真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
『アメリカ映画100』シリーズ(芸術新聞社)発売中!

ライアン・クーグラーの『クリード/チャンプを継ぐ男』が「継ぐもの」と「映画館」のこと。

2015-12-30 | ロードショー
 

『クリード/チャンプを継ぐ男』がなかなかいい。「お節介」と「優しさ」のドラマが骨子になって、実に『ロッキー』シリーズらしい人情ドラマになっているのである。
 1976年の『ロッキー』に並ぶとは思わない。あれはやはり特別な映画で、脚本のレベルが違うし、生活感情により深い実感があった。しかし『クリード』もいい映画だし、偶然だが『スターウォーズ/フォースの覚醒』との共通点も感じられた。それは70年代から連綿と連なるアメリカ映画史とその人材への強いリスペクトの賜物なのだ。



 『クリード』は『ロッキー2』のファンだったライアン・クーグラー監督のアイデアから生まれた作品である。スタローンは脚本を持ち込んだ彼の熱意に「かつての自分」を見たことだろう。物語も同様で、かつてロッキーの宿敵だったアポロ・クリードの息子が、彼のところに来てトレーナーになってくれと依頼してくる。言うまでもなくこうした作者の「現実」と登場人物の「ドラマ」の相関関係は『ロッキー』シリーズを貫いてきたものである。スタローンはこれで大スターとなり、当初のハングリーな魅力を失っていったが、すると『ロッキー3』のロッキーおそうした状況に陥り、スタローンが右傾化すれば『ロッキー4』でのロッキーもソ連のドラゴと対決する。その意味でこのシリーズは、『ゴッドファーザー』シリーズにおけるマイケル・コルレオーネが作者たるフランシス・フォード・コッポラその人であり、『スターウォーズ』シリーズにおける若きルーク・スカイウォーカーやアナキン・スカイウォーカーがジョージ・ルーカスその人であったことと通じるシリーズだったのである。



 しかし時は流れて、いまやルーカスもスタローンもシリーズの中心から外れており、新たな作者たちがそれを引き継ぎはじめた。本作のクーグラーや『フォースの覚醒』のJ.J.エイブラムスは、彼らへのリスペクトを前面に押し出しながら「自分の作品」に仕上げている。劇中で脇に回るスタローン、それにハリソン・フォードとキャリー・フッシャーもいい芝居を見せている。ことにスタローンが見せる深い表情には、彼の映画人生とイコールで結びついてきたロッキー役の集大成とも言えるものであった。
 『クリード』はまたいまひとつ継承を成し遂げている。本作のクレジットにロバート・チャートフの名が出てくることに目を留めた人が何人いるか知らないが、彼こそアーウィン・ウィンクラーとともにシリーズを製作してきた功績者である。2人は『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック)『いちご白書』(スチュアート・ハグマン)の製作者としてアメリカン・ニューシネマを牽引したチームだった。『ロッキー』はそのニューシネマの転回点となった作品だが、その後も『バレンチノ』(ケン・ラッセル)『ニューヨーク・ニューヨーク』『レイジング・ブル』(ともにマーティン・スコセッシ)『ライトスタッフ』(フィリップ・カウフマン)と映画史に燦然と輝く傑作を世に送り出してきた。二人は別れた時期もあったが、そのロバート・チャートフもいまはこの世になく、本作はその家族によって製作されているのである。



 『クリード』を観たのは有楽町マリオンにある丸の内ピカデリー。ここはそこらの劇場よりもスクリーンが大きい。往年の劇場らしい空間設計で、スクリーンを「見上げる行為」の気落ち良さと贅沢さを味わえるのである。スクリーンと客席との距離感がゆったりとして落ち着きがあり、映像(=ドラマ)をよくよく堪能することができる。やはり映画館の肝は「空間」だなと感じ入った。
 劇場空間に快感を感じられるか否かは、人それぞれの感覚にもよるだろうが、個人的にはスクリーンが眼前に「そびえたって」いる感じが欲しい。そびえ立つ画面の全貌を把握できつつ、映像から離れすぎない距離に座るのが好みなのである。こうした好みから出発する映画鑑賞は、必然、主観的なものになるだろうが、「クリード」の場合、画作りの基本が主人公を取り巻く環境と、そこから生じる感情のうねりを掬い取ることにあるから、カメラ位置は遠からず近からずの位置に据えられている。その落ちつき方に――伝統的なアメリカ映画の――この映画の作者の理性を感じ、安心して盛り上がれる。そういう古典的な映画の有り様が、古典的な丸の内ピカデリーの有り様とよく似合っていたのだ。
(渡部幻)

J.J.エイブラムスの『スターウォーズ/フォースの覚醒』に思わず感心。

2015-12-27 | ロードショー
 

 『スターウォーズ/フォースの覚醒』は予想を超えておもしろい映画だった。JJエイブラムスの演出はかなりスピーディーで、『エピソード4』のビジュアル・イメージを意識しつつ、『エピソード5』におけるアービン・カーシュナー演出のめくるめく展開の力技を想起させて好調である。実際『エピソード5』ほどの緻密さはないし、あの毒気も感情的な深みも足りないとは思うが、勢いがあり、画面がイキイキとして、JJの優等生的な演出姿勢が活きた。

 ジョージ・ルーカスの創作姿勢は基本「私小説的」なもので、どこか暗くナーバスな傾向を拭えないところがある。『エピソード4』での若きルーカスはそうした自分の性格傾向を反転させて「明るい映画」を目指し、見事に成功した。しかし時を経た『エピソード1~3』では生来の個性を噴出させ、それゆえ娯楽作としてのバランス感覚を歪にした。僕はそこがおもしろいと思ったが、ファンからの評判はあまり良くなかった。『スターウォーズ』の底にあるのはルーカスの自伝的な感慨をフィクショナルに描いたストーリーだったが、『エピソード1~3』を取る頃には時すでに遅し、彼の手を離れて独自の道を歩み始めていたのである。

 

 『フォースの覚醒』は作者たるルーカスがほぼ手を引いて最初の作品である。権利を獲得したディズニーとの問題を記事で読むと気の毒に思うが、完成した『フォースの覚醒』を観るかぎりルーカスが撮っていたら、こうはいかなかったろうと想像せずにはいられない。JJの「八方美人的な演出」は、ここで考えうるかぎりのファン心理に応えて見事に完成された「商品」に仕立てているが、ルーカスなら良くも悪くもファンを裏切り「作品」に仕立て上げようとしていただろう。ルーカスには気の毒だが、僕はこれで良かったのだと思う。
 ただひとつ大きな疑問が残るのは、J.J.の演出はバランスが良すぎるからか、シリーズのこれまでと比べ、意外にも「脳裏に焼きつくイメージ」に乏しいのである。J.Jは優れた「まとめ系演出家」だが、想像力の飛躍が足りないのかもしれない。人物は魅力的でそこが美点なのだが、身を裂くような情念が薄いのも、ルーカスもしくはカーシュナー演出に譲ってしまう部分だ。

 

 『フォースの覚醒』はまず主演の「新しい顔ぶれ」の起用で成功している。カリスマ性はないが、それぞれに人間臭く、だからこそのフレッシュなムードを付与している。若手ではとくに『風の谷のナウシカ』のナウシカを思わせるデイジー・リドリーが目を引くが、アダム・ドライバーの芝居が変わっていて印象に残る。テレビシリーズの『GIRLS』やノア・バームバックの『フランシス・ハ』での彼も現代的でいいが、マーティン・スコセッシの新作『沈黙』では日本へ布教に来たリーアム・ニーソン扮するイエスズ会の神学者フェレイラの弟子フランシス・ガルペ役を演じるらしい。いかにも似合いそうである。また個人的に感心したのが古株のキャリー・フィッシャー。彼女がここまで深みある表情を見せたのはたぶん初めてだろう。ハリソン・フォード扮するハン・ソロとの再会場面で見せる風情に積年の人生がにじんでいた。

 

 映画マニア的にはマックス・フォン・シドーの起用が嬉しい。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン作品の秘蔵っ子として脚光を浴び、ジョージ・スティーブンスの『偉大な生涯の物語』でイエス・キリストを演じアメリカ映画界に進出。ベルイマンは70年代のアメリカ監督に多大な影響を及ぼしたが、なかでもウィリアム・フリードキンの『エクソシスト』は顕著だった。シドーはこの大ヒット作に出たあと、シドニー・ポラックの『コンドル』の殺し屋役でも特異な存在感を披露した。品格と風格を兼ね備えた容貌は神話的なドラマによく似合い、ほんの少しの出演で作品に風格をもたらす。『スターウォーズ/エピソード4』ではアレック・ギネスやピーター・カッシングが引き受けたその責務を、『フォースの覚醒』ではシドーが任されているわけだ。しかし『スターウォーズ』シリーズにおける「老人=旧世代」の「退場」の仕方は、いつもちょっと拍子抜けしてしまうほどにあっけないのが特徴である。『エピソード4』におけるギネスのオビ=ワン、『エピソード6』のヨーダやダースベイダー(皇帝も)、老人でないが『エピソード1』のリーアム・ニーソンもそうだ。つねに疑問に感じるのだが、あの「感じ」は一体何なのだろう。
 今回ジョン・ウィリアムズの音楽が思いのほか控えめに鳴っていて、全盛期に必ず聴かせた「必殺のメロディライン」が無かったように思った。最も凄かったのは『帝国の逆襲』で、そのサントラLPはほとんど驚異的な出来栄えであった。しかし劇場の大音量で聴く「ウィリアムズ節」はやはりいいものである。日本映画でこのレベルのフル・オーケストラを聴かせて貰える日がくるとは到底思えないのだ。
(渡部幻)

   

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』公開記念に~~『エピソードⅠ~Ⅲ』とジョージ・ルーカスの世界

2015-12-26 | ロードショー


 『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が公開された。ジョージ・ルーカスが関わらない新作だと言う。僕が最初の『スターウォーズ』(77/ジョージ・ルーカス監督)を観たのは日本で公開された78年、8歳の時だ。劇場で多くの子供たちと同様、夢中になった。しかし遠い昔の思い出で、このシリーズについて何かを書くことを避けてきたし、語ることすらも気が重いことがある。それゆえか、すっかり忘れていたけど、意外に最近書いていたことを思い出した。2010年に編集した『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の「エピソードⅠ~Ⅲ」についての短い原稿。せっかくだし、新作の公開記念に、少し加筆修正を加えてここに再録することにした次第。以下。


