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『衰え知らずの鉄人たち』でずっと紹介してきた通り、老いてなお若い人物は、数限りない。
しかしその中でも、かのパブロ・ピカソほど、生涯を通じて少年のような好奇心を失わなかった人物は、いなかったのではないだろうか。
ピカソは写実画の神童として知られ、青年期にはキュビズムを開拓したことでも知られている。その上で、歳晩年に至るまで、その才能と創作ペースを全く衰えさせることがなかった。それどころか、ますます多方面に才能を開化させ、総合芸術家としての完成に向かっていったのだった。
むしろその後半生にこそ、この巨人の真価がある。歳晩年に至るまで、その人生には暗さが全く見られない。
天才の中でも、これは希有な事例であろう。たいていの天才は、人生の一時期において輝くだけで、歴史から絶賛される存在となる。平均では、30代前後が天才のピークだといわれる。晩年に新境地を開いた例など、ごくわずかでしかない。人生の全てを輝き続けた天才など、まず他にいない。
その点、ピカソの人生は、超高齢社会の21世紀において特に、モデルケースとして推奨できるように思う。
◆文学者ピカソ◆
ピカソはもともと多くの詩人と交友があったが、54歳で初めて自らポエムをノートし始め、詩人としても認められる。数ヶ月の間、全く絵筆をとらず、詩作に明け暮れたという。
「名付けることが全て。それで十分なのだ」
ピカソの作品には、題名を聞いてはじめて理解できるものが多い。たとえば、ミニカーにピカソが「猿の顔」と名付けることで、人々はもう、ミニカーが猿の顔にしか見えない。
ピカソが創造しているのは、作品そのものではなく、人々の脳裏に浮かぶイメージだった。題名は、この創造に必要不可欠な小道具だった。彼は卓越したコピーライターでもあったのだ。
ピカソは、芸術家としては珍しく幸福な生涯を送ったほうだが、それは彼が「言葉の力」をこよなく愛し、また求めたことと無関係ではあるまい。
芸術家はイメージ、つまり右脳の活動が活発だから、それを制御できないと、ゴッホのように破滅してしまう。
ここは100回でも繰り返したいところだが、ユングも指摘するように、「イマジネーションは、もともと破壊的なエネルギー」なのだ。あらゆる高等宗教で偶像崇拝が禁じられているのは、右脳を活性化しすぎてしまうためである。
右脳には、物事を悲観的に考える傾向がある。うつは、左脳の活動レベルが相対的に低下することによって生じる。つまり、右能の使い過ぎなのだ。
左脳は、何事も楽観的に考える傾向がある。ピカソは本能的に言葉の力、つまり左脳の働きによって、活発に働く右脳の暴走を防止していたのだろう。
裏を返すと、無謀なチャレンジを繰り返す人、例えばギャンブルで負け続けても懲りない人は、右脳の働きが低過ぎる。このタイプは、一時的に大勝ちすることもあるから、一見すると成功しているように見られやすい。
企業でいったら、エニックスに吸収されたスクウェアがそうした例だろう。一時期、ゲーム業界はスクウェアを中心に廻っていた。まさに、天下を牛耳っていた。その同じ会社が、たった一度の映画の失敗で潰れてしまうなど、常識では考えられない。
無謀な投資の繰り返しは、一度失敗したら取り返しのつかない赤字をもたらす。決して長続きしない。
臆病でもいけない。無謀でもいけない。バランスが大切なのだ。
イメージという破壊的なエネルギーを、言葉によって創造的にコントロールする必要がある。これはまさに、ピカソの創作スタイルそのものだ。
イメージがエンジンなら、言葉はハンドル。この左右分業は、あらゆるアーティストに絶対必要なことだ。バランスを失ったアーティストが破滅した例は、数限りない。
いや、これはどんな人にも大切なことなのだ。右脳は、単独では臆病で保守的なのだから、感情に任せて生きていけば、全てのチャンスを悪く解釈してしまい、何もできないまま人生は終わる。大多数の人が、この落とし穴にはまっている。言葉の力が、そんな僕らに勇気と確信を与えてくれる。
ピカソはさらに、60歳で初の戯曲『尻尾を捕まえられた欲望』を執筆している。還暦で作家デビューを飾ったのだった。
また、歳晩年に至るまで雑誌の発行を続けていたことも、あまり知られていない。『ミノタウロス』『霊感』『愛国者』などがある。ジャーナリストとしての顔も持っていたわけだ。
