もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

ペンは剣よりも強しとは?

2021年06月23日 | 社会・政治問題

 本日の産経抄で、自分の理解が間違っていたことを知った。

 「ペンは剣より強し」は、言論は暴力的な手段に勝ると理解していたし、ウィキペディアの解説にも「独立した報道機関などの思考・言論・著述・情報の伝達は、直接的な暴力よりも人々に影響力がある換喩(比喩)]」と解説されている。同様の考えは古くから云い慣らされていたらしいが、広く人口に膾炙したのは英国の作家エドワード・ブルワー=リットンが1839年に発表した歴史劇のなかで、17世紀のフランス王国の宰相リシュリューに語らせた台詞からとされている。台詞は武器を以て脅迫する部下に対して自分が起草した命令書を示しながら「偉大(強権)な人間の統治のもとではペンは剣よりも強し」と武器を捨てるよう諭している。有体に言えば、「強権国家では権力者のペンがサインする命令書の方が圧倒的に強い。無駄な抵抗は止めよ」と述べているのである。
 台詞の前段を省略した「ペンは剣より強し」は、朝日新聞の組織暴力撲滅キャンペーンに対する暴力団の犯行とされる神戸支局襲撃事件に際して盛んに用いられたこともあって、自分の中では言論の優位を説くものとなっていたが、実は香港に対する中国共産党の強権・人権抑圧について習近平主席が使用することこそ相応しい言葉であるように思える。閑話休題。
 古人の有名な言の一部を切り取って大衆の喝さいを受けた例として、美濃部亮吉元都知事がゴミ焼却場建設反対者に対して「一人でも反対する人がいれば橋を架けない」と発言して建設計画を撤回したことが思い出される。発言当時は少数の反対者に寄り添うものとされていたが、後年この言葉はフランスのフランツ・ファノンの言葉を引用したもので、後段には「泳いで渡るか船で渡る自由がある」と続いていることが明らかとなった。学者であった美濃部氏は当然に全文を知った上で都合の良い部分のみ引用したものであろうことから、真意は「反対者がいるのでゴミ焼却場は建てない。ごみ処分が必要な人は不法投棄するか焼却処分すれば良い。ご勝手に」であったと解されている。

 発言の前後の脈略を無視して、その一部・一節を自説誘導の手段としてセンセーショナルに報道する手法は現在も行われている。特に朝・毎新聞やテレ朝・TBSに顕著とされ、福島原発の吉田発言、麻生財相の老後資金2千万円発言などは好例であるように思える。そのことに対する抗議や批判に対して各社は、締め切り時間、記者の読解能力不足、紙面・放送時間の制約上の「編集権」なる新設を掲げるとともに「報道しない自由」と云う珍説を開陳して自社の正当性を主張している。さらに憂うべきは、一社のスクープ的報道について他のメディアが検証することもなく「バスに乗り遅れるな」と一斉に追随することで、一社のフェイクが瞬く間に真実となって津々浦々にまで拡散・伝播することであると思う。
 情報化社会に生きる我々読者・視聴者は、メディアの一過性の熱情に引き込まれない賢さを以て冷静な民意を形作ることが求められているように思う。


ワクチン接種率の向上には

2021年06月22日 | コロナ

 武漢ウィルスのワクチンの接種が進んでいる。

 公式な統計ではないが、接種を希望する割合が60歳以上では70%超であるのに対して20代では40%弱と低調であるらしい。一方、定量的なものでは無いが、大学生の大半が対面授業の再開を希望していることも報じられている。両事象の調査対象者が不明なことから、即断することには問題があると思うが、傾向として「若年者がワクチン接種に積極的でない」ことを示しているように思える。積極的でない理由の多くは、「若年者は重症化する危険が少ない」ことと「副反応が怖い」ことであると報じられているが、大学での集団接種(職場接種)を計画している日本体育大学担当者の「90%の学生が接種を希望している」とコメントしていることも報じられていることから、在校生の体力、気概、集団行動の心構え等の要因も見逃せないように思える。
 ワクチン接種は自由意思に基づくもので強制すべきものでは無いが、【対面授業や自由に往来・飲食するという権利的行為を得るためには、ワクチン接種と云う義務的対価が伴うのは当然】とするのは暴論であろうか。
 国を挙げて中国コロナ禍の終息を目指しているが、終息の前提には「国民の7割が抗体を持つこと」が挙げられていることを思えば、行動の頻度・範囲が大である若年層への接種率を上げることが焦点であることから、我々高齢者も対象の若年縁者説得に努めることも必要であるように思える。
 権利を得るためには相応の義務が必要であることの好例は、アメリカの兵役登録であるように思える。
 アメリカの兵役登録(SSS)は、18歳~26歳までのアメリカ市民・永住権保持者・不法滞在者の全ての男児に登録義務が課せられており、登録を怠ったり拒否した場合は、25万ドルの罰金または5年間の禁固刑になる可能性があるとされている。さらに、非登録者は、大学での公的奨学金申請や連邦政府関係への就職も不可能で、大学への入学も拒否する州もあるらしい。当然、有事にあっては兵役登録名簿に添って抽選徴兵が行われるが、徴兵による戦死傷の可能性はあっても平時に安逸な生活を送るためには登録は不可欠で、現在の登録者は1億人を超えているそうである。