 1977年に全米で公開された『スター・ウォーズ』は、新世代の観客から熱狂的に迎えられて社会現象となり、アメリカ映画界の潮流を変えた。その生みの親の名はジョージ・ルーカス。彼は1971年のSF映画『THX-1138』で長編映画デビュー。完璧に管理化された未来世界を白と黒で統一させた前衛的な映像スタイルで描き出したが、ロバート・デュヴァル扮する主人公の物語の中心になるのは「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」である。続く『アメリカン・グラフィティ』は打って変わって、彼の出身地たるモデストを舞台に、「青春の終焉と新たなる旅立ち」をジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件の前年にあたる62年に設定して回顧した自伝的な青春映画だが、やはりここでも「ロマンス」と「チェイス」と「現状からの脱出」が描かれている。
 『スターウォーズ』は前2作を融合させてスペースオペラの衣を着せた青春映画であり、その意味で『アメリカン・グラフィティ』からの流れである。主人公のルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)は、『アメリカン・グラフィティ』の主人公カート(リチャード・ドレイファス)から連なる系譜にある田舎青年で、退屈な日常生活から「脱出」して「ロマンス」と「チェイス」に溢れた未知なる冒険の世界へと乗り出していった。しかし、続く『帝国の逆襲』でルークを待ち受けていたのは自らの出生にまつわる呪われた歴史である。シリーズは神話的な壮大さを増し、「親子の確執」を描いた物語としての陰影を深くしていく。その意味でこのシリーズは、ルーカスの師に当たるフランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』サーガに通ずる「家族の叙事詩」だと言える.
 「ルーク=ルーカス」三部作の最終話『ジェダイの帰還』で「息子=ルーク」が悪の帝国に堕ちた「父=ダース・ペイダー」を打ち倒し、その確執を克服すると、同時に宇宙の平和が取り戻され、仲間たちと共に「神話の英雄」となる。現実の世界でも、ルーカスは仲間の監督たち――コッポラ、スピルバーグ、スコセッシ、デ・パルマ、ミリアス――と共にアメリカ映画界に革命を起こして時代の寵児となった。様々な局面で『スターウォーズ』は人々をハッピーにさせた「青春映画」だったのである。
 あれから16年の時を経てルーカスはその前日譚『ファントム・メナス』の映画化に挑み、ダース・ベイダーことアナキン・スカイウォーカー――つまりルークの父――の青春時代を描く。しかし、かつての「青春映画作家ルーカス」もすでに若者ではなく、かつて打ち倒した「父」もいまや「わが身」であり、たとえ遠い昔に書き上げたドラマだとしても、その認識が、新シリーズに影響を及ぼさないわけはない。
 『ファントム・メナス』(99)はこの大河ドラマの序章つまり「エピソードⅠ」であり、『クローンの攻撃』(02)『シスの復讐』(05)と続き、77年の『スターウォーズ』が「エピソードⅣ」になる。しかしここでは、あくまでも「公開順」のシリーズとして考える。
 『クローンの攻撃』で美しい青年に成長するアナキン・スカイウォーカー。余りにも若く純粋で地に足のつかないが、そう遠くない将来にルークの父となる運命にある。ドラマ上の時制が逆転して製作されたため、観る者のほとんどが、彼ら親子の悲劇的な運命の行方を意識しながら観ている。息子ルークの青春が未知の可能性を観る者に伝えたのと真逆に、父アナキンの青春が悲劇へと向かうことは、あらかじめ定められた運命である。ことに『クローンの攻撃』は2001年の9.11テロ事件後の公開作であり、ルーカスは急速に右傾化していく当時のアメリカの混沌とした状況を意識している。だから「ゼロ年代『スターウォーズ』」の冒険に、あの天真爛漫とした楽しさはない。(ちなみに「エピソードⅠ」はベトナム戦争がアメリカの撤退で終結をみて、ニクソンがウォーターゲート事件を起こし退陣、建国200年を迎えた翌年の77年公開。「重い季節」に区切りがつき、大衆は「憂さ晴らし」を求めていた)
 そうした「違い」は俳優陣の個性にもハッキリと現れている。「旧三部作(エピソードⅣ~Ⅵ)」で、ルークを演じたマーク・ハミルやハリソン・フォード、キャリー・フィッシャーの陽性な個性と比べたとき、「新三部作(エピソードⅠ~Ⅲ)」でアナキンを演じたヘイデン・クリステンセンやパドメ・アミダラを演じたナタリー・ポートマンの個性はいかにも陰性であり、深刻である。そんな彼らの個性を選択したことによる作品への影響は大きい。
 デヴィッド・タッタソールの撮影もまた、エピソードを重ねるごとに「黒」の印象を強め、「新三部作」にノワール的な「暗さ」を付加しているが、しかし、このこと自体は「旧三部作」のルークの衣装が、白色(Ⅳ)から灰色(Ⅴ)へ、灰色から黒色(Ⅵ)へと変化していくことで、純真な息子が闇に堕ちた父親(ダースベイダー)に同化していく過程を象徴させた色彩設計に対応しているに過ぎない。
 その意味で真に重要な役割を担っている色彩とは、エピソードⅢでアナキンとオビ=ワン(ユアン・マクレガー)が演じる痛ましい決闘の背景に塗り込められた漆黒を引き裂くように噴出する溶岩の「赤色」であり、ルーカスはこの「赤色」の禍々しさに「新三部作」の主題を託しているのではないか。
 あのマグマの赤色は、滅びゆくジェダイの同士たちが流した血の赤であり、手足を斬りおとされて芋虫のごとく這いずるアナキンが流した血の赤であると同時に、彼の子を宿し、出産した後に息絶えるアミダラの胎内から流れ出た血の赤である。ここに本シリーズのもう一つ重要なる主題――家族のサーガ――が立ち現れてくる。つまり「マグマの赤」は、呪われた運命に煮えたぎる血縁の「赤色」なのである。
 自らの父を知らぬアナキンは、ゆえに母のシミとアミダラが象徴する母性の愛に飢え、もだえ苦しむ。それがジェダイの騎士たる彼のアキレス腱となり、師であり兄であり父の代わりでもあったオビ=ワンとの関係をも引き裂いていく。ダークサイドへと堕ちるしかないアナキンの姿はあまりにも悲痛だ。その姿を見つめつつ悲劇ドラマとしての「新三部作」は幕を閉じる。
 観る者はこのあと、悲劇の物語から一転、『新たな希望(エピソードⅣ)』と題した「次世代の青春物語」へと引き継がれ、血まじりの漆黒にふたたび光が差し込むだろうことを知っている。しかし、だからこそと言うべきか、いまや「父の世代」になった「ゼロ年代のルーカス」が、二世代に渡る「青春」を比較検証した末に描き出した結末が、とてつもなく重たく、陰惨なものに感じられるのである。

渡部幻(2010年執筆。『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)所収の原稿を加筆修正)







ファティ・アキン『消えた声が、その名を呼ぶ』の壮大な地獄巡りと映画の美

2015-12-03 | 試写
 

 ファティ・アキンの『消えた声が、その名を呼ぶ』を試写で。
 近頃、試写で観た映画を書いておくよう心がけることにしているが、いつまで続くだろうか。

 第一時大戦中の1915年、オスマン・トルコから始まる。鍛冶職人のナザレットには愛する妻と双子の娘がいる。アルメニア人でありキリスト教徒であるがゆえにある日突然連行され、家族から引き離され、重労働を課せられたのちに他のアルメニア人とともにのどを裂かれて処刑されるが、奇跡的に生き残る。ここまでは容赦ない描写の連続で現実とは思えないような大量殺戮の歴史が映像化される。「復活」したナザレットは声を失うが、ここから壮大なる旅の物語がはじまり、途中、娘が生きているとの情報を得るとアメリカ・ノースダコタへと向かい、ついに辿り着く。

 20世紀前半オスマン・トルコのアルメニア人親子を襲った凄絶な受難劇である。西部劇を思わせる旅の物語で、果てはアメリカにまで辿り着く壮大なる移民の物語でもあるが、こういう、すれっからしではない「映画らしい映画の映像」を観たのも久しぶりな気がする。
 現在あまり見られなくなった類のエピックドラマとして、(内容は違うが)たとえば『アラビアのロレンス』『ドクトルジバゴ』(デヴィッド・リーン)、[『人間の条件』(小林正樹)『戦争と人間』『ウエスタン』(セルジオ・レオーネ)『ワイルドバンチ』(サム・ペキンパー)『エル・トポ』(アレハンドロ・ホドロフスキー)『ガリポリ』(ピーター・ウィアー)『アメリカ アメリカ』(エリア・カザン)『ゴッドファーザーPART�』(フランシス・フォード・コッポラ)『ラグタイム』(ミロス・フォアマン)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(レオーネ)『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン)などと通ずる「魂の叙事詩」としての面白さがある(時代的な一致を含む)。「面白い」とは言っても、ここに描かれるのは、時代の大きなうねりに翻弄された個人が体験する地獄めぐりであり、そのなかで人間が、なおも行動――つまり「生きる」ということ――を起こし、生き残らんとするとき、彼や彼女を突き動かすだろう「動機」には普遍的かつ根源的な感動があるのである。

 
(ゴッドファーザーPART�より)

 「壮大なるエピックドラマ」というと、昨今は『スターウォーズ』もしくは『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのように「ファンタジーの衣」をかぶせないとなかなか大衆に届かなくなっているようだが、『消えた声が、その名を呼ぶ』は、より生々しい内容を持つ大作であり、実際、それらにも負けないようなドラマチックな面白さを持っている。
 アキン監督は民族の悲劇を克明に捉え、その映像はリアリズムを土台にしながら、ときに現実の枷を外して超現実的な領域に踏み込んでいく。その点でこれはマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』や『クンドゥン』に近い宗教的体験としてのインナートリップ・ムービーだと言えるが、ここに描かれる「トリップ」とは、見知らぬ世界への地理的・物理的・時間的な肉体の移動が精神を揺り動かし、その先にもたらされるだろう魂の浄化としての「旅」であり、その様を描いた体験としての物語である。

 

 アキンには監督としての新鮮な目、驚きに見開けれた目があり、それは自らの歴史を遡る者に不可欠の目でもあるが、同時に、現代的かつ理性的な「距離の眼差し」を保ち、恐るべき悲劇を描きながら決して情に溺れさせない。シネマスコープの撮影は見事。ことに美術造形は圧倒的で、ドラマの後半に広がる20世紀前半のアメリカの景観は一種幻想的ですらあった(セルジオ・レオーネの『ウエスタン』やイーストウッドの『荒野のストレンジャー』を彷彿とさせる)。音楽も特筆される。ナザレットの破裂寸前の鼓動に同期して早鐘を打つ音楽の効果は鮮烈。思わず身を乗りださせる。
 そんな本作の映像美を堪能するのには巨大スクリーンが相応しいと想像(試写室は小さい)するのだが、さすがに無理だろうか。タランティーノが新作西部劇を「70ミリ」で公開するらしいが、多分こうした動きは、ネットでの映像環境に対抗する「劇場向け映画づくり」として「3D」に次ぐ有効な方法論として検討されているのであろう。ファティ・アキンにはそんな「時代の要請」に応えられるだけの技量がある。少なくとも日本の映画状況のなかで今後先決となるのは、彼が描くような「内容」を受け止めることの出来る観客を育てていくことだろう。
 ちなみに、マーティン・スコセッシの盟友であり、『ミーン・ストリート』を彼と共に書いたアルメニア系アメリカ人のマーディック・マーティンが本作の脚本に参加している。苦悩する魂と暴力の相克を描くエピックドラマを好むスコセッシが絶賛したのにも納得。当然そうだろうと思わせる力作である。
(渡部幻)

   