進んで共産党に入党した(当時、ナチスは共産主義者を地上から抹殺しようとしていた)ことからも理解できるように、ピカソは芸術に没頭しながらも、決して現実社会から遊離することはなかった。トータルなバランスを備えた、巨大な表現者だった。
◆晩年に次々と新境地を開拓◆
ピカソは、世間では定年後といわれる年齢から、ますますその活動の幅を広げていった。62歳でリトグラフ、66歳で初めて陶器に取り組み、年間に3000点も製作したこともあった。
その上、彼のやり方は、従来の陶芸の方法を覆し、不可能とされていた方法をも実現している。例えば、乾かす前の壺をひねり回して、彼が好んだ鳩の形に変えてしまった。
「ピカソのように製作する見習いには、決して職など見つからないだろう」
しかし、ピカソはこの危なっかしいやり方を決して失敗することがなかった。
ピカソは、70歳で新たな表現法『アサンブラージュ』を編み出した。これは、あちこちから拾い集めてきたガラクタを組み合わせ、ひとつの形を表現するというものだった。古典的なブロンズから始まって、あらゆる素材を彫刻に用いたことから、ピカソは20世紀の最も偉大な彫刻家としても認められている。
ピカソは80歳にして、ブリキ板を用いたアート表現に到達する。
着色したブリキ板を切り抜いたり、折り曲げたりして、望んだ造形を実現することに成功した。平面と立体、絵画と彫刻の融合である。この手法こそは、2次元と3次元を股にかけて表現し続けたピカソ芸術の集大成といっても、過言ではないだろう。
その偉大な足跡は、ここに一応の完成を見たのだった。
ピカソは、絵画においてもさらに90歳で新たな手法を確立している! あえて丹念な仕上げをせず、素早い筆使いがそのままカンバスに刻まれるような、幻妙な手法だった。また、色彩は生涯でかつてないほど、ますます豊かになっていった。それは、彼が生涯をかけて完成させたスタイルの否定であり、破壊に他ならなかった。
彼は、ゼロに戻ることを、全く恐れなかった。歳晩年でさえ。
「ピカソは、世界をいったん自分に心服させた上で、再び世界と敵対する勇気を持っていた」
とは、詩人ポール・エリュアールの弁である。
事実、わずか14歳で写実画家として認められ、絵画史上最高の神童として騒がれていたピカソは、自らの絵を「食道向きの絵」と切り捨てる。そして、2次元に立体を表現しようと、キュビズム表現を始めたために、素人にまで「下手くそ」のレッテルを貼られ、蔑まれた。
しかし、比類無き信念によって新たな表現を人類に認めさせると、再びそれを水泡に帰すような、突拍子もない新表現を打ち出す。彼の人生は、その繰り返しだった。
歳晩年にも、その生涯の事業が一応の到達点に至ったことで、あえてそれを否定しかねない、新たなスタートを切ったのだった。ピカソは、青春時代の覇気と好奇心を、いささかも失わなかった。
「過去には、もはや興味はない。自分の作品を真似るくらいなら、他人の作品を真似たほうがマシだ」
人生の終点近くに至っても、ピカソはそのポリシーをいささかも曲げることがなかった。彼ほど、一生涯、同じポリシーを貫き通した人間も珍しい。
歴史的な名声を得ている人物が、この年齢から全く新たな仕事に挑戦した例など、芸術に限らず、どんなジャンルを見渡しても皆無であろう。
今、僕らがピカソに学ぶべきものは、まさにこの微動だにしない信念と、終わりなきチャレンジ魂にある。
◆永遠の青年ピカソ◆
私生活の面でも、ピカソは決して老け込む兆候を見せなかった。
46歳のとき、17歳の少女マリー・テレーズ・ワルテルと出会ったピカソは、すぐさま情熱的な恋に落ちる。ピカソはすでに妻子のある身であり、マリーは娘ほども年の離れた少女だったが、ピカソはそんなことはいっこうに気にしなかった。後に正式に再婚し、一子をもうけている。
やはり、所帯染みてしまうのは、心の若さを保つ上で、致命的ではないだろうか。本来、歳をとったから、立場があるから、新たな恋をしてはいけないということはないのに。恋愛やセックスがホルモンの分泌を活発にし、若返りに貢献することは、医学的にも証明されている。
ピカソはさらに、55歳でドラ・マール、63歳でフランソワーズ・ジローと出会い、恋に落ちている。最後の伴侶となったジャクリーヌ・ロックと結婚したのは、なんと80歳!
