2023年11月6日、水戸のU氏との京都歴史散策二日目は朝8時からスタートしました。北大路バスターミナルで待ち合わせて市バス1系統に乗り、上図の神光院前バス停で降りました。
U氏が「この辺は初めて来たな。神光院って、京都の三大弘法のひとつだったよな」と言いました。
「へえ、そうなのか」
「なんだ、知らなかったんかね」
「京都に長く住んでても、知らない事は一杯あるからな」
「それもそうだ、あははは」
この日訪ねたのは、北区西賀茂に所在する正伝寺でした。私がリクエストして今回の歴史散策スポットに加えたのでしたが、U氏も私もこれまで全然行った事のない寺でした。
U氏もそれで色々調べたらしく、「この正伝寺っての、デヴィッド・ボウイのCMのロケ地だったらしいぞ、面白いなあ」と言いました。
デヴィッド・ボウイは、周知のようにイングランド出身のロック歌手ですが、U氏や私の世代にとっては俳優のイメージも強く、YMOの坂本龍一と共演した「戦場のメリークリスマス」のジャック・セリアズ少佐の姿などがいまも印象に残っています。
正伝寺には、「獅子の児渡しの庭」と呼ばれる京都市指定名勝の庭園があります。たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイは、正伝寺の庭園を特に気に入っていたそうで、宝酒造のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望し、その通りになったといいます。
そんなに美しい庭園ならば、一度は見てみよう、というのも今回の正伝寺行きの理由の一つでありました。バス停から西へ進んで住宅地の中を、道標を確かめつつ上図の旧参道筋へと歩きました。
門前に着きました。「おお、いいじゃん、いいじゃんか、この如何にも京の隠れ古寺、って風情がね」とU氏が嬉しそうに言い、門へ進もうとする私を左手で制しつつ、右手で右脇の寺号標を指しました。
U氏が指した寺号標です。吉祥山正伝護国禅寺、と刻まれています。
「ほう、禅寺にしてはカッコいい正式名称だね。山号が吉祥山というのが素晴らしい。護国禅寺って奈良仏教のあれ、護国之寺とかみたいでカッコいいな」と上機嫌なU氏でした。
門の左に立てられている案内説明板。例によって二回読んで「なるほど、本堂の方丈が伏見城の遺構であると伝えられてるわけか」と頷いていました。
だから私もここをリクエストしたのでした。伏見城の建物が各地へ移された経緯を古文献などで色々と追っているうちに、南禅寺へ幾つかの建物が移された伝承につきあたり、とくに塔頭の金地院を介してさらに同じ南禅寺派に属するここ正伝寺に御成殿の建物が移築されたという件を知りました。
この移築伝承には、さらにもう一ヶ所の寺院が含まれますが、それは後日の機会に回して、今回はここにやってきた次第でした。
門にかかる表札には「正伝禅寺」とありますが、U氏は「これ上手な字なのかね、なんだか小学生の書道の作品みたいに見えるんだが」と、さりげなく凄い事を言っていました。
ですが、門をくぐって中に進むと、U氏のテンションが再び上がりました。さっきよりも上機嫌になって「いいねえ、いいじゃん、この鬱蒼たる原生林のなかにひっそりと静まる境内地、あの小さな簡素な門。これですよ、こういうのが京の隠れ古寺、禅の古刹ってなもんだよなあ・・・」と熱っぽく語るのでした。
門からの参道は左に折れてこの小さな門をくぐり、右に曲がって階段となっていました。この小さな門は近年に出来たもののようです。
階段をあがると上図のまっすぐな道が林間の奥に伸びていました。なかなかいい雰囲気でした。山門から本堂までの距離が思ったよりもありそうなので、急がずにゆっくりと周囲の自然を眺めつつ歩きました。
紅葉も綺麗でした。
やがて道は再び長い階段となり、左手には苔むした石垣が二段ほど続いていました。U氏はますます雰囲気が気に入ったようで、「デヴィッド・ボウイは、正伝寺の庭園を特に気に入ってたそうだけどさ、実際は庭園だけじゃなくって、こういう境内地の雰囲気も好きだったんじゃないかねえ」と言いました。そうだろうな、と私も思いました。
この石垣はおそらくは、かつて建ち並んでいた坊院か塔頭の区域のそれだろうと思います。
この正伝寺は、鎌倉期の文永年間(1264~1275)に播磨国の禅僧の東巌慧安(とうがんえあん)が師の兀庵普寧(ごったん ふねい)を勧請開山として烏丸今出川に創建したのが始まりとされます。
その後、寺は比叡山延暦寺の衆徒によって破却されましたが、弘安五年(1282)に賀茂社の社家・森経久の援助により現在地に移されて再興され、元亨三年(1323)には後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜りました。室町期には天皇家および足利将軍家の帰依を受けましたが、応仁の乱の兵火により荒廃しました。
それを復興したのが徳川家康で、江戸期には塔頭を五か寺有していたといいます。徳川家の支援により復興した寺が現在に至っていますので、本堂の方丈が伏見城の遺構であると伝えられるのも、おそらくは徳川期再建の伏見城の建物を廃城の際に移築した事例の一つだろう、と思われます。 (続く)