奇才カルロス・ベルムトが『マジカル・ガール』で披露した「映画の魔法」

2015-12-01 | 試写
 

 カルロス・ベルムト監督のスペイン映画「マジカル・ガール」を試写で。創意溢るるとはこのこと。いつかどこかで見たことのあるようなないような摩訶不思議な夢の感触を持った映画だ。
 白血病を患い余命短い娘のために奔走する父親の愛をきっかけに、薬漬けの不安定な美人女性とその夫、前科者の老人らの過去と現在が絡み合い、予想外の方向へ転がっていく。公開が先なので詳しくは書けない。しかしその不条理とも言える錯綜した展開は、ファンタジックなタイトルから想像もつかないものだが、これはたしかにフィルムノワール的なのである。「黒い」それでなく「白い」それであり、ここにまず、才人ベルムトの新鮮な着眼をうかがうことができる。映画ファンなら一度この怪昧に触れておいていい傑作だと思うが、それ以上にヒットすべき作品というか、させなければ勿体ないと思わせるものがある。もしかすると、この作品を観ることで初めて映画の世界にはまる人が出てくるかも知れない、そういう可能性を秘めている気がするのである


   

 ベルムトにはイラスト的な視覚センスがあり、そのセンスにはまった役者たちの目鼻立ちと体つきが、まず素晴らしい。男優の二人は揃って知的なマスクをしている。ホセ・サクリスタンの額と背中、ルイス・ベルメホの奇妙に短い二の腕とがに股が、どこか哀れかつ滑稽で、瞼に焼きつくが、女優ではことバルバラ・レニーの存在感がセンセーショナルで、主演女優賞を総なめにしたというのも「当然」と頷かせられる。彼女の薄幸な美貌と容姿(停滞した体つきとファッション、ヘアスタイル)が時折、ゾッとさせるほど魅惑的で、このスペイン製ノワールに似合うが、しかしここで最大の「運命の女」は、美少年とも身紛わせる12歳の病身の美少女(ルシア・ポシャン)なのだ。物語は彼女の願いを叶えたいと願う父親の行動を起点に人々の過去を呼び寄せていくが、しかし本作は、「美少女幻想」もしくは「女性幻想」に寄りかかり甘えている作品ではない。むしろここには「女性(または美少女)」を「男性」がどのように愛し、扱っているかについての批評的な考察があり、そこが深みともなっている。とくにインテリ男性の弱点というか愚行を突いた部分については、同じ性を生きるものとして思わずゾッとさせられる瞬間が幾度かあった。

 
 
 もっとも、ベルムト演出は知的かつ抑制的にコントロールされたもので不必要な煽りや安易な決め付けを感じさせない。彼は劇中で「日本のカルチャー〈アニメやアイドル〉」を重要な要素として登場させるのだが、その映像の肌合いも、少年(男性)マンガ的というより女性マンガ的であり、白を活かした空間のなかに禁欲的かつ触覚的な情念を横溢させている。深い考えなしに魚喃キリコの視覚的なセンスを想起したが、勿論、内容はまるで異なる。しかし、その「語りすぎない話法」は同様に鮮やかでで、各人物が抱え込んだ「事情」の数々から生じたあらゆる「謎」の解釈は、観る者に固有の感応に委ねられている。ゆえに、さまざまな人の意見を聞いてみたくなるような、これはそういう極めてユニークな映画であり、だからより多くの観客のもとへ広まり、ヒットして欲しいと思ったのである。

(渡部幻)

   

草森紳一『絶対の宣伝/宣伝的人間の研究 ヒットラー』の復刊と1978年の『スターウォーズ』

2015-11-28 | 作家


 草森紳一の「絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ」の第2巻目『宣伝的人間の研究 ヒットラー』が12月7日に発売されることが決まった。
 版元はサブカルチャー本に強い文遊社。もうだいぶ前になるけど初めて企画を持ち込んだ日が懐かしい。
 単純に「復刊」と言っても、その作業にはさまざまな困難がともなった。テクニカルな面だけでなく、昨今の時代状況も少なからず影響したからだ。しかし念願叶って、順調に刊行されている事実が嬉しい。
 新たな装いで再登場した全四巻を早く揃いで本棚に並べて眺めてみたいものだ。

 冒頭にある画像が今回の「絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ」(文遊社)の第一巻『宣伝的人間の研究 ゲッベルス」と第二巻『宣伝的人間の研究 ヒットラー』のカバーデザイン。全四巻が揃うとひとつながりのデザインになるはずなのだ。

 ちなみに[目次]は次のような内容。
◎民衆の孤独を撃つ ◎ヒットラーの柔らかい髪 
◎ヒットラーの妖眼 ◎ヒットラー青少年団 
◎平和(ピンフ)の倦怠(アンニュイ) ◎アドルフおじさん 
◎陳列効果と象徴 木村恒久・草森紳一 
◎附録Ⅰ ヒットラーとレーニンの煽動術 ◎附録Ⅱ ムッソリーニのスキンシップ 
◎跋章 知識と官能の無力


今回の復刊にあたり[解説]を書いてくださったのはなんと池内紀さん。
ちょうどいま、池内さん翻訳のホフマン『砂男』を読んでいたところで、これが最高に面白いのだ。

  

 このブログは映画が中心なので、本書の[跋章]から「映画ネタ」の部分を抜粋する。
 2015年の年末は『スターウォーズ』の新作が公開で、街のあちこちで宣伝が盛んだが、本書の初版はジョージ・ルーカスが監督した最初の『スターウォーズ』の日本公開と同じ1978年の刊行であり、当時は現代とでは比較にならないほどド派手な「絶対の宣伝」が繰り広げられているように見えた。そのことからはじめる視点が草森らしく、同時にそれは「70年代後半という時代」を思い起こさせるものでもあり、37年後の新作がまさにこれから公開されようとしている21世紀のいまと比較すると、ちょっと考えさせられるものがあって面白い。

 以下、引用。

 『スターウォーズ』という前宣伝の華々しかった映画を見た、超満員かと思って入ったが、案外、空席が目立った。現代人は、宣伝には、相当にすれっからしになっているな、と思った。理屈抜きに面白いという前評判がたっていた。この「理屈抜き」は、宣伝の決まり文句のようでいて、すこし綾がある。それは、ひところのあの騒がしかった理屈時代の反動の言葉で、他愛なく楽しがることを好む風潮に乗じていたからである。(略)
 『未知との遭遇』には、戦慄があった。『スターウォーズ』は、他愛なく楽しむものでよいにしても、あまりにも玩具的であった。現代人は、他愛ない中に、もうすこし現実感がほしかったのではないか。
(略)
 日常のファシズムが、資本主義社会に進行しているというのは、常識になっているが、これだけしたたかであれば十分、と安心することはできない。
 『スターウォーズ』は、私に言わせれば、理屈をつけて見なければ、どうにもならぬ映画に思えたからである。
 このスペースオペラの道具立ては、すべてパロディになっている。パロディは、前承知で動くシビアな世界だから、なんのパロディかがわからなければ、その楽しさは減じる。パロディは記号の美学だから、その発せられた信号を傍受できなかったら、なにがなにやらわからないということになる。『スターウォーズ』は、このパロディ記号の集積でできあがったモザイクであり、わかった分だけ喜びは増えるが、わからなくても、まあ楽しめるような作りになっている。他愛ないといっても、きわめてソフィスティケートな映画であったとも言えるのだ。ソフィスティケーションは、日本人のもっとも苦手とするところであり、満員になるはずもない。(略)
 『スターウォーズ』の宣伝口車にのらなかった大衆を思う時、(もっとも興行収入は本年度第一位だそうだが)かえってその危険性を私は感じる。インテリたちの理屈と知識は、無力であり、理屈を語っているだけヒットラーの言う通り、どうしようもない滑稽な存在だが、「理屈抜き」の感性主義もまた泣きを見やすい精神状況である。しかし現代人の官能は、どうしようもなく渇いていることだけは、確実なのである。


( 草森紳一『絶対の宣伝 ナチス・プロパガンダ2 宣伝的人間の研究 ヒットラー』の「跋章」より抜粋)

渡部幻


〈僕もこの光景を記憶している。ここと渋谷東宝で観た。http://wearenocturnalnyc.tumblr.com/より〉

ピータ・ボグダノヴィッチの新作『マイ・ファニィ・レディ』の自伝的な「突き抜け方」。

2015-11-17 | 試写
   

 ピーター・ボクダノヴィッチの『マイ・ファニー・レディ』が嬉しくなる出来栄えで、ちょっとビックリさせられる。『ラスト・ショー』『ペーパームーン』のボグダノヴィッチが、かのウディ・アレンの向こうを張り、ほとんど自虐的ともいえるユーモアを横溢させた――しかしアレンには不可能と思える――「スクリューボール」ならぬ「トルネード」コメディをつくりだした。

 

 彼のコメディ志向はむかしからのことで、『おかしなおかしな大追跡』や『ニッケルオデオン』などがあったが、『マイ・ファニー・レディ』はよりアンモラルかつエキセントリック。すっかりピカピカに元気なのである。今回ボグダノヴィッチを奮い立たせたのはイモージェン・プーツに違いない。彼女扮するチャーミングなコールガールを軸にもつれにもつれていく男女関係が愉快に実感を込めて描かれるが、ここで想起するのがボクダノヴィッチの女性関係。最初の妻で製作者のポリー・プラット、美人女優のシビル・シェパード、そして『プレイボーイ』誌のスター、プレイメイトのドロシー・ストラットンとの関係はことに有名だ。

 

 ドロシーはボグダノヴィッチに『ニューヨークの恋人たち』に出演(ベン・ギャザラ、オードリー・ヘップバーン共演)。しかし彼女の成功に嫉妬した狂気の夫に殺されてしまい、ボクダノヴィッチもまたスランプに陥ってしまった。その顛末はボブ・フォッシーの『スター80』に描かれているが、あれから30年以上のときを越えて彼はついに突き抜けたのだ。なんと本作の共同脚本はそのドロシーの妹で、ボクダノヴィッチの元妻のルイーズ・ストラットン。さらに彼の代表作『ラスト・ショー』の撮影時にポリー・プラットから彼を奪った主演女優シビル・シェパードも出ている。プラットはすでにこの世になく、出てこないのが寂しいけれど、生きていればきっと出ていただろう。近ごろ映画のドキュメンタリーで語る姿しか見かけなかったボグダノヴィッチだが、ここまで居直られてしまうと思わずこちらまで笑ってしまう。

  

 ボグダノヴィッチは60年代に「エスクァイア」誌のマニアックな映画ライターとして注目され、そのシネフィルは有名である。ゆえにファンを喜ばせる名作ネタが溢れ返る作品だが、僕にはそれよりもボグダノヴィッチの男女観、人生観が透けて見えるのがおもしろかった。
 「過去は捨てなければ、未来が乱れてしまう」というようなセリフが後半に出てくるが、この感慨のなかに、本作を貫く「居直りの哲学」がある。紆余曲折の映画人生を生きてきた「回顧派」の急先鋒ボグダノヴィッチのこれは「自伝的なセリフ」に違いない。(渡部幻)


アメリカ映画のジャーナリズム魂――『大いなる陰謀』と『フロスト×ニクソン』

2015-11-10 | 映画
 

 近年のロバート・レッドフォード監督作はいい。リンカーン暗殺事件を描いた『声をかくす人』(10)、ベトナム反戦を訴えた実在の過激派ウエザーマンの現在を描いた『ランナウェイ/逃亡者』(12)は、いずれも地味ながら興味深い主題を持つ作品で、70年代の政治の季節に『候補者ビル・マッケイ』(72、マイケル・リッチー)や『コンドル』(75、シドニー・ポラック)、そして『大統領の陰謀』(76、アラン・J・パクラ)に出演して時代と併走したレッドフォードらしい問題提起とその生真面目さが、いまあらためて貴重に感じられる。