肉体的にも若々しく、60代で2人の子供をもうけている。もう70歳近いのに、徹夜で働いたあと、そのまま海で泳ぐこともあった。あらゆる面で、常人を超越した生き方を貫いた。
70代はもちろん、80代、さらに90代になっても、ピカソはバリバリの現役だった。趣味の闘牛見物に出かける以外はほとんど外出せず、毎日、夜中まで創作に熱中した。
79歳のときには、マネの原画を元に、140点もの連作を描いている。また89歳のとき、過去1年間に描いた絵の個展が開催されたが、すでに売れたものを除いても、200点以上もの作品が展示された。しかも、その多くは大作だった。
「まだまだ描きたい絵はたくさん残っている」
ピカソのクリエイターとしての大きな特徴は、異常な創作ペースと、膨大な作品数にある。天才はどのジャンルでもたいてい多作だが、ピカソは特に桁外れだった。
その作品は、現在分かっているだけでも、なんと15万点近く残されている。これは、普通の画家が生涯に残す作品の数百倍にもなり、多作のギネス記録となっている。その全てを把握している研究者は、皆無だろう。それが、僕らがなかなかピカソの全貌をつかみ切れない一因でもある。
「絵を描いている間、私の肉体は植物的に存在しているに過ぎない。だから、我々画家はたいていかなり長く生きるのだ」
ただ実際には、絵を描くという作業は、不自然な姿勢での作業を長時間要求される、肉体労働の側面も持っている。まして、ピカソのように超多作な画家にとって、体力の消耗には、はなはだしいものがあったはず。しかし当のピカソ本人は、全く疲れを感じていなかった。
本人は、働いているというより、好きなことをして遊んでいるという意識だったらしい。それが、これだけハードな生活を続けながら、大病を患うこともなく、91歳の長寿を全うした秘訣だったのかもしれない。
◆その限りない創作意欲の秘訣とは?◆
「芸術家とは、欲しいコレクションを自ら製作するコレクターなのだ」
この言葉は、優秀なクリエイター全てが備えている性質を、この上なく端的に示した一言であろう。クリエイターとコレクターは、表裏一体なのだ。
サービス精神とビジネス感覚は、どんな職業にも等しく求められているものだが、クリエイターの場合、それだけでは不十分。もうひとつ、「遊び心」というテイストが不可欠になる。趣味の延長線上として仕事をしなくてはならない。遊び心無くして、決して斬新な作品は生み出せない。
「サービス」、「ビジネス」、&「ホビー」。優秀なクリエイターは、たいていこの3つの精神を、バランス良く兼ね備えている。
しかし、ピカソは典型的なアマチュアイズムの人であり、周りがなんといおうと、ただひたすら自分の欲しいものを求め続けるだけ。遊び心オンリー。サービス精神とビジネス感覚が皆無であり、その点は、プロとしてあまりお手本にならないかもしれない。ただし、結果的にはそれで大富豪になっているのだから、必ずしも間違った方法とばかりはいえない。
成功の方法は、決してひとつではない。
あえてサービスやビジネスを無視し、遊び心を突き詰めていくのも、斬新な作品を生み出す上では、必要なことかもしれない。ただし、それは多分、周囲にとっては「斬新過ぎる」ので、時代が彼に追いつくまでは、罵倒と貧困を覚悟しなければならないだろう。
僕は96年の段階で、若者が政治経済の中枢に参入する必要性を訴えた。当時、世間の話題はオウム事件一色だったが、僕はこれを、「優秀な若者を飼い殺しにする日本社会の構造が招いた必然」だと分析した。
ライブドアの堀江貴文が球界参入を表明し、日本経済界の風雲児として登場したのは、それから8年も後のことだった。彼の登場で、ようやく日本にも本格的な世代交代への理解が広まってきたが、それまでの僕は、ほとんどキ××イ扱いだった。
ピカソも、経済的に安定したのは、ようやく30歳を過ぎてからだった。しかしこれはまだマシなほうで、中には、一生報われなかった天才も珍しくない。比較的若いうちに報われたピカソは、強運さえも兼ね備えていたのだった。
画家であり、陶芸家であり、彫刻家であり、詩人であり、作家であり、ジャーナリストであり……ピカソこそは、ダ・ビンチを凌ぐ唯一の総合芸術家だったのかもしれない。その神話的スケールを誇る作品群と人生は、今後も人類に多くの糧を与え続けるだろう。
