ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

保坂和志の本2冊、読書会用レジュメの代わりに

2004年06月20日 | 読書
 困った。葉っぱ64さんの口車に乗って(笑)読書会の課題図書を保坂和志著『生きる歓び』に指定したのはいいけれど、これ、レジュメ書かれへんやんか!

 この文庫本じたいはとっても短いものなので、すぐに読めてしまう。「生きる歓び」を読む前に『世界を肯定する哲学』を読んでいたので、主人公が死にそうな猫を拾ってきて世話をするその話も「ああ、これ前に読んだな」という既視感がある。

 保坂の小説はエッセイなのか小説なのか区別がつきにくいのだが、作家本人は「小説だ」と主張しているから、「生きる歓び」も、同時収録されている「小実昌さんのこと」も小説なんだろう。

 拾ってきた猫を懸命に世話する様子はほほえましくまたその猫がだんだん元気になる様子も微笑ましく、ただそれだけでは何と言うこともない日常点描なんだけれど、保坂の小説ではそこに常に途切れない思考が挟まっている。それは何かまとまった哲学的思考が生み出される原始の海といった混沌たる未知の魅力を湛えている。

 だが、本書の場合はあまりにもその思考の芽が小さくて、花開く前に終わってしまっているので、『世界を肯定する哲学』を参考書にしたい。

 「ただ生きていることが歓びなんだ」というテーゼ。

 昨日たまたま東京に住む女ともだちから長電話があったのだが、彼女の友人が職を探しているという相談だった。その職探しをしている女性は難病を患ってはいるが高い職業能力をもち、かといって体力的にはやはり常人には劣るために、安定した職に就くのが難しい。しかも離婚して子なしの一人暮らし。

 そういうときに思う。彼女にとっても「生きることはただそれだけで歓びか?」と。

 さて、『世界を肯定する哲学』から少し引用してみる。議論のとっかかりをここから得たい。


「死」というのが、言語によって記述することが不可能であったり、私たち自身によって実感することが不可能であったりするものなら、それは言語という体系=秩序の外にあるということなのだ。(p118)

 「死」が秩序の外にあって記述するのが不可能であるのとはまた別の意味で、「生きている」ことは正しく記述することができない。(p123)

 人間はまず肉体のレベルで存在していて、そこに言語が上書きされることで「人間」となる。別の言い方をすると、人間とは肉体のレベルでだけ存在しているのではなくて、そこに言語が上書きされなければ「人間」とはならない。しかしまた別の言い方をすると、言語だけがあっても肉体がなければ人間は存在することができない。(p214)

 <私>のこの肉体は書き換えることができない。
 思考も運動能力も、他の人に理解されたり他の人との比較が可能になるという意味で、奇跡と呼べるようなことは何もなにけれど、<私>のこの肉体だけは、<私>とって奇跡だ。……言語は完成された体系で、<私>はそこに投げ込まれたにすぎないけれど、その完成された言語を<私>に移入するためには、<私>は言語の発生をある意味で追体験する必要があって、そのためには<私>は<私>のこの肉体を必要とした。(p226-227)

 私たちがいま使っている言語は、概念を数字の記号のように肉体と完全に切り離されたところで記述することが主流になっている。……「ある」と「ない」は”対”ではない。「ある」は肉体に先行し、肉体によって人間にもたらされる事態であり、「ない」は肉体によっては知ることができない、ただ言語によって生み出された概念だ。まったく同じ理由によって、「生」と「死」は”対”ではない。肉体はひたすら生きていることだけを知り、言語によってもたらされた「死」を知ることができない。(p229-230)

 肉体はひたすら「生」しか知らない。”死にゆく過程”や”死者から取り残された状態”も肉体は知ることはできるけれど、「死」それ自体を知ることはできない。肉体が知ることのできない事態を知る可能性があるとすれば、肉体に微差で先行する世界なのではないか。「死」は肉体に起こるのではなくて、世界の中で起こる。

 私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける。

 この事実を実感するためにはまず言語による思考の限界を確認しなければならない。それは同時に部分の総和が全体になるという単純な思い込みを否定することも意味する。。(p232)

 この本は、答が書いてあるものではない。保坂自身が言う。

 もともとこの本は、「何かについて考える」のではなくて、「考えるとはどういうことか」ということを考えるために始まった。「考える」ということは「解く」とは違う。
  
 
 では続いて『生きる歓び』からの引用。

 人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だ(p30)

 「僕」は一生懸命、瀕死の子猫の世話をするが、どうも助からないかもしれないという気もしてくる。そこで、「僕」は猫の死についてあれこれ考え、「このまま死んじゃったとしてもそれはそれでしょうがない」と思う。
 この「しょうがない」にわたしは強い関心を持った。「しょうがない」。冷たく言うのでもなく突き放すのでもなく諦めるのでもなく、「しょうがない」と思う。それが与えられた運命だったと受け入れる。保坂がいう「しょうがない」は意味が違うかもしれないが、わたしはけっこういつも「しょうがない」と思っているので、この「しょうがない」にはたくさんの思い入れを感じる。

「僕」は、すっかり回復してきた猫を見て思う。


 「生きている歓び」とか「生きている苦しみ」という言い方があるけれど、「いきることが喜び」なのだ。世界にあるものを「善悪」という尺度で計ることは「人間的」な発想だという考え方があって、軽々しく何でも「善悪」で分けてしまうことは相当うさん臭くて、この世界にあるものやこの世界で起きることを、「世界」の側を主体に置くかぎり簡単にいいとも悪いともうれしいとも苦しいとも言えないと思うけれど、そうではなくて、「生命」を主体に置いて考えるなら計ることは可能で、「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ。(p45)

 精神の病に苦しむ画家草間弥生も引き合いにだされる。全盲の天才少年ピアニストのエピソードも。

 『生きる歓び』も『世界を肯定する哲学』もテーマは同じようなものだ。では小説は必要ないのだろうか、いや、この両者の決定的な違いは「時間が流れているかどうか」だ。保坂の小説世界にはゆるゆるとした時間の流れがあり、「哲学」が立ち現れ生まれるその瞬間を作家と読者が共有することができる。これこそ読者にとっての歓びではなかろうか。