   

 2007年の『大いなる陰謀』は、イラク戦争真っ只中のブッシュ政権時に公開された、過小評価されている作品である。原題は Lions for Lambs 。第一次大戦の時にあるドイツ兵がイギリス歩兵を讃えて、彼らを何万も死なせたイギリス司令部をバカにして記した――「ライオンが羊に率いられている」が由来で、イラク戦争時のアメリカに例えている。この国の政策とメディア、教育、そして戦争の関係にメスを入れるディスカッション・ドラマとして8年後のいまも普遍性があり、現在の日本に照らし合わせて考えさせる力には、シドニー・ポラックやアラン・J・パクラが70年代につくったリベラルな社会派エンターテインメントの良き血筋を感じさせる。

  

 ディスカッション・ドラマということで言えば、ロン・ハワードの『フロスト×ニクソン』(08)もそうだ。『大いなる陰謀』が三つの主題についての複数の対話を同時進行で絡めたフィクションなのに対し、こちらはウォーターゲート事件発覚後の1977年に実放送されたイギリス人司会者リチャード・フロストによるリチャード・ニクソン大統領のテレビ・インタビューの実話をもとに、その背景を描いている。ニクソンによる民主党本部盗聴事件など、世界中を傍受している現在では、大した問題に見えないかもしれないが、そこに本作の眼目があるのだろう。思わずニクソンとブッシュを比較してしまうが、いまの日本の問題でもある。そんな本作が優れているのは、ニクソンという「人間」を決して裁いてはいない点だ。『大いなる陰謀』もそうだが、単純な勧善懲悪の物語ではなく、その抑制がいいし、考えさせる部分だ。

    

 ニクソンを演じた俳優が正確に何人いるのかは知らないが、『名誉ある撤退/ニクソンの夜』(84、ロバート・アルトマン)のフィリップ・ベイカー・ホール、『ニクソン』(オリヴァー・ストーン)のアンソニー・ホプキンスが印象に残っているが、『フロスト×ニクソン』のフランク・ランジェラもまた、先の二人とは違った形で、米史に残る「悪役ニクソン」に人間としての尊厳を与えて見事であり、同じことは反ニクソン派だったアルトマンやストーンの演出姿勢に対しても言える。
 因みに、ランジェラはベテランだが、老いていよいよ貫禄の名優。まったく異なる役柄だが、『素敵な相棒/フランクじいさんとロボットヘルパー』(12、ジェイク・シュライヤー)でも絶品の味を見せていた。

 たまたまこの2本を再見したのだが、両作には決定的なつながりがある。レッドフォードは、ニクソンを辞任に追い込んだワシントンポスト紙の記者ウッドワードとバーンスタインを描いた『大統領の陰謀』の出演者というだけでなく仕掛け人でもあるのだった。
 しかし、こういうジャーナリスティックな映画を、何十億かけたエンターテイメントとしてつくりあげることができるアメリカ映画界の凄みを感じないわけにいかない。勿論、実現は一筋縄でいかないだろうが、それでも、対等な対話=対決や白熱した議論の機会と表現の可能性を信じる土壌が存在しなければ、辛うじてでも、成立しえないだろう。過去の人間の振る舞い、美術、衣装など様々な要素からなる時代の空気管を再現する映像力もそうだが、いまの日本映画はその点でいかにも寂しいのである。これはどうにも仕方のないことなのであろうか。(渡部幻)

『キャノンフィルムズ爆走風雲録』と2度と吹かないだろう「時代の風」

2015-11-07 | 試写
 

 『キャノンフィルムズ爆走風雲録』は、イスラエルからハリウッドに向かいアメリカンドリームの実現を求めたムービー・ギャング二人組メナハム・ゴーランとヨーラム・グローバスの栄達と凋落を描いた秀作である。
 彼らの夢の物語は、例えば『スカーフェイス』(84、ブライアン・デ・パルマ)『グッドフェローズ』(90、マーティン・スコセッシ)などのギャング映画を思わせる勢いとハチャメチャさで、そのあまりにも映画的でフィクション的とも言える人生物語が滅法おもしろい作品に仕上がっているのだ。

 彼らが最も活躍したのは1980年代。チャック・ノリスの『地獄のヒーロー』や『デルタフォース』、シルヴェスター・スタローンの『オーバー・ザ・トップ』、ジョージ・P・コスマトス×スタローンの『コブラ』、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』などを何故か観に行ったし、いまも印象に残るが、同時に彼らは、映画祭で話題になるような芸術家肌の監督たちの作品にも出資。アンドレイ・コンチャロフスキーの『暴走機関車』、ジャン=リュック・ゴダール×シェイクスピアの『ゴーダルのリア王』、ジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』、バーベット・シュローダー×チャールズ・ブコウスキーの『バーフライ』、ロバート・アルトマン×サム・シェパードの『フール・フォア・ラブ』、リリアーナ・カバーニ×谷崎潤一郎の『卍 ベルリン・アフェア』、ノーマン・メイラー監督・原作の『タフガイは踊らない』などを製作したのだった。これらは必ずしも彼らの代表作とはいえないが、ちょっと驚くような顔ぶれなのである。

 そしてこのラインナップが象徴するのは、この時代の映画好きの若者にとって映画を観るということが、C級、B級からアートフィルムに至るまで――間違って「観てしまう」こともしばしばだったが――何でもむさぼり観ることであったという特有の時代状況だ。ビデオレンタルの隆盛、テレビの洋画劇場、ロードショー館とミニシアターと名画座、映画を楽しみ方が最も混乱し、多彩を極めた時代であり、いま思われているほどの分裂にはまだまだ到ってなかったと思える。このことは、さらに昔の映画人やファンにとっても同様で、例えば60年代にB級映画の帝王ロジャー・コーマンは、安物の娯楽映画と同時にイングマール・ベルイマンのアートフィルムをアメリカに輸入していた。ファンにしても国内外の、A~C級の娯楽映画、芸術映画、個人映画、実験映画、テレビ映画を、ごちゃまぜに観ていた人は多い。

『キャノンフィルムズ爆走風雲録』は、「映画」という娯楽であり芸術が、階級やジャンルの垣根をこえた刺激物としてかなり乱暴に観る者の前に投げ出され得た「最後の時代の記録」である。そしてその時代を駆け抜けた「最後の映画冒険家たち」の友情物語として感動的だ。「もう二度と戻らないだろう時代の風」に乗って彼らが製作した数々の映画は――控え目に言って――いわゆる「本物の傑作」はあまりない。いまとなっては知られていない作品のほうが多いだろうが、このドキュメンタリーに関して言うなら、「知らない」「興味ない」「観たが覚えていない」のいずれもに関係なくおもしろい。上出来のバディ・ムービーなのだ。


 一度は業界のトップに躍り出たこともある独立系二人組の友情と華々しき成功の物語も、しかしそう長くは続かない。それはままならぬこの世の摂理なのだ。キャリアが下降し、やがて悲しい決裂の時を迎えることになるのだが、このドキュメンタリー製作者たちは、あざといまでのラストシークエンスを仕掛ける。誰もが身に覚えあるだろう「過ぎ去った時の記憶」を「現在(いま)」に甦らせる映画の魔法が突如として立ち現れてくる。その予想外な展開のビタースウィートな感慨が、例えば『ニューシネマ・パラダイス』などよりよほど感動的で、思わずしみじみと人生を感じさせられるのだ。

テレビ東京で『カサンドラ・クロス』を。監督コスマトス、そのシリアスな背景を語る。

2015-11-06 | テレビで見た映画
  

 昼にテレ東で『カサンドラ・クロス』を放送していた。録画したが、この映画は子どもの頃に『ジョーズ』の次に感激した作品なので、逆にあまり真面目に語りたくないという想いが強い。無邪気な気分のままにしておきたい作品があるのである。でも、実際のところ、かなりシリアスな内容なのだ。

 監督のジョージ・P・コスマトスは1976年の公開時の記事で、ニコラス・ローグの美学重視志向を批判、自作『カサンドラ・クロス』を「娯楽映画の要素を満載」の作品としつつ、「これは、はっきり言って政治的な映画です」とし、『Z』『告白』などで知られたフランスの社会派エンターテインメント監督コスタ・ガブラスを引き合いに出している。
 「何をかくそう、私の体験から生まれてきたものなのです」と語るコスマトスは、幼年時代をエジプトで過ごし、「その時、エジプトの街にコレラが発生し、やがて、この疫病の魔手は全市内を覆ってしまったのです。私はこの時、疫病というものは爆弾と同じように、全世界を抹殺することが可能な恐ろしいものなんだな、という事実、それが現代にも存在するという事実に気づいたわけです」「この映画の影の主役は、疫病をもたらすバクテリアですが、アメリカ以外にも、現実に細菌実験を行なっている国があるのです」と語る。
 幼年の恐怖体験とそこで得た感慨をベースに本作を構想し、同時に、映画は大衆に向けられるべきと考える彼は、「プライベートな思考のために作られた映画というのは、私には敵です。」と豪語。当時の近作としてスピルバーグの『激突!』がベストだと語り、なるほど『カサンドラ・クロス』はスピルバーグの成功に続こうと気持ちの分かる趣向の作品だが、人生はままならぬもので、実際のところ、その後コスマトスは失速。スピルバーグどころか当然ローグの足元にも及ばず、『ランボー/怒りの脱出』『コブラ』など大ざっぱなアクション映画ばかりをつくることになった。
 だが、僕にとって『カサンドラ・クロス』は冒頭シークエンスを含む数シーンの印象だけでもあまりにも鮮烈でどうにも忘れがたい作品である。公開時は幼く、政治性などひとつも分からなかったが、怖かったし非常に興奮もした。白い防護服に身を包んだ男たちが夜闇に浮かび上がる映像の無気味さに目が釘付けになったが、そうした感覚を観る者に与え得たことこそ、幼いコスマトスが経験した恐怖感の賜物ではないか。また、『カサンドラ・クロス』は疾走する列車のなかで展開する物語であり、そのスピード感が幼い僕を夢中にさせた要素のひとつである(5年後に『マッドマックス2』で再度、疾走の興奮を味わうことになるが、かつての世代が『駅馬車』に興奮したように、これは映画の原初的形式のひとつなのだ)。

 とにかく、たった1本の映画を人の記憶に焼きつけることも至難なのであり、コスマトスは本作を1本残し得ただけで十分偉い監督なわけだ。そして、同じカルロ・ポンティ製作、R・バートン、M・マストロヤンニ主演の『裂けた鉤十字/ローマの虐殺』(1973年)という「新作」を、いつか観る機会が訪れる日を楽しみしているのである。(渡部幻)

1972年「プレイボーイ」誌のお洒落なクリント・イーストウッド

2015-10-30 | 雑感
 

1972年の「PLAYBOY」誌に掲載されたクリント・イーストウッド。この写真は日本で発売された40周年アニバーサリー版で知ったのだが、お洒落なイーストウッドというコンセプトが新鮮で、いつもこの号が欲しいと思っていた。