探究には終わりがない。なぜなら決して見つからないのだから
パブロ・ピカソ
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しかしその中でも、かのパブロ・ピカソほど、生涯を通じて少年のような好奇心を失わなかった人物は、いなかったのではないだろうか。
ピカソは写実画の神童として知られ、青年期にはキュビズムを開拓したことでも知られている。その上で、歳晩年に至るまで、その才能と創作ペースを全く衰えさせることがなかった。それどころか、ますます多方面に才能を開化させ、総合芸術家としての完成に向かっていったのだった。
むしろその後半生にこそ、この巨人の真価がある。歳晩年に至るまで、その人生には暗さが全く見られない。
天才の中でも、これは希有な事例であろう。たいていの天才は、人生の一時期において輝くだけで、歴史から絶賛される存在となる。平均では、30代前後が天才のピークだといわれる。晩年に新境地を開いた例など、ごくわずかでしかない。人生の全てを輝き続けた天才など、まず他にいない。
その点、ピカソの人生は、超高齢社会の21世紀において特に、モデルケースとして推奨できるように思う。
◆文学者ピカソ◆
ピカソはもともと多くの詩人と交友があったが、54歳で初めて自らポエムをノートし始め、詩人としても認められる。数ヶ月の間、全く絵筆をとらず、詩作に明け暮れたという。
「名付けることが全て。それで十分なのだ」
ピカソの作品には、題名を聞いてはじめて理解できるものが多い。たとえば、ミニカーにピカソが「猿の顔」と名付けることで、人々はもう、ミニカーが猿の顔にしか見えない。
ピカソが創造しているのは、作品そのものではなく、人々の脳裏に浮かぶイメージだった。題名は、この創造に必要不可欠な小道具だった。彼は卓越したコピーライターでもあったのだ。
ピカソは、芸術家としては珍しく幸福な生涯を送ったほうだが、それは彼が「言葉の力」をこよなく愛し、また求めたことと無関係ではあるまい。
芸術家はイメージ、つまり右脳の活動が活発だから、それを制御できないと、ゴッホのように破滅してしまう。
ここは100回でも繰り返したいところだが、ユングも指摘するように、「イマジネーションは、もともと破壊的なエネルギー」なのだ。あらゆる高等宗教で偶像崇拝が禁じられているのは、右脳を活性化しすぎてしまうためである。
右脳には、物事を悲観的に考える傾向がある。うつは、左脳の活動レベルが相対的に低下することによって生じる。つまり、右能の使い過ぎなのだ。
左脳は、何事も楽観的に考える傾向がある。ピカソは本能的に言葉の力、つまり左脳の働きによって、活発に働く右脳の暴走を防止していたのだろう。
裏を返すと、無謀なチャレンジを繰り返す人、例えばギャンブルで負け続けても懲りない人は、右脳の働きが低過ぎる。このタイプは、一時的に大勝ちすることもあるから、一見すると成功しているように見られやすい。
企業でいったら、エニックスに吸収されたスクウェアがそうした例だろう。一時期、ゲーム業界はスクウェアを中心に廻っていた。まさに、天下を牛耳っていた。その同じ会社が、たった一度の映画の失敗で潰れてしまうなど、常識では考えられない。
無謀な投資の繰り返しは、一度失敗したら取り返しのつかない赤字をもたらす。決して長続きしない。
臆病でもいけない。無謀でもいけない。バランスが大切なのだ。
イメージという破壊的なエネルギーを、言葉によって創造的にコントロールする必要がある。これはまさに、ピカソの創作スタイルそのものだ。
イメージがエンジンなら、言葉はハンドル。この左右分業は、あらゆるアーティストに絶対必要なことだ。バランスを失ったアーティストが破滅した例は、数限りない。
いや、これはどんな人にも大切なことなのだ。右脳は、単独では臆病で保守的なのだから、感情に任せて生きていけば、全てのチャンスを悪く解釈してしまい、何もできないまま人生は終わる。大多数の人が、この落とし穴にはまっている。言葉の力が、そんな僕らに勇気と確信を与えてくれる。
ピカソはさらに、60歳で初の戯曲『尻尾を捕まえられた欲望』を執筆している。還暦で作家デビューを飾ったのだった。
また、歳晩年に至るまで雑誌の発行を続けていたことも、あまり知られていない。『ミノタウロス』『霊感』『愛国者』などがある。ジャーナリストとしての顔も持っていたわけだ。