 日本国憲法で国民に課せられて三大義務は、納税・教育・労働であると教えられたが、厳格に処罰される脱税を除いて、節税に名を借りた資産保護、義務教育未履修者の存在、無職渡世者の存在などを考えれば、義務の履行違反について日本は「丁度よい寛容さ」であるように思えるが、パンデミック制圧のためには三大義務以外にも義務的な行為が求められているように感じるところである。


鎖国を学ぶ

2021年06月21日 | 社会・政治問題

 江戸時代の「鎖国」という言葉が、近年見直されているらしいことを知った。

 中学校社会科のレベルで進化を停止した自分の知識では、1609(慶長14)年の大船建造禁止令や1639(寛永16)年の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854(嘉永7)年の日米和親条約締結までの期間は鎖国であるが、近年の教科書ではこの期間を「いわゆる鎖国」若しくは「鎖国」と表記されているらしい。これは、近年の歴史学者が「この期間にあっても幕府(中央政府機関)が管理する通商路があったことから、完全に国を閉ざしてはいない」とすることに依っているとされている。ウィキペディアでは幕府公認の通商路には、近年の命名であるが松前口(対清露)、長崎口(対蘭清)、対馬口(対朝鮮)、薩摩口(対琉球)の4路があったが、これ以外にも浜田藩の「抜荷」摘発や薩摩藩の対清貿易が討幕財源とされたように密貿易は各藩で行われていたらしい。また、鎖国を歴史用語と認めたくないのは、為政者(幕府)が使用していないことも理由の一つと思われるが、”鎖国”という言葉は11代将軍家斉時代の1801(享和元)年に蘭学者の志筑忠雄が自著「鎖国論」で初めて使用したもので、数年後には幕閣・知識階層に普及したものの一般に使用されるのは明治中期以降とされているので、江戸幕府が公式に使用しないのは当然である。
 また、同時期の東南アジアでも日本と同様の通商管理(制限)が行われており、これを「海禁政策」と呼ぶことから、日本の鎖国も「海禁」と呼ぶ論も学会にあるらしいが、陸にも国境を持つ国の通商管理と日本のそれを同一に捉えるのは如何なものであろうか。

 645(大化元)年に中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事件を「大化の改新」と教育されてきたが、近年では大化の改新は一連の政治改革を示すもので暗殺事件そのものは「乙巳の変」とされたが「乙巳」自体が645年をピンポイントに示さないことの不条理を以前にも書いた。
 歴史教育は日本人としてのアイデンティティ涵養が本分と考えるので、初中等教育に於いては歴史を線として教えることが重要で、徒に点の呼称や文字資料の有無に拘る必要は無いように思える。大化の改新は摂関政治~天皇親政~武家政治に至る一連で捉えることができたら十分で、暗殺事件を「乙巳の変」として点描することには何の意味も無いように思える。
 鎖国についても同様で、外国からの情報・科学技術を制限した時代を鎖国と呼ぶことで、以後の開国による明治維新と欧風化の対比が鮮明となるように思える。
 乙巳の変、海禁などは、本格的に日本史を勉強する大学生・研究者の机上にあれば十分で、学者のミクロ視点から為される改変は「木を見て森を見ない」空疎な努力で、ミクロ点描を一般国民に敷衍する歴史教育は、教育に値しいようにも思える。
 チャーチルは、人的往来や情報を遮断したソ連を「鉄のカーテン」と呼び、我々も僅かの国としか外交・通商関係を持たず、情報遮断しているクメール・ルージュや北朝鮮をマクロ目線で鎖国状態と呼んで違和感を覚えない。このことを考えれば”鎖国”は諸事情は違えど孤立を選ぶ国を指すのに相応しい用語と思えるが。


イスラエルを調査する

2021年06月20日 | 社会・政治問題

 イスラエルで総選挙後2カ月間以上の曲折を重ねた末、12年間政権を維持していたネタニヤフ政権が交代した。

 新政権は、中道派、右派、左派、アラブ系の合わせて8つの政党の連立政権であり、新首相となったナフタリ・ベネット氏は強硬右派「ヤミナ」の党首であるが、ヤミナ党の議席は8議席とされている。また、ベネット政権は4年任期の半分を経過した2023年に、連立内では最大勢力(国会内第2党)の中道派「イェシュアティド」党首イール・ラピド氏に政権を移譲する輪番制とされている。
 イスラエルの政治形態は議院内閣制で、国会(クネセト)は一院制、議員定数は120名、選挙制度は拘束名簿式政党比例代表制となっている>
 何故イスラエルでは8党も参加する連立政権が誕生するのかと調べて見た。
 人口900万人のイスラエルには20近い政党が乱立し、クネセトに議席を持つ政党も10党を超えており単独の政党が過半数の61議席を獲得することはほぼ不可能で、建国以来過半数を獲得した政党は無いとされている。そんな事情もあってか、今回の首班指名でも賛成60、反対59、棄権1という有様で、賛成票を投じた議員が1名でも欠けると連立政権自体が危うくなることも予想される。それ以上に史上初めてアラブ系政党「ラアム」が政権入りしたことで、中東政策では政権内の意思統一が図れずに空中分解する危険性すら予測される。

