水村美苗は『続・明暗』(1990年)を書いて有名になった文学者である。夏目漱石の未完の大作の続編を、漱石そっくりな筆致で書き上げたとして一部でえらく話題になった。
そして、次に公刊した作品が『私小説』(1995年)だ。まさに私小説であり、水村の自伝ともいえる。だが、自伝と私小説は似て非なるものであるから、当然、事実がそのまま描かれているわけではないだろう。この手の小説を書くのは随分勇気が要る。作家というのは友人を減らす因果な商売だ。自分のことを書かれたのではないかと邪推する人々が後を絶たないだろうし、確かに身近な人間をモデルにすることはあるだろう。が、あくまでも創作なのだ、そのままを書くわけがない。でもモデルにされたほうはいい気持ちがしない。水村美苗の『私小説』にも彼女の家族が中心人物として登場する。実はほとんど彼女の姉の話だといっても差し支えないくらいだ。母にせよ姉にせよ、彼女が描いた家族像は、肉親にしかわからない愛憎相半ばする複雑な感情に支えられている。
発表されたのは『私小説』『本格小説』の順なのだが、わたしが読んだ順は逆だ。
『本格小説』、これは新たな私小説のジャンルを切り拓いた作品といえるのではなかろうか。この小説は、物語本編が始まる前に長い長い序文がついている。気の短い読者なら、もうここでいやになって読むのを止めるだろう。まずここで読者は第一段階のふるいにかけられる。
次に、長々と語られる東京成城の上流階級の人々の生活と、それを見る下々の視線。この語り口に嫌気が差す人ももう、上巻が終る前に脱落する。
長い長い恋愛小説。だが、主人公二人の恋愛が始まるまでで上巻が終ってしまう。この本を恋愛小説だというコピーで売るのは間違いだ。これは戦後を生き抜いた血族の華麗なる栄光と没落の歴史であり、自己の血を憎み社会を憎みただ一人の女を愛した男の上昇と喪失の物語である。
戦後史に興味のない読者ならば、途中で放り投げてしまうだろう。だが、上巻も読み進むにつれ、どんどん物語りに引き込まれ、下巻になるともう目が離せなくなるおもしろさに満ちたこの物語を、最後まで読んだ読者は二度驚かされてしまう。ここには、物語を一人称で語った語り部の女性の問わず語りが基底にあり、次にそれを聞かされた加藤祐介という若者がその話を作者の水村美苗に語ったということになっている。
二重にフィルターのかかった物語を私小説として書く作家水村。その水村は、最初の語り部であった女性の語りを最後になってまったく異なる読みへと変えてしまうある罠をしかけている。
最後になって、読者はもう一度小説の最初に戻って読みを訂正しなければならない羽目に陥る。このように、物語の意味を根底から変えてしまう転換を仕掛けた作家の周到な筆には感服する。
説明口調のように長々と続く地の文なのに、それが退屈を生まず、かえってスルスルと読み進めてしまえる巧さ、構成の巧みさ。また、台詞には当時を生きた人々の生活がそのままににじみ出る懐かしさがふんだんに盛り込まれている。これはよほど膨大な資料に当たっていなければできない仕事である。
戦後も半世紀以上を過ぎた今の社会では、人々のしゃべりかたも語彙も随分変わってしまった。その変わる前の昔の語り口をそのまま再現させている部分には作者の博識と多読ぶりが窺える。
上記2作品はどちらも私小説という形式をとってはいるが、作風がかなり異なる。純文学の香り高く、より感動的なのは『本格小説』のほうだが、『私小説』を先に読んだほうが理解しやすい。
そして、次に公刊した作品が『私小説』(1995年)だ。まさに私小説であり、水村の自伝ともいえる。だが、自伝と私小説は似て非なるものであるから、当然、事実がそのまま描かれているわけではないだろう。この手の小説を書くのは随分勇気が要る。作家というのは友人を減らす因果な商売だ。自分のことを書かれたのではないかと邪推する人々が後を絶たないだろうし、確かに身近な人間をモデルにすることはあるだろう。が、あくまでも創作なのだ、そのままを書くわけがない。でもモデルにされたほうはいい気持ちがしない。水村美苗の『私小説』にも彼女の家族が中心人物として登場する。実はほとんど彼女の姉の話だといっても差し支えないくらいだ。母にせよ姉にせよ、彼女が描いた家族像は、肉親にしかわからない愛憎相半ばする複雑な感情に支えられている。
発表されたのは『私小説』『本格小説』の順なのだが、わたしが読んだ順は逆だ。
『本格小説』、これは新たな私小説のジャンルを切り拓いた作品といえるのではなかろうか。この小説は、物語本編が始まる前に長い長い序文がついている。気の短い読者なら、もうここでいやになって読むのを止めるだろう。まずここで読者は第一段階のふるいにかけられる。
次に、長々と語られる東京成城の上流階級の人々の生活と、それを見る下々の視線。この語り口に嫌気が差す人ももう、上巻が終る前に脱落する。
長い長い恋愛小説。だが、主人公二人の恋愛が始まるまでで上巻が終ってしまう。この本を恋愛小説だというコピーで売るのは間違いだ。これは戦後を生き抜いた血族の華麗なる栄光と没落の歴史であり、自己の血を憎み社会を憎みただ一人の女を愛した男の上昇と喪失の物語である。
戦後史に興味のない読者ならば、途中で放り投げてしまうだろう。だが、上巻も読み進むにつれ、どんどん物語りに引き込まれ、下巻になるともう目が離せなくなるおもしろさに満ちたこの物語を、最後まで読んだ読者は二度驚かされてしまう。ここには、物語を一人称で語った語り部の女性の問わず語りが基底にあり、次にそれを聞かされた加藤祐介という若者がその話を作者の水村美苗に語ったということになっている。
二重にフィルターのかかった物語を私小説として書く作家水村。その水村は、最初の語り部であった女性の語りを最後になってまったく異なる読みへと変えてしまうある罠をしかけている。
最後になって、読者はもう一度小説の最初に戻って読みを訂正しなければならない羽目に陥る。このように、物語の意味を根底から変えてしまう転換を仕掛けた作家の周到な筆には感服する。
説明口調のように長々と続く地の文なのに、それが退屈を生まず、かえってスルスルと読み進めてしまえる巧さ、構成の巧みさ。また、台詞には当時を生きた人々の生活がそのままににじみ出る懐かしさがふんだんに盛り込まれている。これはよほど膨大な資料に当たっていなければできない仕事である。
戦後も半世紀以上を過ぎた今の社会では、人々のしゃべりかたも語彙も随分変わってしまった。その変わる前の昔の語り口をそのまま再現させている部分には作者の博識と多読ぶりが窺える。
上記2作品はどちらも私小説という形式をとってはいるが、作風がかなり異なる。純文学の香り高く、より感動的なのは『本格小説』のほうだが、『私小説』を先に読んだほうが理解しやすい。