進んで共産党に入党した(当時、ナチスは共産主義者を地上から抹殺しようとしていた)ことからも理解できるように、ピカソは芸術に没頭しながらも、決して現実社会から遊離することはなかった。トータルなバランスを備えた、巨大な表現者だった。
◆晩年に次々と新境地を開拓◆
ピカソは、世間では定年後といわれる年齢から、ますますその活動の幅を広げていった。62歳でリトグラフ、66歳で初めて陶器に取り組み、年間に3000点も製作したこともあった。
その上、彼のやり方は、従来の陶芸の方法を覆し、不可能とされていた方法をも実現している。例えば、乾かす前の壺をひねり回して、彼が好んだ鳩の形に変えてしまった。
「ピカソのように製作する見習いには、決して職など見つからないだろう」
しかし、ピカソはこの危なっかしいやり方を決して失敗することがなかった。
ピカソは、70歳で新たな表現法『アサンブラージュ』を編み出した。これは、あちこちから拾い集めてきたガラクタを組み合わせ、ひとつの形を表現するというものだった。古典的なブロンズから始まって、あらゆる素材を彫刻に用いたことから、ピカソは20世紀の最も偉大な彫刻家としても認められている。
ピカソは80歳にして、ブリキ板を用いたアート表現に到達する。
着色したブリキ板を切り抜いたり、折り曲げたりして、望んだ造形を実現することに成功した。平面と立体、絵画と彫刻の融合である。この手法こそは、2次元と3次元を股にかけて表現し続けたピカソ芸術の集大成といっても、過言ではないだろう。
その偉大な足跡は、ここに一応の完成を見たのだった。
ピカソは、絵画においてもさらに90歳で新たな手法を確立している! あえて丹念な仕上げをせず、素早い筆使いがそのままカンバスに刻まれるような、幻妙な手法だった。また、色彩は生涯でかつてないほど、ますます豊かになっていった。それは、彼が生涯をかけて完成させたスタイルの否定であり、破壊に他ならなかった。
彼は、ゼロに戻ることを、全く恐れなかった。歳晩年でさえ。
「ピカソは、世界をいったん自分に心服させた上で、再び世界と敵対する勇気を持っていた」
とは、詩人ポール・エリュアールの弁である。
事実、わずか14歳で写実画家として認められ、絵画史上最高の神童として騒がれていたピカソは、自らの絵を「食道向きの絵」と切り捨てる。そして、2次元に立体を表現しようと、キュビズム表現を始めたために、素人にまで「下手くそ」のレッテルを貼られ、蔑まれた。
しかし、比類無き信念によって新たな表現を人類に認めさせると、再びそれを水泡に帰すような、突拍子もない新表現を打ち出す。彼の人生は、その繰り返しだった。
歳晩年にも、その生涯の事業が一応の到達点に至ったことで、あえてそれを否定しかねない、新たなスタートを切ったのだった。ピカソは、青春時代の覇気と好奇心を、いささかも失わなかった。
「過去には、もはや興味はない。自分の作品を真似るくらいなら、他人の作品を真似たほうがマシだ」
人生の終点近くに至っても、ピカソはそのポリシーをいささかも曲げることがなかった。彼ほど、一生涯、同じポリシーを貫き通した人間も珍しい。
歴史的な名声を得ている人物が、この年齢から全く新たな仕事に挑戦した例など、芸術に限らず、どんなジャンルを見渡しても皆無であろう。
今、僕らがピカソに学ぶべきものは、まさにこの微動だにしない信念と、終わりなきチャレンジ魂にある。
◆永遠の青年ピカソ◆
私生活の面でも、ピカソは決して老け込む兆候を見せなかった。
46歳のとき、17歳の少女マリー・テレーズ・ワルテルと出会ったピカソは、すぐさま情熱的な恋に落ちる。ピカソはすでに妻子のある身であり、マリーは娘ほども年の離れた少女だったが、ピカソはそんなことはいっこうに気にしなかった。後に正式に再婚し、一子をもうけている。
やはり、所帯染みてしまうのは、心の若さを保つ上で、致命的ではないだろうか。本来、歳をとったから、立場があるから、新たな恋をしてはいけないということはないのに。恋愛やセックスがホルモンの分泌を活発にし、若返りに貢献することは、医学的にも証明されている。
ピカソはさらに、55歳でドラ・マール、63歳でフランソワーズ・ジローと出会い、恋に落ちている。最後の伴侶となったジャクリーヌ・ロックと結婚したのは、なんと80歳!