 今回の調査(難解な部分が多く勉強とまでは至らなかった。)を通じて、イスラエルに関して2つのことを知った。
 1は、国家元首である大統領に関してである。大統領は国民の誰でも立候補でき、選出方法はクネセトにおいて、過半数の支持を得た候補が選出される。1、2回目の投票で過半数を得た候補がいなければ、3回目の投票で最も多く得票した候補が選出される仕組みとなっている。大統領の任期は7年で再選は禁止されており、副大統領職はおかれていないために大統領が、死亡、辞任、解任の場合にはクネセト議長が代理として職務にあたる。大統領としての適格を著しく欠く場合、または職務遂行が困難となった場合には、クネセトで3/4以上の賛成で大統領を解任できるともされている。
 2は、イスラエルには憲法がないことである。イスラエルも、独立当初は初代首相ベン=グリオンのもとで1948年10月までに憲法を制定するとしていたが、対アラブ戦争等で時期を失い、1950年になって国体や人権に関する13の基本法を定めて、以後この条文を纏めて憲法に昇格させることを意図していたが、結局、憲法典の制定は棚上げにされたまま現在に至っている。憲法制定に至らなかった理由は、相次ぐ中東戦争で憲法どころではないという事情に加え、「イスラエルという国を誰のための国とするか」という重要事項について意見がまとまらなかったからとされている。このことは、政党の乱立と同根で、アラブ人とユダヤ人が呉越同舟状態であることや、世界各国を漂流した間にユダヤ人自体の価値観も多様化した所為ではと思っている。ちなみに基本法は13であるが、日本国憲法も11章で構成されていることから見れば、国の大方針と雖も10個内外に集約されるのであろうか。


河井克行被告とルドルフ・ヘス

2021年06月19日 | 社会・政治問題

 元法相の河井克行被告に対する地裁判決が出された。

 判決は懲役3年、追徴金130万円であったが、被告側は即日抗告したと報じられている。
 河井被告の選挙違反(買収容疑)については、資金の流れまでは解明されなかったものの広範囲かつ徹底的な買収であることは明らかとされたと思っている。振り返れば、昭和40年代頃までは立候補者、有権者の双方ともに票を売買することにさほどの罪悪感を持たなかったために買収は半ば常態化し、国政選挙はもとより地方議員の選挙に至るまで買収の選挙違反は引きも切らない状態であったように思う。その後公職選挙法の改正や、有権者の意識が高まったこともあって買収事案は激減したが、河井被告と広島選挙区民にあってはあれほどの買収が、さしたる隠蔽行為もなく半ば公然と行われることを見逃す、受け入れる土壌が残されていたのであろうか。
 河井被告が受けた懲役刑と禁固刑について考えてみた。自分は、刑事犯は懲役刑に、国事犯や思想犯は禁固刑にと大雑把に思い込んでいたが、懲役刑と禁固刑は単に罪状・罪科の軽重だけによるものであるらしい。そう聞けば、罰金刑を超えるがそれほど重大ではない交通違反者には禁固刑が適用され、武力による政権奪取を標榜する共産党や党員は破防法の監視範囲とはされているものの、国事犯や思想犯として裁かれることもない。第一、戦前の治安維持法に類する法律を含め、反逆罪が無い現在の日本では、過去に国事犯・思想犯として裁かれた北一輝、大川周明、大杉栄と同等の主張をしても訴追されることは無いであろうことから、思想犯、国事犯は今後とも存在し得ないように思える。
 懲役と禁固の違いは、拘留中に作業(役務)を強制されるか否かのみであり、法曹関係者の解説でも、刑罰の重い順に死刑、懲役、禁固、罰金・・とされているが、作業を強制されない禁固受刑者も暇を持て余して作業に志願するようである。

 国事犯に対する禁固刑では、東京裁判やニュルンベルク裁判での受刑者の例が思い起こされる。特に、ニュルンベルク裁判で終身禁固の判決を受け1947年7月に他の受刑者と共にシュパンダウ刑務所に収監されたルドルフ・ヘスは、他の受刑者が1966年9月までに順次釈放された後も、各界からの相次ぐ釈放請願をソ連が拒否し続けたために、1987年8月に93歳となったヘスが自殺するまでただ一人収監され続けた。そのために、同刑務所はヘス一人のために維持され続け米英仏ソの4か国は交代で看守を派出していた。
 ヘスの禁固が40年にも及んだことを考えると、列国の国事犯に対する重大視と怨念が改めて浮き彫りにされるように思える。