ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「家族の中の迷子たち」

2004年09月25日 | 読書
 ドキュメンタリー作家椎名篤子『家族外「家族」』の漫画化。1998年に漫画単行本が出た。今回、文庫で読んだので、老眼が始まった目には小さな文字がつらい。勢い、読み飛ばしてしまったところも多い。

 小児科医や精神科医から見た児童精神科患者の実態を描く。全部で6ケース。

 いずれもケースも、病んでいるのは子どもではなく親のほうではないかと思えてくる。精神科医たちは、子どもの症状を判断するさいに必ず親の生育歴や現在の家族関係などを尋ねている。
 場合によっては祖母・母・娘の三代にわたる症例が描かれていたりして、家族の中の孤独という悲劇が次世代に持ち越されるケースに暗澹たる気持ちになった。

 ただ、気になるのは、精神科医たちの分析には「社会性」が希薄あるいはまったくないということだ。心の病気の原因はほとんどの場合、母子関係にある。そして母子関係がうまくいかない原因は父母の関係つまり夫婦関係が不和だということに尽きるようだ(ケース6は夫婦円満だったが)。

 確かに目の前の患者に「あなたの病気の原因は近代産業社会が生み出した矛盾の…云々」と言っても始まらない。とりあえずは「いまここにある危機要因」を取り除くことしかないだろう。

 だが、一人の精神科医の努力だけではいかんともしがたいものがあるだろうし、何よりもシステムの問題がここには横たわっている。小児科医と精神科医を兼務するようなシステムが存在しない。そして、その両方の経験がある医者は異様に多忙だ。


 また、この作品に取り上げられた6ケースはいずれもいわゆる「児童虐待」とは違う。親は子を愛しているし、懸命に子どもを救おうとしている。だが、その気持ちがうまく子どもに伝わらないし、ある場合にはまったく逆方向に作用してしまう。ここに家族関係の難しさがある。

 そして、その解決の一つの方法として、母親に母性愛を求め、父に社会性を求めることによって患児が回復するということには疑問を感じてしまう。
 「父」のモデル不在の家庭(父親が頼りなく、母が一家の大黒柱になっている)では、男の子が父をモデルにして育つことが困難なので、さまざまな症状が身体に現れてしまう。つま先だけで歩く男子、あるいはかかとだけで歩く男子が登場する第一話では、父の父性役割をとりもどすことが治療につながっているのだ。

 これって何? 男は男らしく。家長として立派に振る舞う父を見て男の子は男として自立していくですって?? こういう性的役割分業のステレオタイプを押しつけることで治療しようなんて、そいういう時代錯誤が行われているのかと驚いてしまった。

 しかし、それによって患児が治癒されるのなら、フェミニズムが訴えてきたことはまったく無意味ということなのだろうか? この皮肉には苦笑してしまう。

 それから、そもそも「治療」とはなんなのだろう? 医者は確かに献身的に治療に当たっている。その涙ぐましい努力には頭が下がるが、不登校の子どもを「治療」して学校へいけるようにすることが「解決」であり「治療の終了」を意味するのか? 学校のほうに問題はないのか? これだけ多くの不登校児が生まれるというのは、学校のほうに問題があるのではないのか。そもそも学校へほんとうに行かなくてはならないのか?

 いろんなことを考えさせてくれる作品だった。