ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

「ルポ解雇 この国でいま起きていること 」

2003年12月21日 | 読書
今の日本社会では、「能力による選別は差別」とは認識されていない。「能力に応じて働く」のはよいことだとされている。公正に能力に応じているのだから、能力のない者が負け組になるのは当たり前。そうなりたくなければ努力しましょう。この論理に歯向かうのはそんなに容易くない。

 そもそも能力とは何か。能力の有無は誰が決めるのか。ほんとうに「公正な競争」が保証されているのか?
 問題は何段階にも存在する。心身に障害のある人は? 病気になったら? 家族の介護が必要になったら? 企業は常にベストコンディションでフル稼働する人材だけを求める。働く者の不安などお構いなしだ。

 わたしの常日頃感じているこのような疑問や憤りを、本書はさらに強固なものにした。

 本書で明らかになる解雇の実態は驚くべきものばかり。経営側は「会社のものを盗んだ」「密輸の罪で逮捕歴がある」等々の嘘をしゃあしゃあと捏造する。問題は、嘘を嘘と立証する責任は嘘をでっちあげられた側にあるということだ。逮捕歴だの前科だのは、それがあるならば調べればわからないでもないが(それすら困難)、「逮捕歴がない」「前科がない」といった、「ないことの証明」はほとんど不可能に近い。

 驚くべきことに、労働事件を裁く裁判官の世界にも「不当解雇」や「職場のいやがらせ」はあるのだ。元裁判官のインタビューを通じて明らかになるその実態は、民間企業で行われる上司からのいやがらせ・配転をちらつかせての締め付け・理由を明示しない解雇などとまったく同じで、しかも枚挙に暇がない。

 だから、裁判官は不当な虐めや配転の憂き目に遭わないためには、労働事件を労働者側にたって裁いてはならないのだ。そもそも最初から、労働裁判は労働者側に不利なことだらけだ。労働者の労働実態を証明する資料はすべて会社が握っているのだから。上司ににらまれてまで会社に不利な証言をしてくれる同僚を探すのも難しい。

 今、若者が正社員になれずフリーター化することが問題になっているが、本書によれば、それだけではなく、地下水脈にうごめくような「闇の労働者」が増えているという。製造業種には派遣社員を雇用することが禁止されているため、法の目をかいくぐって、「請負」という形で別会社に作業を委託するのである。別会社(事実上の派遣会社)は、委託を受けた業務につかせるため、自社の社員を派遣する。建前は請負でも、実態は派遣であり、派遣された労働者は安い時給/日給で働かされる。請負先の正規のパート・アルバイト社員よりさらに下位に位置づけられ、陰惨ないじめにあい、簡単に使い捨てられるという。その詳細な実態を読むにつけ、底なし沼のように歯止めの無いこの国の首切り地獄に暗澹たる思いと怒りが湧く。

 仕事というのは派手で目立つことばかりではない。実際には地道な仕事を黙々とこなす多くの人々が支えているのだ。だが、熟練者から順にクビを切り、経費削減だけを追い求める経営陣。そんな実態の一つ、関西航業争議団のエピソードは胸を打つ。飛行機の安全にかかわる清掃・点検作業を黙々とこなす単調な労働。寡黙な労働者たちが、労組をもっているという理由だけで解雇される。だが、一見単純な清掃作業中に彼らは航空機の安全を左右するような不具合を見つけ出してしまう。何度も航空会社から表彰されたこともあるような熟練労働者なのに、自分たちの意のままに動かないとみるや、経営陣は彼らの首を簡単に切るのだ。

 著者は、経営者側のインタビューも行っている。オリックス会長宮内義彦氏の解雇への考え方、競争社会を肯定する論理は、なるほど経営者として首尾一貫した思想に貫かれていて、それなりにわかりやすい。だが、弱者への視点がまったくない宮内氏の楽観的な見解には背筋が寒くなるものを感じる。<一部のエリートによって豊かな経済社会を成り立たせ、世界の先進国の座を守る。落ちこぼれた者は仕方がないが、最低生活ライン以下になれば生活保護などの福祉で拾いあげる>。このような社会が果たしてほんとうに豊かで心安らげる社会なのだろうか。

 2003年6月に解雇ルールを盛り込んだ改正労働基準法が成立した。施行は目前の2004年1月1日。解雇におびえ、過労死の道へ続く労働砂漠をさまようこの国の働く人々にに未来はあるのか?

 解雇された人々は、時間と金をかけても名誉のために裁判を起こす。島本氏は「あらゆる解雇裁判は「名誉のための闘争」だ」(133p)という。現状は、働くことは生きる喜びだといえる社会とはほど遠い。

ルポ解雇 この国でいま起きていること
島本慈子著. 岩波書店, 2003. (岩波新書)