ところで、米「PLAYBOY」がヌードの掲載をやめると聞き、調べると、すぐに朝日の記事が出てきた。「デビッド・ハルバースタム氏は著作で「セックスが隠れて求める暗いものではなく、楽しむものだという考えを広めた」」とあるが、そうだろうと思う。しかし、さらに時代は変わるのである。

2011年の「ニューズウィーク日本版」に「プレイボーイ・クラブの虚像と実像」という記事が掲載されている。筆者は、気鋭のコラムニストであり、『シルクウッド』『恋人たちの予感』などの脚本家であり、映画監督としても有名なノーラ・エフロン。彼女は次のように書いている。
「ヒュー・ヘフナーという人物がまだ消えていないことを、私はずっと不思議に思っている。(略)彼がつくったものはとっくに20世紀の中古品ショップに放り込まれた」
もっとも、エフロンが「中古品ショップに放り込まれた」と書いているのは、ヒューヘフナーが築きあげたプレイボーイ・クラブ、バニーガール、バンパーステッカー、Tシャツなどであり、ヘフナー帝国とその黄金時代である。朝日の記事がここで考えているのは「雑誌」がヌードを呼び水にし、いい意味でも悪い意味でも人の価値観を変えた「黄金時代」の終焉のほうである。

イーストウッドの「プレイボーイ」フォトはもちろんヌードではなく、むしろファッション写真なのだが、ヘフナーの考える「いい男といい女」の理想像が提唱されており、その先には「ヌード」があり、当然「セックス」が待っているというわけだ。確かにこの「理想イメージ」は過去=20世紀のもので、それなりの距離を感じさせるかも知れないが、だからこそ今あらためて眺めていると「おもしろい」のである。(渡部幻)

  

30周年の『未来世紀ブラジル』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』~80年代後半アメリカ映画の傾向

2015-10-26 | 映画
 

 世間では、1985年の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』30周年の話題が語られている。正確には、89年の『2』に描かれた「2015年」と現在を比較する話題なのだが、この影に隠れてると思うのが、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』(85/日本公開は86年)だ。
 近未来の超管理社会を舞台に、個人性の剥奪と自由の希求、テロリズムと飛翔願望をドス黒い風刺と共に描破する悪夢の造形美術。そんな『ブラジル』が予見した悪夢の未来こそ実は「いまっぽい」のではないか。21世紀は『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』が描いた2015年は、まるでつくば万博(1985年だ)かユニバーサル・スタジオやディズニーランドにでもありそうなテーマパーク。つまり「楽しい未来」で、視角的には『バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2』に登場する「未来像」がテーマパーク的な清潔さにおいて「いま」に近いかもしれないが、いまの内実はテロ対策と称した管理体制ばかりが進んでちっとも「楽しく」はない。
 だから『ブラジル』の30周年にも注目してあげたいわけで、今年はギリアムの新作『ゼロの未来』が観れたけども、どういうわけかあまり印象に残らなかったし、『ブラジル』は多分、もう2度と再現出来ないだろうギリアムのアナーキーな空想力が最も美しく羽ばたいた異能の大作だったのだから。



 『ブラジル』は、ロバート・アルトマンの『バード★シット』(70)との繋がりも見られる。が、いかにも70年代初頭的な『バード★シット』の飛翔願望とその失墜と比較したとき、『ブラジル』に描かれた極度の閉塞状況はやはり80年代に似つかわしかったと思える。なぜなら、81年に『ニューヨーク1997』があり、82年に『ブレードランナー』、84年にジョージ・オーウェルの小説をマイケル・ラドフォードが映画化した『1984』が公開されたあと真打ち的に登場してきたからだ。アルトマンのカラフルなポップアートは閉塞は閉塞でも笑いのめして打ち破らんとする不遜で軽やかなエネルギーが横溢していたが、スコットやギリアムのそれはより重たく、うんざりするほど辛気臭く、よって絶望的だった。
 絶望を絶望として認識し、誇張された想像力を駆使し表現することこそ、レーガンの能天気で非現実的な政治観、社会観、世界観を前にした表現者たちに出来る唯一の抵抗術だったのかも知れない。

 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『未来世紀ブラジル』は対照的な未来映画で、前者がすこぶる陽性であるのに対して後者は陰性。『ブラジル』が提示する未来は悪夢そのもの、なにか悪い冗談でも見ているかのようなブラックユーモアが横溢する作品であった(その点でキューブリックの先駆的な『時計じかけのオレンジ』を連想する)。


 

 80年代は光と影のコントラストで、その落差があまりにもハッキリしているのでその性格が分かりやすい(その分かりやすさゆえに分かりにくくもあるところが面妖な時代だ)。

 日本では85~86年のあいだに公開された『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『未来世紀ブラジル』が示した個性の落差はあまりにも大きく、ゆえに鮮烈な印象だった。82年の『E.T.』と『ブレードランナー』の好対照を思わせる。翌86年の『トップガン』(トニー・スコット)と『プラトーン』(オリヴァー・ストーン)もそうだが、いかにもロナルド・レーガン政権時代の80年代を代表する2本の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマイケル・J・フォックスと『トップガン』のトム・クルーズが、大スターの座につくとそれぞれ、むしろアンチ・レーガンのシリアスなベトナム戦争映画『カジュアリティーズ』(89、ブライアン・デ・パルマ)と『7月4日に生まれて』(89、オリヴァー・ストーン)にも出演したことも興味深い出来事だった(80年代における60年代的なるものとはベトナムだった)。単なる賞狙いや批評家への目配せと捉える向きもあったが、『プラトーン』に出たチャーリー・シーンなど逆に『メジャーリーグ』(89)みたいなコメディでヒットを飛ばすわけで、この時代はスターは映画的・政治的な左右(=光と影)のバランスに目配せして出演作を選んでおく必要があったのかもしれない。

 80年代半ばはベトナム戦争終結から10年ほどで、あらためてあの戦争を検証する機運が出てきていた。そんななか「ベトナム戦争映画」は流行のひとつとなり――米兵によるベトナム人少女強姦殺人事件を題材にした『カジュアリティーズ』を除けば――興行的な成功を収めていたし、別の言い方をすれば、いずれも明暗のハッキリした分かりやすい作品であり、その限りにおいて受け入れられることも多かった。(ちなみに86年の年間ボックスオフィス・チャートの1位は『トップガン』、2位は『クロコダイル・ダンディ』、3位は『プラトーン』である。当時『プラトーン』は「プラトーン現象」と呼ばれる大ロングラン作となった)。

 

 そんな80年代という時代には、例えばロバート・アルトマン的な「灰色の世界」が馴染まなかったのも致し方ないことであった。マイケル・チミノの『天国の門』(80)がユナイテッド・アーティスツ社を倒産に追い込んで以来、ほとんどの70年代ニューシネマ勢の監督が失速、ハリウッドは保守化して、アルトマンは『ポパイ』(80)以降パリに移住、マイク・ニコルズはうまくハリウッド風を取り込み、アーサー・ペン、ボブ・ラフェルソンらはうまく転向出来ないまま低調な作品づくりに終始、サム・ペキンパー、ハル・アシュビー、ボブ・フォッシー、ジョン・カサヴェテスは80年代の後半にみな死去した。

 そして冷戦が終結し、左右、白黒が曖昧で捉えどころない90年代が始まると、途端にアルトマンが復活してきたのも、また分かるような気がする。『ショートカッツ』(93)を代表とするアルトマンの白茶けて曖昧な奥行きを欠いた画面空間というか世界観が、改めてリアリティを増してきたと感じられたものである。
 逆に90年代はテリー・ギリアム的な造形美学に凝りまくる大がかりな悪ノリの方向がちょっと馴染まなくなってきて、もっとゲリラ的な安いやり方で、白茶けて刹那的な日常を日常のまま細切れにして異化することのできる悪ノリの才能が求められてくる。例えば、クエンティン・タランティーノやポール・トーマス・アンダーソン、日本なら北野武や黒沢清の観念的な暴力映画に日常感覚のリアリティを感じる、そういう時代が始まったのである。


ネッド・ベンソンの恋愛ドラマ『ラブストーリーズ/2部作』をDVDで観る。

2015-10-17 | DVD
   

 ネッド・ベンソンの『ラブストーリーズ』2部作は拾いものの恋愛映画だ。現代のニューヨークを舞台に、若い夫婦の別れからはじまる物語を、夫と妻それぞれの視点からなる「2本の映画」に仕立てている。いわばイーストウッドの『硫黄島』2部作みたいな感じなのだ。
 立場の異なる者の争いを視点を変えて描くというのは、公平さや平等への意識が高まる「いま」らしい着想であり、これから流行るかも知れない。しかし今後もそれが面白い展開を見せるかは微妙なところだが、とりあえず現状では新鮮である(表現から独断と偏見を奪うのは危険だ)。人と人のすれ違いや諍い、ことに男女のそれは「解決のないミステリー」のようなものだから、つねに闘争を描く映画という表現にはピッタリだ。
 1部「コナーの涙」がジェームズ・マカヴォイ、2部「エリナーの愛情」がジェシカ・チャステインという構成で、個人的には2部目のほうがよいと思うが、当初は1部目のみだったところを監督の友人のチャステインが「女性編」をつくるよう進言したらしい。1部目だけなら大したことはないからチャステインの功績は大きい。

 

 ちなみこの映画、どちらから観てもいいとは思わない。1部目で分からなかった妻の心理が、2部目で見えてくるという構成であり、逆にしてしまうとそういう構成にならず、効果は半減する。DVDの特典に「1本の映画」にまとめたものが入っており、これも観たが、やはり「2部作版」のほうがはるかにいいのだ。
 ジェームズ・マカヴォイはいつもながらの好演だが、くせがなさすぎてサラサラしてしまっている。ジェシカ・チャステインの心理表現のほうに見応えがあり、近作の『アメリカン・ドリーマー』でもそうだったが、彼女は目元と口元、そしてアゴの動かし方ひとつで役の心理状況を伝えてしまう。若き日のメリル・ストリープやジェシカ・ラングを思わせる実力派女優として将来が期待されるひとりだろう。二人の両親役で出ているウィリアム・ハート、イザベラ・ユペール、キーラン・ハインズの芝居もしっとりと落ち着いていて悪くない。

 

 『ラブストーリーズ』は『(500)日のサマー』みたいなコメディではないし、『ブルーバレンタイン』のように鈍痛に襲われるヘヴィな作品でもない。包み込む優しさが身上で、その意味で古典的とも言えるが、そこは「2部作」の利点を発揮して観る人の経験で解釈を変えるであろうおもしろさがある。もしこれをカップルで観て「意見が一致」したとすればそれは赤信号である。本作が描くようにそんなわけはないのだから。しかし「恋愛映画」とはそもそもがそういうものなのであり、だとすると、このつくり方は少々「お澄ましに過ぎる」かもしれない。
 ニューヨークをとらえた撮影がなかなか綺麗そうだったが、劇場でなくDVD鑑賞だったので、ぼんやり画面を頭のなかで修正しつつ観なければならなかった。とはいえ、「★★★」という感じのこうした作品を、たまに観るのもいいものだと思った。
(渡部幻)

アラン・ルドルフこそロバート・アルトマンの一番弟子。PTAじゃない。

2015-10-15 | ロバート・アルトマン
 

「僕は主観的現実(サブジェクティブ・リアリティ)というものがあると思っている」――アラン・ルドルフ (大久保賢一『Switch』ニューロスト・ジェネレーション あらかじめ失われた世代)

