ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

再び『フーコー』より引用 「外」について

2005年03月15日 | 読書
ドゥルーズ『フーコー』の訳者解説より引用。


 抵抗とは「外」に直接触れることにほかならない、とドゥルーズはいう。権力の次元は、知の次元に対して外にあり、この外はダイグラム、戦略によって定義されるが、ドゥルーズは、この外のさらに外に純粋な力の関係を考えているように思われる。ダイアグラムはそこから抽出されてくるのである。この外はたえまない生成、たえまなく突然変異を準備する変化であるといわれる。思考はそれを把握することはできないが、そこにむかって思考することならできる。思考にとって、確かに形式化された知以外の何も存在しないかもしれないが、思考が存在し知が存在するのは、このような外が存在するからである。 

……(略)

 思考は、考えられないものを通過しながら、無形式の権力の次元へと流出していく。そして、このような思考が、「汚名(破廉恥)」と「主体化」を再発見するのである。

 ……(略)

 ドゥルーズは、知、権力という二つの還元不可能な次元に対して、第三の次元として、主体化を位置づけている。第三の次元とは、まさに<外>と呼ばれるべきではないのだろうか。けれども、私たちが外に触れて、外に開かれて生きることは多くの危険、修行をともなう。あるいはしたたかな知恵をともなう。もしかすると、アジア的知とはしばしばそのような修行として、空虚にたえる道として、外に対面する方法なのかもしれない。ヨーロッパは外を折り畳み、その襞を自己との関係として生きることによって外と体面する方法を発見した。ドゥルーズはこんなふうに、フーコーの思想の最後の問いとして「主体化」を位置づけるのである。

 

 なんとなく、フーコー→アガンベン→大澤真幸と繋がる線が見えてきませんか?