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伏見城の面影9 伏見城御成殿の面影

2024年04月28日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 正伝寺の庭園を見ながら一休みした後、「さて」とU氏が縁側から立ち上がりました。くるりと後ろへ向いて本堂の内部へ入っていきました。私も後に続きました。

 

 本堂内の一番奥の間にあたる上図の部屋の仕切り襖の前まで行くと、U氏は「問題はあれだな」と開け放たれた襖の間の奥に見える黒漆塗りの材に金具が鈍く光る立派な障壁画の並びを指さしました。

 

「星野は、あれをどう思うかね?」
「帳台構(ちょうだいがまえ)やろ」
「やっぱりそう見るか」
「それ以外に有り得んよ、どこから見ても帳台構やな」
「つまりは徳川家だな」
「そうやろうな」

 御殿の書院造の三大特徴、とされるものがあります。違棚(ちがいだな)、押板床(おしいたどこ)、付書院(つけしょいん)を指しますが、徳川将軍家が関わる御殿の書院造においてはもう一つ、帳台構(ちょうだいがまえ)が加わります。武家の書院においては俗に「武者隠し」とも呼ばれます。将軍を護衛する近侍が不測の事態に備えて帳台構の内側に控えていたからです。

 正伝寺本堂の奥の間の奥室にいまも残る上図の帳台構は、形式や意匠が慶長八年(1603)に着工した二条城の黒書院や大広間の上の間のそれによく似ています。徳川将軍家が御成りになった際に坐する上段の間にしかない施設であり、時期的にも慶長七年(1602)再建の徳川期伏見城の御成殿の帳台構として違和感なく理解出来ます。

 ちなみに正伝寺本堂は、慶長年間(1596~1614)の建立といい、伏見城の御成殿として建てられたものと寺伝でも伝えますから、時系列的にも矛盾はありません。伏見城の廃城に際して南禅寺の塔頭金地院(こんちいん)の小方丈として移築され、それが承応二年(1653)に金地院から正伝寺へ移築されて本堂とされ、現在に至っています。

 

 ですが、本堂内部の空間構成を見ると、御覧のようにもとは前の間、中の間、奥の間の三室であったのが、上図のように中央に仕切りが入れられて襖が追加され、六室に改められていることが分かります。それに伴って中の間の奥室を仏壇としていますから、この内部空間の変化は、城郭の御殿から寺院の方丈へ改造した結果であろうと理解出来ます。

 前述のように、二度の移築を経ていますから、いずれかの移築の際に改造されたのでしょう。個人的には正伝寺への移築の時に改造したのだろう、と推測しています。上図の前の間の奥室には、本来は奥の間に帳台構とセットで造られていたであろう違棚と押板床が見えます。改造の際に移設したのでしょう。

 なぜかというと、伏見城御成殿であった頃は前の間、中の間、奥の間の三室構成で、奥の間に将軍の御成りの座が設けられましたから、その奥の間に違棚と押板床と帳台構がセットで揃っていた筈です。臣下は前の間から中の間に進んで将軍の謁見にのぞみましたから、その動線は前の間から中の間へと縦の一本になります。

 これが寺院方丈となった場合、中の間に仏壇を設ける必要がありますから、建物の正面も南向きに変更され、動線は縁側からの横線にかわり、前の間、中の間、奥の間はそれぞれ右の間、中の間、左の間に変わります。それぞれの奥の空間は北側に設定されますが、三室のままだと奥室が出来ないため、中央を仕切って襖を入れ、右の間、中の間、左の間のいずれも前室と奥室に分割し、現在の六室構成となっていった流れです。

 そうなると、もとは奥の間にあった違棚と押板床と帳台構のセットも、位置を変更する必要があります。帳台構は空間変更後は左の間の奥室に位置するのでそのままでも良いですが、違棚と押板床は前室に含まれるために違和感が出てしまいます。中の間の奥室は仏壇ですから、右の間の奥室に違棚と押板床を移設し、奥室の格式の設えを維持した、というように解釈出来ます。

 なので、この建物は外観はあまり変化がなさそうですが、内部空間はかなり変えられているものと理解します。

 

 ちなみに本堂の建物が、徳川期伏見城の建物であったことは、上図の釘隠しの金具などを見れば分かります。御覧のように徳川家の葵紋が打たれています。
 最初から寺院方丈として建てられたのであれば、紋は寺のそれになりますから、この点だけでも徳川家が建てた建物だということが分かります。

 

 杉戸の引手には、菊紋が打たれています。正伝寺が元亨三年(1323)に後醍醐天皇より勅願寺の綸旨を賜り、室町期にも皇室の帰依を受けた歴史を示しています。この場合は徳川家の葵紋はありませんが、興味深いのは、そうした引手の意匠が、同じ伏見城からの移築と伝わる南禅寺金地院の大方丈のそれによく似ている点です。

 正伝寺本堂も、現在地に移築される前は南禅寺金地院にありましたから、引手の意匠が似ているのはむしろ当然かもしれません。

 

 私と共に堂内各所の飾り金具を見て回っていたU氏が「これ、確かな証拠だよな」と嬉しそうに言いつつ、蔀戸の金具を指しました。

 

 徳川家の葵紋が打たれています。それも徳川宗家つまり将軍家の紋です。周知のように同じ徳川家でも将軍家、御三家のそれぞれで葵紋の形が異なります。水戸家ならば水戸家の葵紋があり、細部が上図の宗家の紋とは違うそうです。

 

 その後、U氏が上図の額装の説明文らしきものを指して「これ読んでみ、面白いぞ」と言いました。昔の新聞記事の切り抜きのようで、読んでみたら、この本堂の縁側の天井に張られているいわゆる「伏見城の血天井」の血痕の検査の経緯が述べられていました。鑑定したのは科警研、つまり警察庁の科学警察研究所で、血痕の血液型のみが判明した、という内容でした。

 つまりは本物の血痕であったわけです。慶長五年(1600)6月の伏見城合戦で西軍4万の攻撃を受けて落城、自刃した城代鳥居元忠以下徳川の武士たちのそれです。U氏が「徳川家の礎となりて果敢に散ったもののふの霊に黙礼」と言い、私も頭を垂れて祈ったのは、自然な成り行きでした。

 

 本堂を退出した後、U氏が「建物の外観にも何か徳川家の証しが残されてるのかな」と言うので、「武家の殿舎だったのならば、大抵は屋根の瓦とかに家紋が入るけど、ここの屋根は杮葺きなんで、あとは妻飾りの懸魚ぐらいしかないかも」と答えました。

 

 それで、庫裏の前庭まで戻って、上図のように見える本堂の屋根の妻飾りに視線を移してみました。

 

「あ、あれか、まさに徳川葵だ」
「せやな」
 U氏は感動しつつ、ザックから双眼鏡を取り出して再度見上げていました。

 

 デジカメの望遠モードで撮りました。間違いなく徳川葵が彫られてあります。徳川期伏見城御成殿であったことの確かな証拠が、二度の移築と内部空間の改造を経てもなお、懸魚の紋章にとどめられているのに、感動してしまいました。二人ともしばらくその彫り物を見上げていました。  (続く)

 


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