 ロバート・アルトマンの一番弟子と言えば、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)でなくて、アラン・ルドルフである。アルトマンの『ロング・グッドバイ』『ジャックポット』で第二助監督、『ナッシュビル』で助監督、『ビッグ・アメリカン』では脚本を書いた正真正銘の弟子筋。ルドルフの『ロサンゼルス/それぞれの愛』『Remember My Name』『ミセス・パーカー/ジャズエイジの華』『アフターグロウ』『Trixie』は、アルトマンがプロデュースした作品だった。
 2015年日本公開のドキュメンタリー映画『ロバート・アルトマン/ハリウッドでもっとも愛され、嫌われた男』にルドルフが登場しないのが解せなかったものだが、特にトラブルがあったわけでもなさそうである。このドキュメンタリーはアルトマンの妻キャサリンの協力のもとでつくられたが、同時期に出版された、やはりキャサリン監修による豪華書籍『Altman』には、しっかりルドルフも言葉を寄せているのだった。

「確かに僕らふたりともそれぞれの映画で、もうひとつの真実をみつめてきたといえるかもしれない。ただアプローチの仕方はものすごく対照的だと思う。ボブのはどこまでも客観的でみすえるような距離を保つ。一方、僕はもっと主観的、感情的な方法に魅了されてしまうんだ」――アラン・ルドルフ (川口敦子『落ちた恋人たち』パンフレット)

 ルドルフの名が日本の映画ファンの間で知られたのは80年代である。ミニシアターを中心とする代表作といえば、『チューズ・ミー』『トラブル・イン・マインド』、そして『モダーンズ』だろう。アーティスティックかつどこか奇妙なこれら異色作群に出演したキース・キャラダインは、70年代にアルトマンの『ギャンブラー』『ボウイ&キーチ』『ナッシュビル』に出演して脚光を浴び、その後、リドリー・スコットの『デュエリスト/決闘者』やルイ・マルの『プリティ・ベビー』、ウォルター・ヒルの『ロング・ライダース』など曲者監督たちに愛されるようになったが、特有の二枚目だがオフビートな個性の「発見者」がアルトマンで、「発展」させたのがルドルフだったということができるだろう。80年代には、再びヒルの『サザーン・コンフォート』やアンドレイ・コンチャロフスキーの『マリアの恋人』、サミュエル・フラーの『ストリート・オブ・ノーリターン』などの異色作に連続出演。久しく見かけなかったが、近年「テキサス派」の有望株デヴィッド・ロウリーの『セインツ/約束の果て』や、ノア・ハサウェイがコーエン兄弟作品をテレビドラマ化した『FARGO/ファーゴ』で重要な脇を固め、渋い味を披露していた。

   

「アランは、ピカソが自らの作品を説明したようなやり方で世界を作り出そうとしているのだと思う。“芸術とは我々に真実をみせる嘘”とピカソは言った。アランは、そんな風に虚構の世界を組みあげる。ファンタジーといってもいい。が、嘘やファンタジーが真実をより明らかにするように、アランの映画は人間についての真実をみつけ出す。非現実性の中で現実がより明らかになっていく」――キース・キャラダイン (川口敦子『Switch』1990.07)

 ルドルフ作品中もっとも日本で評判を呼んだのは『モダーンズ』だろうか。1920年代のパリのアーティストたちの群像劇がシニカルに繰り広げられる。視線を彷徨わせるような奇妙なカメラワークは「アルトマンゆずり」で、アルトマン作品と同様「ドラマ」よりも「ムード」を重視している。ここでキースは作家アーネスト・ヘミングウェイ風のハードボイルドな贋作画家を演じ、ジョン・ローン、ジェラルディン・チャップリン、ジョヌヴィエーヴ・ヴィジョルドらが出演し、みながみな一風変わった人物を演じる。終盤で、現代ニューヨークのMOMA美術館に「贋作」のマチスが「本物」として飾られている場面に師匠譲りの皮肉が利いた作品だった。

「僕の映画に(それは誰の映画でも同じことだが)現実の似姿としてのリアリティを探そうとしても、それは見つからない。記憶の中にあるもののリアリティと同じように、映画の中のそれは現実に寄り添うものではないのだから」――アラン・ルドルフ (大久保賢一『Switch』ニューロスト・ジェネレーション あらかじめ失われた世代)

 80年代はアルトマンが無視されルドルフが注目されたが、「ルドルフ作品」には「アルトマン作品」にないロマンティシズムがあった。繊細かつ内省的で、人工的かつ都会的なセンスが、一種独特な手触りのセンチメンタリズムとないまぜとなった世界観。その心地よい哀感が人気を博したが、ひとつには彼の音楽センスが貢献していたかもしれない。『チューズ・ミー』のテディ・ベンダーグラス、『トラブル・イン・マインド』のマリアンヌ・フェイスフルが印象に残るが、もっともコンビを組んだ作曲家は『モダーンズ』『メイド・イン・ヘブン』『落ちた恋人たち』などのマーク・アイシャム。彼はのちにアルトマンの『ショートカッツ』も担当している。

   

 ルドルフ作品では「どこかに似てるようでどこにも似ていない」人工的で書割のような架空都市の片隅を、「居そうで居ない」登場人物たちが、得も言われぬ哀感と滑稽さを滲ませながら彷徨い、交錯していく。『トラブル・イン・マインド』に顕著な虚構性は、たとえばウォルター・ヒルの『ストリート・オブ・ファイヤー』と同時代性を感じさせ、そのロマンティシズムは、リドリー・スコットの『ブレードランナー』というより『誰かに見られている』に近い。マイケル・カーティスの古典「カサブランカ」とニューウェーブ的な感性の融合とも言えるが、しかし、彼の世界はヒルやスコットと異なり、いわゆる「ハリウッド調」の明快さが欠片も感じられない。重視されるのは、より微妙かつ繊細な「手触り」のようなものだ。描かれるすべてが、何かの「贋作」であり「パロディ」であるかのような特異な世界観を、文字で説明するのは難しいが、だからこそ異端児アルトマンが評価する「弟子筋」の面目躍如がある。それゆえと言うべきか、ルドルフがその類稀なる個性を、十全に発揮できる機会に恵まれてきたとは言いがたいのだ。

「映画会社のために働いた結果はいつも同じだ。ハリウッドは僕の「眼(アイ)」を好んでいるようだが(だから監督として起用するんだろうが)僕の「眼」が見たもの、つまり出来上がった結果は好みではないようだ。彼らはきまって完成した作品を変えようとする。僕がやろうとしたことを帳消しにしてね。僕が僕であろうとすることを、彼らは好まないのさ」――アラン・ルドルフ (大久保賢一『Switch』ニューロスト・ジェネレーション あらかじめ失われた世代)

 ルドルフ曰く彼の作品は、自らの感性でつくった「フィルム」と、映画会社のためにつくった「ムービー」に分けられる。前者が『チューズ・ミー』『トラブル・イン・マインド』『モダーンズ』『ミセス・パーカー』とすれば、後者は『ローディ』『真夜中の極秘実験』『藍を殺さないで』『メイド・イン・ヘブン』などだが、ルドルフは「未完成の映画作家」であり、そのあやうさがなんとも魅惑的だったが、いまや「忘れられた80年代アメリカ映画作家」の代表選手みたいになっている。理由はわかるようでわかららないが、彼の理解者は、昨今の主流たる「映画オタク」でも「シネフィル」でもなく、むしろ文学や絵画もしくは音楽のファンかもしれない。

 そんな彼のフィルモグラフィーは――師匠アルトマン以上に――傑作、秀作、佳作、そして珍作と凡作が混在している。僕個人の主観で振り分ければ「傑作」は、視覚的に優れた『ロサンゼルス/それぞれの愛』(76)『チューズ・ミー』(84)『トラブル・イン・マインド』(85)『モダーンズ』(88)『ミセス・パーカー』(94)。「秀作」は『アフターグロウ』(97)、「佳作」は『探偵より愛をこめて』(89)『堕ちた恋人たちへ』(92)、「珍作」は『悪魔の調教師』(74)『真夜中の極秘実験』(82)、そして「凡作」は『ローディ』(80)『メイド・イン・ヘブン』(87)『愛を殺さないで』(91)あたりの「ムービー」。そして「がっかり作」だったのが『ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ』(99)と『セックス調査団』(01)だった(いまだ『ソングライター』〈84〉を観れてない)。しかしこの振り分けも「気分」で変わってしまいそうで、そうした「曖昧さ」がまた「ルドルフ的」なのだ。ほかの人がほかの気分で選ぶとまた違ってくるだろうが、ただひとつ言えるのは、ルドルフは誰もが傑作と声を揃えられるような作品は「作らない」ということで、ここに「アルトマンの弟子」たる所以があり、決して巨匠になったポール・トーマス・アンダーソンには真似の出来ないところだ。
 
「僕の映画に対してアメリカでも多くの観客がこれはコメディなのか、ここで笑っていいのかみたいな反応を示すんだ。(中略)僕にとってあらゆるものごとはユーモラスで同時にシリアスなんだ。どちらかひとつというのは信用できない。すべての事々はオーヴァーラップしているもので二極分解なんてとてもできないというのが世界に対する僕の見方なんだと思う。(中略)いうまでもなくこの二重性の一例が知ってることと知らないことって部分にあって、西洋では前者をコントロールすることに邁進してきたわけだよね。で、わからないものにでくわすと途端に混乱してしまう。ところが僕の場合はまったく逆で、東洋的だといえるかどうかはともかく不可知の部分にこそ生は根ざしていると思えるんだ」――アラン・ルドルフ (『FLIX』アメリカン・インディーズの肖像)

   

 ちなみに70年代のアルトマン作品を考えるときにもルドルフを意識しておくと、また違った側面が見えてくる。たとえば、アルトマンの『ロング・グッドバイ』には彼の普段の作風と少しばかり趣きの異なるロマンティシズムがあり、ことにロスの夜景描写に顕著なのだが、それが、のちのルドルフ作品『トラブル・イン・マインド』『探偵より愛をこめて』の質感を予見していると感じられる。また、『ビッグ・アメリカン』の人間群像に横溢する間の抜け方や温もりにも「ルドルフ的」なるものがあるのではないか。さらに、アルトマンが一線に復帰するきっかけとなった『ザ・プレイヤー』にはルドルフが彼自身の役で出演し、彼がマーティン・スコセッシと間違われる場面があるのだが、自らをからかうこんなところにルドルフ的なパロディ精神を垣間見てしまう。ルドルフの「傑作」「秀作」を書いたので、ついでにアルトマンのそれも同様に書いてみようかと思ったが、しかし彼の場合あまりにも作品が多すぎて乱脈になるのでやめておこう。

「大半の人はアランが作家として僕の影響をうけたと考えているようだが、事実は逆だね。この私がアランに作家として影響を受けたのさ」――ロバート・アルトマン (『トラブル・イン・マインド』パンフレット)

(渡部幻)
  

