ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

他者の欲望

2005年11月30日 | 読書
<書誌情報>
 ラカンの精神分析 / 新宮一成著. 講談社, 1995. (講談社現代新書)

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 この本を読みながら、考えていたことは息子のことだった。パリ・フロイト派の創設者ジャック・ラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言った。

 いま思春期真っ只中の長男の中では嵐が吹き荒れている。別に非行に走ったわけでもなんでもないが、彼には毎日が欲求不満の連続なのだ。彼の不満はケータイを買ってもらえないこと、お小遣いが少ないこと、お年玉を取り上げられたこと、お気に入りの服が少ないこと、などなど、要は「友達はみんな持っているのに!」自分が持っていないことに対する不満だ。まさに彼は「他者の欲望を欲望」して欲求不満が爆発寸前。

ラカンのいう「他者の欲望」はそんな皮相なことではないかもしれないが、わたしが感じたのはそういうことだった。

 ラカンは死と他者のことを述べている。それは内田樹さんの『他者と死者』を読んでもそう書いてあるのだが、同じラカンについて書かれた本でも、哲学者と精神科医ではやはりアプローチが違うので、なかなか新鮮でおもしろかった。

 「私という他者」の項目から少し引用しよう。

《主体を示す言葉というものがあるとしても、主体がそれを用いて、「私は何々である」という真理の形で己れを示そうとするや否や、主体は己れ自身であることから疎外される。したがって、主体は己れ以外のもの、すなわち他者でなくてはならなくなる。ランボーの句(私はひとりの他者である――引用者註)は、自己言及の構造に基づくこの人間の脆弱性をよく言い当てている。精神病は、この脆弱性の部分を目がけて、人間を襲うのである。
 このように、人間は大文字の他者を介することによってしか、自分本来のありうべき姿に近づくことができず、したがって自己設立の過程で、主体は良かれ悪しかれ、他者であることを通過する。こういった他者になる旅程において、精神分析で問題になる
いわゆる同一化が幾重にも発生する。毎日の精神分析の経験の中で、ラカンは、人間が他者にならねばならぬ必然性について思いめぐらしながら、ランボーの句を反芻していたのであろう。》(p144ー145)

 ラカンを理解するためにはいくつかキーワードや基本用語があって、その一番大きなのが「対象a」だ。(いちばん大きいというのはわたしの理解)

《他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカンの用語で「対象a」と言う。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。》(p88)

 この説明を読んで一読で意味がわかる人がいるのだろうか? いるかもしれないが、わたしはさっぱりわからない。それにしても「対象aは黄金数だ」というテーゼを述べるためにややこしい数式を引っ張り出してくる必要があったのだろうか? 『知の欺瞞』(ソーカル,ブリクモン著)でさんざんこきおろされたラカンの超絶数学、わたしの理解を超えているのでそこは読み飛ばしておいた(笑)。

 それから、本書は「ラカンの精神分析」といいながらそれがどういうものなのかは最後までわからなかった。実際にラカンがどのように患者に接していたのかその実践的な記録があればわかりやすいのに。ただし、ラカンの伝記的事実について知りたければ本書は参考になる。

 この本はさらっと一回読んだだけではよくわからない。再読してまた新たな理解があれば書きたい。わたしは何よりも「他者論」に惹かれる。わたしは生きている限り未来永劫他者によって苦しめられ、他者によって生かされ、他者によって自己を発見できるのだと思う。