フランスの、いわゆる68年5月革命の発端は、パリ大学ナンテール分校での学生運動だった。その主張は社会のあらゆる分野に影響を与え、男女同権の浸透など、今世紀の最も重要な改革の原動力となった。アメリカのスチューデント・パワーも、ベトナム戦争を終わらせることに成功した。性革命にも深く関わっている。

 青年が動くとき、時代は変わる。それが古今東西普遍の、歴史の方程式である。



 特に、今日のように変化が早く、過去の経験が素直に通用しない激動の時代においては、アレキサンダー大王のような、青年リーダーの存在が必要なのだ。そして実際に、この日本においてさえ、ホリエモンのような存在が出てきている。

 僕は6年ほど前に、『青年が立てば時代は変わる』という論文を発表し、近い将来、必ず政治経済といった社会の中枢に青年が参加し、改革の原動力となる時代が訪れると予言した。
 しかしもう、この本は時代遅れになった。
 すでに、時代は変わっているのだ。

 人間は年齢を重ねると、どうしても行動がパターン化しやすい。今までうまくいっていた方法を捨てることが難しくなる。仮にそれを捨てることができても、新たな方法を見つけだし、いち早く実践に活かすスピードとなると、絶対に青年のほうが優っている。
 青年には、経験不足を補って余りある、斬新で柔軟な発想がある。
 具体的には、政治経済の分野、なかんずくG7首脳に20代の青年が選ばれるくらいでなくてはいけない。
 かつては、かのマハトマ・ガンジーも、
「新生インドの指導者には、汚れなき心を持った乙女こそがふさわしい」
 そう語り残している。「長い未来のある青年こそ、大局的指導者になるべきだ」という意見は、何も、僕が初めて言い出したことではない。以前から、心有る人の間ではずっと主張され続けてきた。そして今、その実現が必要とされる時代に突入している。

 もちろん、経験不足を補うために、経験豊かな先輩の意見を仰ぐことは絶対必要である。大王も、アリストテレスという最高のブレーンがあったからこそ、あれだけの活躍が可能になった。議会制民主主義の現代においては、なおさら合意形成が大切になってくる。
 ただし、最終決定には、必ず青年が参加していなくてはならない。今日の文明に最も欠けているのは、この部分なのだ。30歳未満の人間が、社会資本の配分を決定する場に参加できる機会は、皆無に等しいほど少ない。日本では、25歳までは被選挙権さえ与えられていない。
 せいぜい、「若い世代の意見を取り入れる」までで終わり、最終的な判断は、長老だけで下す。これは一見正しく思われるが、実は過去の経験を過大に、青年の純粋さを過少に評価している結果に過ぎない。だから、改革は遅々として進まないのだ。
 そうではなく、老いも若きもベテランも新人も関係ない、公平な1票でなくてはいけない。
具体的には、議席は年齢別クォーター制度によって振り分けるべきだと思う。例えば、2 0代の人口が総人口の1割なら、議席及び大臣のポストの1割は、20代の候補者に与える、というように。文部科学大臣は、ティーンエイジでもいい。それが実現できたら、日本は大きく変わるだろう。
 そして、そのリーダーのひとりが、たまたまこの本を読んでいるあなたではいけないという理由は、どこにもない。

 繰り返すが、もう時代は変わっている。これから、さらに変わり続ける。以前のホリエモンのような青年が、いくらでも出てくる。経済だけでなく、政治の世界にも。絶対に間違いない。なぜなら、それは「人類の生存のために必要」だからである。






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