ロバート・アルトマン――「わぁ、すごく良かった!」と言いながらも、ひと言も語れない映画のために

2015-10-04 | ロバート・アルトマン


ロバート・アルトマンのドキュメンタリー映画『ロバート・アルトマン/ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』の公開が近づき、映画ファンのあいだでひそかに盛り上がっている。これはひとつに宣伝の努力と情熱の成果だと思える。宣伝は煽りであり、こと日本ではマイナーなアルトマンのしかもドキュメンタリーをメディアがこれほど取り上げたことはなかったし、ちょっと画期的な気がする。扇動はときに対象の「伝説化」「神話化」への荷担ともなり、そうなると「アルトマン的」ではないが、とりあえずは嬉しく思うわけである。

アルトマン作品は劇映画だけで39本、しかも題材が一通りではないから、全体像を把握することが難しく、日本ではとかく忘れられがちな存在だった。映画ファンというものは「作家」よりも「題材」(俳優もそうだ)で見ることが多く、ゆえに常に前作と異なる題材を取り上げたアルトマンとその作品群の印象はどこか漠然としてしまいがちだった。一風変わったエンターテインメントからアートフィルムまで手がける彼の多彩が、興行的な仇となり、ターゲットの絞り込みを至上命題とする宣伝にとっては扱いづらい存在であり続けた(70年代の宣伝戦略は大方的を外れた)。

それはなにより,アルトマン自らが仕掛けた[扱い難さ」でもあったろう。彼の創作はジャンルからジャンルへの横断であり、加えて、映画会社から別の映画会社へと転々とする流れ者的な性格をも併せ持つものだった。人を煙に巻くことを楽しみ、余裕しゃくしゃくで、シニカルでかつ流動的な語り口は、カテゴライズ化を拒んでいる。だから例えば、ビデオレンタル店においてもてんでバラバラなカテゴライズのコーナーに置かれている。発見するのに一苦労というより、レンタルブームの80年代にはほとんど誰も探してなかったかもしれない。少なくとも日本のレンタル店における存在感はまるでなかったのであり、大抵、置いてすらいなかった。とはいえ、僕にとっては、だからこその魅力で、そんな彼の作品を追いかけることが楽しくて仕方がなかった。あまりにも乱脈なフィルモグラフィとその奇妙な語り口ゆえ、簡単に分かった気になれないが、そんなところがまたたまらなかった。もっとも、これは倒錯した楽しみ方で、あくまでも一般的じゃない。日本の映画ファンにとってのアルトマンは「聞いたこともない」か「聞いたことはあるがよく分からない」監督で、メジャーでもカルトでもない、マイナー以下の存在だったのである。批評家とて同様で、個々の作品評は出ても、全体像を捉えるような論考は(一部の試みはあっても)ほぼ出てこなかった(そもそも未公開作が多く全体を観ることが困難だった)。
映画評論家の山田宏一など『ウエディング』のあまりの客入りの悪さ(初日一回目の動員人数三人!)に苦言を呈し、「それだったら僕がガイドやろう、サンドイッチマンやった方がいいと思ったのね」と語っていたが、ともかく少なくとも日本の興行界は「ロバート・アルトマン」の異能に手を焼き、その認知を広めることに難儀してきたのだ。



そんなアルトマンのつくる映画がそれほどに難しかといえば、必ずしもそういうわけでもないのだが、にも関わらずこういうことになってきたのは、彼の作法が「売り」を明確に打ち出す「通常のハリウッド映画」は異なり、どこかポイントを外した見慣れない語り口を持っていたからである。アルトマンは映画をより抽象化することに熱心で、そのための新話法や新技術の開発もするから、仮にそれを「おもしろく」感じたとしても、未体験の人にうまく伝えることが困難で、結果うまく広まらなかった。この「困難」は今度の「ドキュメンタリー映画」にも見て取れる。劇中でかつての仲間や友人たちが「アルトマンらしさ」を尋ねられて答える。彼らに課せられた任務はアルトマンを「ひと言」に要約して語ることだが、皆、精一杯の笑顔をつくりつつもどこか表情が強張っている。少なくとも僕にはそう見えたが、そもそもアルトマンを要約するのは不可能なのだから、多少なり「強張って」もらわないことには困るというものである。「発言」は見事バラバラだが、監督のロン・マンが、彼らの「強張り」の中から「アルトマン」の核心を引き出そうとしたのだとすれば、かなりの曲者と言える。

アルトマンが生涯に発表した作品の一つ一つは、個々の世界を様々に描いて一貫性がないが、ほぼ「アメリカ」を描くことで一貫しており、その究極的な主題は「生の人間の姿」を描くことにあった。では、彼はどんな人間の姿を描いてきたのか? 「自らのイメージに翻弄されて生きる人々の姿」である。アルトマンの「映画」は「捏造されたイメージ」と「真実を映す鏡=イメージ」を一まとめにぶち込んだサラダボウルであり、それこそが「アメリカ」そのものの姿でもあるわけだ。70年代に彼は「捏造されたイメージ」の元凶を「ハリウッド映画」に定め、過去そこに描かれてきた「アメリカの文化」「アメリカの社会」「アメリカの歴史」を丸裸にすることで、他ならぬ「彼のアメリカ」を浮き彫りにしてみせた。「アメリカ・コーポレーション」が国民に売り込むありとあらゆる嘘のイメージ=プロパガンダに洗脳され、妄信する人々の悲喜劇。アメリカ文化を映し出す「鏡」としての「アルトマン映画」は、いわば硬直化した意識のマッサージだった。ことに『ナッシュビル』『ショートカッツ』などの代表作で彼は、自らの眼に映る特定の社会における固有の現象を取り上げ、それを斜めから切り裂きながら、最終的なには巨視的な視点から抱き上げることによって、いつどこの人間にも普遍の善性と悪性をまるごと浮かび上がらせることに成功。それは観る者を砂糖菓子の夢で前後不覚にする「ハリウッド映画」とは似て非なる構造を持っていた。アルトマンは生涯にわたって自らの歌を歌い続けたが、同時に映画はいまよりもずっと素晴らしい表現になり得ると考え、よく次のような言い方をした。

「偉大な映画というものは、いまだ作られていない」「ぼくは、映画のフォーマットはまだ見つかっていないと思ってる。依然として文学とか演劇なんかの模倣をしているだけでね。映画というものは、人間がしゃべってるのを写すだけのものだとは思わないんだ。映画は、うんと抽象的にも印象的にも錯綜的にもなる。映画で�ムード�を作りだしさえすれば、なによりインパクトを持つことになるだろう。問題はムードだよ」
(山田順子訳より)

「私にとって完璧な映画とは、人々が映画館から出てきて、「わぁ、すごく良かった!」と言いながらも、それについてひと言も語れないような映画のことである」

「私には人に伝えたいことは何もない。哲学も持っていない。私がしたことは絵を描いてそれを見せてあげることだ。それは砂の城に似ている。いつかは消えていくものだ」

(今野雄二訳より)



アルトマンは映画を現行を決まりきった形式の中から外へ出すためには手段を選ばず、衝突を厭わなかった。人間観察のプロフェッショナルであり、一流のアーティストだった彼は、それゆえ小市民的な守りの姿勢とは無縁で、世間並みの成功・不成功など無視して、平気な顔をして――人にはそう見える――駄作・凡作をつくることもあったが、いずれも新たな試みが見られないことはなかった。ときにそれが成功すると、映画の見方や、人間の見方、社会の見方を揺さぶり、変化をさせて、そのうちのいくつかは映画史にその名を刻むこととなった。

1975年の『ナッシュビル』は、長い下積みを経て『M★A★S★H』の成功で「寵児」となり、『バード★シット』『ギャンブラー』『イメージス』『ロング・グッドバイ』『ボウイ&キーチ』『ジャックポット』と異色作を休むことなく連打。しかし興行的な成功にいたらず、市場での価値が下がり、評価があいまいになってきたところに登場した革新的な作品であり、彼のエネルギーが頂点に達した最高作である。

「ローリングストーン」誌で記者クリス・ホーデンフォートは、当時、それ以前の「アルトマン的状況」をうまく要約しているので、ちょっと長くなるが引用する。

 アルトマンは大手の映画会社数社で仕事をしたが、会社の幹部連中は、アルトマンの作品をどのように売り出せばよいのかわからなくなると、気むずかしくなってしまった。幹部たちには、アルトマンは異才であるということしかわからなかったからだ。最近の映画は、エピソードが多くて、順を追って展開していかない。したがって、クラシックな性分ではなくて、激情的なストーリーテラーの性格が要求されている。しかもプロットは重視されない。こういう映画の作り方には、まだ名称すら与えられていない。だが、わたしとしては、たとえば新シュールリアリズムなどというような批評の仕方はしたくない。
 新聞などにおけるアルトマンの評判は二通りに分かれる。ポーリン・ケールの典型的に『ニューヨーカー』(雑誌名)調の解説では、アルトマンは、「無意識のきわで仕事をしている……なぜそうするかなどと自問するのではなく、直観を信じている……芸術家」としてのフォークナーにたとえられることになる。これに対して、レックス・リードやジョイス・ハーパーのようなコラムニストの手にかかると、アルトマンの最高に洗練された四文字言葉(一般に卑猥な言葉を指す)がほとばしる映画も、型にはまった扱いのせいで破壊されてしまうのだ


こう前置きしたあとアルトマンへのインタビューが続いて、最後をこう締めくくる。

 わたしが最近アルトマンに会ったのは、ワシントンDCでのプレミアショーでだった。ネイビーブルーのスーツ姿のアルトマンは、ジョージ・マクガバンやサージェント・シュリバー、ロン・ネルソン等と握手を交わしていた。わたしの前には、有名な一族の青年が座っていた。R・F・ケネディの息子、ミカエル・ケネディだ。髪の毛で顔が半分ぐらい隠れている。しかし、死、吐き気のする事件、ぞっとするような個人的決断の場面になると、ケネディの顔色は変わり、青ざめた。彼はすぐに姿を消した。ジョージ・マクガバンとエリノア・マクガバンは夜の闇の中を歩いて行った。彼にはつらい日であり、映画のせいで孤独な気分になったようだ。
 「意気があがったとは、とても言えないね。あの映画は悲劇と喜劇の両方だ。70年代のわれわれの生活の良いドラマと辛辣な状況とをうまく描いているよ。この国の魂をえぐりだして、しかも何の答えもないままで終わっている」

※「ジョージ・マクガバン」は、当時の大統領ニクソンの対抗馬として知られた。アルトマンは「ニクソン嫌い」で、マクガバンが選挙で敗れたことを知り、その「怒り」から『ナッシュビル』を制作した。

『ナッシュビル』はアルトマン映画の中でもことに政治色の濃厚な作品である。記者がまとめた作品を取り巻いていた時代状況を要約すれば「混乱」と「疲弊」だ。当時アメリカ社会は、ベトナム戦争や石油危機など泥沼に足を突っ込み大きな曲がり角に立っていた。新しい価値と古い価値、台頭する者と退場する者、正気と狂気、その境目が曖昧になっていった。2015年日本の社会的・個人的な状況もまったく混乱の極みにあるが、にもかかわらず時間は、怠惰に、いつもどおり進行していく。大きな時間の流れのなかで人々はあまりにも小さく、なんとかやり過ごしながら日常の問題の中に埋れて、感覚を麻痺させていく。しかし、アルトマンの「正気」は、そんな混沌とした営みの中にこそ創作のエネルギー源を見い出し、かつてない映画を生みだして頂点に到達したのである。