肉体的にも若々しく、60代で2人の子供をもうけている。もう70歳近いのに、徹夜で働いたあと、そのまま海で泳ぐこともあった。あらゆる面で、常人を超越した生き方を貫いた。
70代はもちろん、80代、さらに90代になっても、ピカソはバリバリの現役だった。趣味の闘牛見物に出かける以外はほとんど外出せず、毎日、夜中まで創作に熱中した。
79歳のときには、マネの原画を元に、140点もの連作を描いている。また89歳のとき、過去1年間に描いた絵の個展が開催されたが、すでに売れたものを除いても、200点以上もの作品が展示された。しかも、その多くは大作だった。
「まだまだ描きたい絵はたくさん残っている」
ピカソのクリエイターとしての大きな特徴は、異常な創作ペースと、膨大な作品数にある。天才はどのジャンルでもたいてい多作だが、ピカソは特に桁外れだった。
その作品は、現在分かっているだけでも、なんと15万点近く残されている。これは、普通の画家が生涯に残す作品の数百倍にもなり、多作のギネス記録となっている。その全てを把握している研究者は、皆無だろう。それが、僕らがなかなかピカソの全貌をつかみ切れない一因でもある。
「絵を描いている間、私の肉体は植物的に存在しているに過ぎない。だから、我々画家はたいていかなり長く生きるのだ」
ただ実際には、絵を描くという作業は、不自然な姿勢での作業を長時間要求される、肉体労働の側面も持っている。まして、ピカソのように超多作な画家にとって、体力の消耗には、はなはだしいものがあったはず。しかし当のピカソ本人は、全く疲れを感じていなかった。
本人は、働いているというより、好きなことをして遊んでいるという意識だったらしい。それが、これだけハードな生活を続けながら、大病を患うこともなく、91歳の長寿を全うした秘訣だったのかもしれない。
◆その限りない創作意欲の秘訣とは?◆
「芸術家とは、欲しいコレクションを自ら製作するコレクターなのだ」
この言葉は、優秀なクリエイター全てが備えている性質を、この上なく端的に示した一言であろう。クリエイターとコレクターは、表裏一体なのだ。
サービス精神とビジネス感覚は、どんな職業にも等しく求められているものだが、クリエイターの場合、それだけでは不十分。もうひとつ、「遊び心」というテイストが不可欠になる。趣味の延長線上として仕事をしなくてはならない。遊び心無くして、決して斬新な作品は生み出せない。
「サービス」、「ビジネス」、&「ホビー」。優秀なクリエイターは、たいていこの3つの精神を、バランス良く兼ね備えている。
しかし、ピカソは典型的なアマチュアイズムの人であり、周りがなんといおうと、ただひたすら自分の欲しいものを求め続けるだけ。遊び心オンリー。サービス精神とビジネス感覚が皆無であり、その点は、プロとしてあまりお手本にならないかもしれない。ただし、結果的にはそれで大富豪になっているのだから、必ずしも間違った方法とばかりはいえない。
成功の方法は、決してひとつではない。
あえてサービスやビジネスを無視し、遊び心を突き詰めていくのも、斬新な作品を生み出す上では、必要なことかもしれない。ただし、それは多分、周囲にとっては「斬新過ぎる」ので、時代が彼に追いつくまでは、罵倒と貧困を覚悟しなければならないだろう。
僕は96年の段階で、若者が政治経済の中枢に参入する必要性を訴えた。当時、世間の話題はオウム事件一色だったが、僕はこれを、「優秀な若者を飼い殺しにする日本社会の構造が招いた必然」だと分析した。
ライブドアの堀江貴文が球界参入を表明し、日本経済界の風雲児として登場したのは、それから8年も後のことだった。彼の登場で、ようやく日本にも本格的な世代交代への理解が広まってきたが、それまでの僕は、ほとんどキ××イ扱いだった。
ピカソも、経済的に安定したのは、ようやく30歳を過ぎてからだった。しかしこれはまだマシなほうで、中には、一生報われなかった天才も珍しくない。比較的若いうちに報われたピカソは、強運さえも兼ね備えていたのだった。
画家であり、陶芸家であり、彫刻家であり、詩人であり、作家であり、ジャーナリストであり……ピカソこそは、ダ・ビンチを凌ぐ唯一の総合芸術家だったのかもしれない。その神話的スケールを誇る作品群と人生は、今後も人類に多くの糧を与え続けるだろう。
探究には終わりがない。なぜなら決して見つからないのだから
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