去年の今頃、鶴見俊輔さんに小熊英二さんと上野千鶴子さんがインタビューした『戦争が遺したもの』の読書会をしていた。そのとき、何人がかりかでこの素晴らしい本を読んで、ああでもないこうでもないと語りあったというのに、その誰もが気づかなかったことを原田達さんが雑誌『Becoming』16号に書かれている。
同じ本を読んでも読みの深さが全然違う。さすがは鶴見俊輔研究者だなと感動すると同時に、原田さんがずっと鶴見俊輔を追いかけ続ける理由がやっとわかったような気がする。
『戦争が遺したもの』において、鶴見俊輔は自分よりずっと年下の研究者である上野と小熊に「追及」されて、しばしば言いよどむ。原田さんは鶴見の「言い淀み」に注目する。
《人が言い淀むとき、時としてそこに重要なものが芽ぐんでいるものである。言語化しようとしてできないもの、もしくは言語化の前の段階に踏み込んだとき、人は言葉をうしなう。じつは鶴見俊輔は、この前言語化の領域の重要性をうまずに語りつづけた思想家だった》
読書会でも参加者が一様に違和感を表明した、<上野千鶴子による従軍慰安所でのできごと追及問題>について、原田さんは鶴見と上野の歴史観の違いを指摘する。
鶴見は「日付のある判断」を重要視する。歴史的出来事を今から振り返って批判するのではなく、「その人物と思想が生まれた時点にもどって理解する」のが鶴見のやりかただ。
ここには、鶴見の時間意識が反映されているという。
《時間は遡及できるし、遡及すべきだという発想がここにはある。このような発想を鶴見が手に入れたのは、R.レッドフィールドの『小さなコミュニティー』を読んだときである。それから50年、鶴見はこの時間感覚をしつように手放さない》
さらに、その鶴見の時間感覚を生んだ要因に彼の鬱病があるという。
《「あとの祭り」という時間感覚にとらわれているうつ病者だからこそ、それを乗りこえる時間意識に魅惑されることがある。それは、「過去を生きることはできない、未来を生きねばならない」という言葉が鶴見にあたえた治療的衝撃のことである。………
鶴見はうつ病を病んでいたからこそ、「ポスト・フェストゥム」な時間意識からはなれ、ありうべき未来がふくまれているものとして過去を再構成することができたのだろう》
原田さんがここで指摘されている「時間感覚」、「日付のある判断」、「過去がいつまでも決済できないものとして現在を呪縛する」ということがらは、戦争責任・戦後補償問題を考える大きなヒントになると思う。
原田さんは、鶴見俊輔の「言い淀み」を生むもうひとつの要因、「あいまいさ」にも言及する。鶴見俊輔は矛盾するものをそのまま受け入れる思想家だという。
個別性に注目し、「自分の問題」として社会問題を見る鶴見の立ち位置は、時として社会運動内部から批判を受ける。上野千鶴子の「慰安所に「愛」は存在するのか」という追及、「国民基金に賛成したのは間違いではないのか」という追及がそれであるが、それに対して鶴見俊輔は殴られつづける(批判される)ことを引き受けると宣言する。鶴見俊輔の位置取りは、「知的マゾヒズム」だ。しかし、それが今や受け入れられる素地は小さくなっていると原田さんはいう。
さらに小熊英二もまた、自分(知識人)の位置はどこにあるのかよりも、他者をどう見るかが問題だと言う。「自分の問題」としてものごとを見るという鶴見の位置取りがここでは通用しないのだ。
わたしは鶴見俊輔という哲学者の魅力がこれまでいまいちよくわからなかった。『戦争が遺したもの』を読んでやっと「鶴見さんってすごい」と思えるようになったのだが、原田論文を読むことにより、その思いはいっそう深まった。原田さんは『鶴見俊輔と希望の社会学』(2001年)よりもいっそう鶴見の思想そのものに踏み込んだ。鶴見俊輔は汲めどつきせぬ魅力を持つ人なのだろう、わたしはまだまだそのほんのとば口を覗いたにすぎない。
『戦争が遺したもの』を読まれた方には、原田達「時間とあいまい」を併読されることを強くお奨めします。ぜひぜひ、『Becoming』16号を購入して読んでみてください。理解がいっそう深まります。