とはいえアルトマン映画は「時代性」にとどまるものではなく、そこに描かれる「人の営み」には普遍性があり、だからこそいまも観る者に突き刺さるのである。アルトマンは様々な時代のアメリカを描いてきたが、そこに登場する人々はいつでも愚かだったし、滑稽で、なにか大きな勘違いしているように見える。彼にとって人はいつの時代でも「同じ」なのであり、成長することのない生き物なのかもしれない。

   

ドキュメンタリー映画『ロバート・アルトマン ハリウッドに最も嫌われ、そして愛された男』は、そんな彼の仕事、誇り、見識、尽きぬアイデアと大いなる家族主義を垣間見せてくれる作品である。彼のあの眼に映った世界を、彼自身のインタビューとスターたちの証言を通じて知ることの出来るような快活な仕上がりである。監督はロン・マン。50~70年代のサブカルチャーを「今」に残し伝えるドキュメンタリー作家であり、ここでは、アルトマンの妻、キャサリン夫人の協力を得て、業界きってのひねくれ者として知られた彼の軌跡とともにその大らかな素顔を紹介している。彼の父性に目を惹きつけられるが、同時期に公開される『サム・ペキンパー』のドキュメンタリー映画が、アルトマン同様、業界の異端児として暴れたペキンパーの美点と共に欠点を、痛ましいほどに伝えて、立体的な人物論になっているのに比べ、『アルトマン』は「いい人物」の「いいお話」に終始しているように見えてしまうかもしれない。しかしロン・マンは、「異端児」「変人」「問題児」のレッテルを貼られてきたアルトマンの一方の魅力だった「大らかな独立精神」をこそ、むしろ伝えるべきだと考えたのだろう。

そう理解した上であえて書いておくと、アルトマンのアーティストとしての面白さが、その「はねっ返り」と「人の悪さ」にこそあったことも事実なのだ。劇中、「アメリカの神話を破壊していると見えるようだが、私は自分に見えることを映画にしているだけ。この国を愛している」というようなことを語る場面があり、油断すると感動してしまいそうになるだが、これは、90年代の「ローリング・ストーン」誌に語った、「わたしはむしろ……破壊的だと思う。革命的ではないが、破壊的だ」「(自分が破壊しているのは)決まった考え方だ。固定したテーゼ。陳腐さ。これはこれだ、と言うもの。戒律。意見。そういう類のものだ。私が言ってるのは、そんなのは真実じゃない。それは真実だけど、そうじゃないんだ」、という発言と合わせて受け取るべき言葉であると思う。

アルトマンが――こと70年代に――「神話破壊」に勤しんでいたことは紛れもない事実であり、その「意地の悪い」な異端性が、多くの観客や批評家を戸惑わせたのだ。『M★A★S★H』では当時ベトナム戦略を進めていた軍隊機構を、『BIRD★SHT』ではアメリカの飛翔願望を、『ギャンブラー』では西部の神話を、『ロング・グッドバイ』ではハードボイルドを、『ボウイ&キーチ』では大恐慌時代のギャングを、『ナッシュビル』では南部のカントリー&ウエスタンと政治の癒着を、『ビッグ・アメリカン』ではアメリカン・ショウビジネスの源流を暴き、長らく一線から遠のいた時期があるが、『ザ・プレイヤー』ではハリウッドを通じた資本主義社会の行き着く先の精神的退廃を暴いて復帰を果たした。ゆえに「反アメリカ的作家」として説明されることが多いわけだ。しかしそう短絡してしまうと乱暴に過ぎる。アルトマンはそう単純に括れる人物ではない。お国柄の象徴を取り上げ、検証し、からかい、大いに笑いのめす、その「不遜さ」や「破壊性」は、実は彼の「愛」から生まれたもので、しかもそれが「傷つき、屈折した愛」であるという点を見逃したくないものだ。

だから「見えることを映画にしているだけ」という言葉を、アルトマンの「素直さ」のあらわれと捉えてしまうと「ズレ」てしまうし、あの多面体の屈折が一向に見えてこない(「素直なだけのアルトマン」など面白いだろうか?)。その言葉の裏には「別に見たままを描いただけだが?」というアルトマン的な居直りの態度と現実凝視な眼が光っているであり、だからこそ「はねっかえり」なのだ。

とにかく、「「わぁ、すごく良かった!」と言いながらも、ひと言も語れない映画」を目指し、一般的な意味での「素直な映画」からは程遠い「ひねくれて真っ直ぐな映画」ばかり作り続けて、80年代にはそのはねっかえりが祟って、ついにアメリカ映画業界を干され、フランスへ渡り、暗黒時代を過ごすこととなったが、何故ペキンパーと違って復帰することができたのか? 
反骨のアーティスト・アルトマンの最大の美徳たる「人の悪さ」を支えた最大の武器は自らをも笑いとばせる「ユーモア精神」。そしていまひとつの美徳が、キャサリン夫人や仲間たちがよく知るところの「家族主義」と「大いなる包容力」だったのである。

 

後者を強調して幸福感を横溢させるロン・マン監督作『ロバート・アルトマン ハリウッドにもっとも愛され、憎まれた男』は、いささか「幸福過ぎる」作品であり、楽しく、それゆえ簡単に「分かった気にさせてしまう」作品であるが、アルトマンはそう「分かりやすい人物」であるはずもないわけで、当たり前のことだがドキュメンタリーもまた真実のすべてではなく、多面体の一面、事実の一断片に過ぎないのである。

ロン・マン監督はここで、「反骨のアウトロー・アルトマン」という、これまで語られてきたステレオタイプの「伝説」に別の光を当てて解体し、誰もが理解し、愛することのできる「実像」を描き出して、あらためて「伝説化」する。では、脱神話・脱伝説の権化たるはねっ帰りアルトマンは、自らが「偶像視」され、その人生が「伝説化」していくことをどのように思うのだろうか。

60年代の偶像破壊者だったジャン=リュック・ゴダールは「ローリングストーン」誌から「あなたも、一種の、伝説になったのじゃないでしょうか」と問われ、「ほとんどの人が、ぼくのことを、ただ名前だけ知っていたり、本なんかを通じて知っているだけではないかのかな。だから、伝説、なんて見方も出て来るのだ。ぼくやトリュフォーみたいな監督は、伝説と戦うところから始めなきゃならない」と答えたことがある。そして取材者の「たいての人が、伝説になりたがるんですが」との問いに、「それはこっけいだよ。ぼくはいまだに、そいつと戦いたい。これがたぶん、他の映画作家とぼくとの違いだろう。伝説であるよりは、それと戦う方が楽しいよ。ぼくの伝説は、伝説と戦う人物、という伝説だ!」と返答した。

アルトマンならどう答えるだろう。先にも書いた記者デヴィッド・プレスキンが、アルトマンへのインタビューのなかで「では気味悪いことをやりましょう――あなたの墓碑名を書いてください。ボブ・アルトマンにふさわしい倒錯でしょう。あなたの功績は?」と尋ねるくだりがある。アルトマンの返答はこうだ。
「わからないな。なんと書かれても満足できないだろう。必ずまちがってるよ。何を言われるにしても間違っている。だけど、まあかまわんよ。たいして気にもならないし、なんにしても、たいした違いはないだろう。みんな過ぎ去ること、何ひとつとどめてはおけない」。また、「あなたはもっとも拍手を受けるものこそが真実だと思いますか?」との問いには、「いや、思わない。真実だとは思うが――だけど真実の一面に過ぎない」と返答している。

本作の後半に登場する感動的なアルトマンのアカデミー名誉賞受賞スピーチ。満場の拍手に包まれ、ついにアルトマンが「殿堂入り」を果たした瞬間――というより、これはかの反逆者が「ハリウッド伝説」の一部となることを受け入れた瞬間だった。ある種の和解が成立したわけで、素直に感動して構わないのだが、それと同時に、僕はアルトマンがかつて語ったとある発言を思い出してしまう。アルトマンは自作『ビッグ・アメリカン』で西部の英雄バッファロー・ビルの「伝説」をコテンパンに破壊したことがある。が、そんな自らをバッファロー・ビルになぞらえて次のように語っていた。
「わたしはバッファロー・ビルに似ているからだ。そしてバントラインはバッファロー・ビルを発明したんだ。だが彼はバッファロー・ビルを批判する。(筆者註:バッファーロー・ビルはバントラインのもとを離れ)出かけてったくせに、自分が何を追っているのかわからなかったからだ」「彼はたいていの悲しいキャラクターに似ている。バッファロー・ビルはとても特別だ。とても特別なんだ。わがバッファロー・ビル」
謎めいた言葉を受けてプレスキンはさらに問う。
「なぜバッファロー・ビルは悲しく、なぜあなたは悲しいのですか? これが最後の質問です」
アルトマンは続ける。
「彼は哀れな、彼は悲しい人間だ、なぜなら彼は……彼はある種……彼は作りあげられた人間で、自分の伝説を信じはじめる。真実じゃないってわかってるのに。だからそのあとは、その真実を逃してしなったから、彼はますます悪くなっていく。彼はある種悲しいキャラクターだ。だけど、それは自分で伝説に荷担するからなんだ――インタビューに答えて。そのあいだずっと、真実は知っているのに」


アルトマンは屈折している。深いところで屈折してしまった人間だけが持つ愛想の良さがある。これに比して、ロン・マンのドキュメンタリー映画は屈託がなく、率先して新たな「伝説化」の作業に荷担していると言っていい。アルトマンの「温かなプライベート」を提示することで「一匹狼」のペルソナを引き剥がし、新たなペルソナを貼り付け、「伝説化」に勤しんでいる。アルトマン的には「それは真実だとは思うが――だけど真実の一面に過ぎない」のだが、もっとも、本作はあくまで「アルトマンの死後、ロン・マン監督とアルトマンの妻キャサリンによって」作られたオマージュで、つまり彼らの手になる「アルトマンの墓碑銘」のようなものだ。
同時に、アルトマン自身がその人生のなかで歩んできた道筋、残した作品、発言、妻や友人や世間との付き合いのなかで見せたちょっとした態度にいたるすべてが「痕跡」となって――彼の肉体が消滅したいまも――「伝説に荷担」しているのだ、と見ることもできるわけで、「伝説にたる人生」「伝説にたる仕事」とはそういうものなのかもしれない。

とにかく忘れてはならないのは、本作は「アルトマンの活動と人生」を追うドキュメンタリー映画で、「アルトマンの芸術」(エンターテインメントでも構わない)やその世界観を検証すべく作られてはいないということだ。人は何故芸術をつくりたがるのだろうか。アルトマンは映画づくりにこだわり、その人生の大半をアーティストとして貫いた。自らの五感がとらえるあらゆる感情を表現したいと欲し、その為の闘いにあけくれ、躊躇することのなかった戦士は、しかし――戦士ゆえに――そう簡単に自らの正体をつかませることがなかった。ドキュメンタリーが示すあの大らかで魅力的な人物が、奥底に抱えていただろう屈折の核心=真実に迫る作業は、まだこれからなのだろう。

とにかく、あきらめかけていた本作の日本公開が実現し、時ならぬ注目を集めてることが、多少のこそばゆさとともに嬉しい。少なくとも僕にとっては、本作は「思いがけないプレゼント」だったのである。(渡部幻)