読書会の報告はここ
『Becoming』の注文はここ
同じ本を読んでも読みの深さが全然違う。さすがは鶴見俊輔研究者だなと感動すると同時に、原田さんがずっと鶴見俊輔を追いかけ続ける理由がやっとわかったような気がする。
『戦争が遺したもの』において、鶴見俊輔は自分よりずっと年下の研究者である上野と小熊に「追及」されて、しばしば言いよどむ。原田さんは鶴見の「言い淀み」に注目する。
《人が言い淀むとき、時としてそこに重要なものが芽ぐんでいるものである。言語化しようとしてできないもの、もしくは言語化の前の段階に踏み込んだとき、人は言葉をうしなう。じつは鶴見俊輔は、この前言語化の領域の重要性をうまずに語りつづけた思想家だった》
読書会でも参加者が一様に違和感を表明した、<上野千鶴子による従軍慰安所でのできごと追及問題>について、原田さんは鶴見と上野の歴史観の違いを指摘する。
鶴見は「日付のある判断」を重要視する。歴史的出来事を今から振り返って批判するのではなく、「その人物と思想が生まれた時点にもどって理解する」のが鶴見のやりかただ。
ここには、鶴見の時間意識が反映されているという。
《時間は遡及できるし、遡及すべきだという発想がここにはある。このような発想を鶴見が手に入れたのは、R.レッドフィールドの『小さなコミュニティー』を読んだときである。それから50年、鶴見はこの時間感覚をしつように手放さない》
さらに、その鶴見の時間感覚を生んだ要因に彼の鬱病があるという。
《「あとの祭り」という時間感覚にとらわれているうつ病者だからこそ、それを乗りこえる時間意識に魅惑されることがある。それは、「過去を生きることはできない、未来を生きねばならない」という言葉が鶴見にあたえた治療的衝撃のことである。………
鶴見はうつ病を病んでいたからこそ、「ポスト・フェストゥム」な時間意識からはなれ、ありうべき未来がふくまれているものとして過去を再構成することができたのだろう》
原田さんがここで指摘されている「時間感覚」、「日付のある判断」、「過去がいつまでも決済できないものとして現在を呪縛する」ということがらは、戦争責任・戦後補償問題を考える大きなヒントになると思う。
原田さんは、鶴見俊輔の「言い淀み」を生むもうひとつの要因、「あいまいさ」にも言及する。鶴見俊輔は矛盾するものをそのまま受け入れる思想家だという。
個別性に注目し、「自分の問題」として社会問題を見る鶴見の立ち位置は、時として社会運動内部から批判を受ける。上野千鶴子の「慰安所に「愛」は存在するのか」という追及、「国民基金に賛成したのは間違いではないのか」という追及がそれであるが、それに対して鶴見俊輔は殴られつづける(批判される)ことを引き受けると宣言する。鶴見俊輔の位置取りは、「知的マゾヒズム」だ。しかし、それが今や受け入れられる素地は小さくなっていると原田さんはいう。
さらに小熊英二もまた、自分(知識人)の位置はどこにあるのかよりも、他者をどう見るかが問題だと言う。「自分の問題」としてものごとを見るという鶴見の位置取りがここでは通用しないのだ。
わたしは鶴見俊輔という哲学者の魅力がこれまでいまいちよくわからなかった。『戦争が遺したもの』を読んでやっと「鶴見さんってすごい」と思えるようになったのだが、原田論文を読むことにより、その思いはいっそう深まった。原田さんは『鶴見俊輔と希望の社会学』(2001年)よりもいっそう鶴見の思想そのものに踏み込んだ。鶴見俊輔は汲めどつきせぬ魅力を持つ人なのだろう、わたしはまだまだそのほんのとば口を覗いたにすぎない。
『戦争が遺したもの』を読まれた方には、原田達「時間とあいまい」を併読されることを強くお奨めします。ぜひぜひ、『Becoming』16号を購入して読んでみてください。理解がいっそう深まります。
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『Becoming』の注文はここ