ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

山岸凉子と萩尾望都の変化について 1

2019-03-11 07:19:30 | マンガ


昨日、数えきれないほどの再びなのですが山岸凉子「テレプシコーラ」読み返していました。何度読んでもまた読みたくなってしまうのはどういうことなのか、と思ってしまいます。しかもかなり辛い話であるのにも関わらず。

それでちょっと山岸凉子について書きたくなってしまったのです。「テレプシコーラ」だけではなく山岸凉子全体として。しかも萩尾望都を絡ませながら話そうと思います。



なので山岸凉子&萩尾望都作品全般のネタバレになりますのでご注意を。





前にも書いたと思うのですが一番読み返してしまうマンガ家は萩尾望都と山岸凉子なのですが、「好き」の感情はかなり異なっていると感じます。
萩尾望都は最初から絵も物語もその世界に強く引き付けられたのですが山岸凉子は絵からしてあまり好きになれなかったし内容も面白くはあるけどなにか反感を感じるのです。
ふたりの作家への感覚は今もあまり変わらない気がします。
萩尾望都を読む時は肯定的な気分で読んでいて心が「陽」になっていますし「面白いな」と能動的に楽しんでいます。
山岸凉子を読む時は否定的な気分で読んでいて心が「陰」になっていますし「なんでこんな話描くのかな」と苦しみながら読まねばなりません。
なのにふたりとも自分にとってはなくてならない作家なのです。
かつては明らかに萩尾望都を読む時間が多かったのですが、年を取るごとに山岸凉子の方が多くなってきているのは自分として少々不安な気持ちにもなります。

それにしてもこの偉大な作家二人が共に長い間創作を続けていることに対しても驚き感謝し大変興味がわくところでもあります。
長い間にどう変化してきたかをリアルに感じてこれたからもありますね。(と言っても正直なところ、私はすこしマンガから離れた時期もあるので完全に並走してきたわけではないのですが)

ふたりの作家にはそれぞれ異なる欠点、というより弱点みたいなものがあってそれが両作家の特徴でもありそのものと言ってもいいのですが、その個性も長い間に変化しているのも感じます。

萩尾望都はこれは公言されていますが“親からの強い抑圧とそれに対する反発”というものがほぼすべてと言えるほどに作用しています。
代表作「ポーの一族」でエドガーとメリーベルが「親から切り離され見捨てられてしまった」ことから吸血鬼の一族に拾われたことは萩尾望都が親の愛を信じていないことが感じられます。エドガーたちの本当の母親は肉体として登場もせず父親は二人の子供に特別な感情を見せません。代理の両親となった男爵夫妻たちとも親子の愛情的なエピソードは見いだせないのです。

初期作品を見て行っても子供への心配より恋人の事ばかり考えている母親を突き落としてしまう少年の話、出来の良い姉たちと比べられてしまう妹の話、いつも叱ってばかりの母親と家を出て他の家族を持っている父親の話、などというような作品が続きます。
上手い作家なので同じ話ばかりとは思わせない技巧があるのですね。親との断絶、親がいない、などということを形を変えながら描いているので昔読んでいた頃には「親を嫌っている、親から嫌われている」とは思いませんでした。

中期になっていってもその形態は変わりません。感動的な「アメリカン・パイ」も実の両親は娘の嘆きを救うことはできず娘が家出した先で知り合った男グラン・パに託して帰国するという筋書きは親子の愛が絶対である作家なら描かなかったシナリオでしょう。
「スター・レッド」はとても面白いSFなので読み終わってもしばらく気づかないでいたのですが、主人公のレッド・星(セイ)は火星への強い愛を語っても両親への思いを語ることがありません。火星から追い出され地球へ逃れるという物語の中で小さなセイが母親と逃げている場面があるのですから思い出のシーンなんかで「お母さん」と夢を見るようなカットがあってもよさそうなのですがぴくりとも母親を思い出さない、というのは日本の作品では結構珍しいことのように思えます。
それほど萩尾望都にとって母親が望郷であるというイメージにはならなかった、ということでしょうか。(望都と望郷という文字が意味深です)
例を挙げていことしたらたぶんすべての作品になってしまうように思えます。
「メッシュ」もしかりですね。
そしてその気持ちが最も露骨に表現されたのが「イグアナの娘」でしょう。
外国ものやSFが多い萩尾望都作品で現代日本を舞台にリアルに描かれた作品でドラマ化もされた印象深いものです。
が、最も露骨でありながらコメディとしたところが萩尾望都の技術の高さなのですね。そしてこの作品で親への確執を明確に描いたことはやはり彼女の作品に大きく影響していったと思われます。

技巧的に自分の“コンプレックス”を創作していった萩尾望都と対照的に山岸凉子の"コンプレックス"は常に露悪的に描かれてきたと言えます。
私が山岸作品を快く好きと言えず恐ろしさを感じてきたのはそこにあるわけなのですがこうまでも自分のコンプレックスを見つめ考え写し取るように表現してきた山岸凉子という作家には萩尾望都にない生の凄みがありそこに次第に惹かれていったのです。

山岸凉子のコンプレックス、苦悩は性差にあると思います。萩尾望都と違ってここは彼女から明文したものを読んだことはないのですが彼女の作品は常に「理想的な男性と劣等感に怯える女性」の対立で描かれてきました。
代表作「アラベスク」ではバレエ学校の学生であるノンナは教師であるユーリ・ミロノフに絶対的な尊敬と共に異性としての恋慕を併せ持っています。そしてその「ミロノフ先生」の愛情が別の誰かに移ることをいつも恐れ不安であることが描かれます。
山岸凉子の作品はこの後ずっと同じ話の繰り返しなのですね。
山岸作品の理想的男性は繰り返しユーリ・ミロノフの焼き直しであり、ヒロインはノンナの焼き直しなのです。
その理想的男性とは背が高く尊大で完璧な美貌で優秀な頭脳を備えている、というようなあまりにも極端に美化された男性像なのです。私としてはこのような男性に逆にあまり魅力を感じないのですが山岸作品のヒロインは必ずこういう尊大な男性を理想としています。
ヒロインは逆に気弱で思い悩むタイプであり外見は多くの場合は綺麗な容姿なのですが自信を持っていない、という表現となります。(日本の)女性の読者としてこのキャラクターは共感しやすいものだとは思えますが時としてあまりの気弱さに苛立ちもします。
そして男性への性差に対する不満・不安・疑惑・恐怖が繰り返し語られていきます。
どうして男性は女性に若さと美しさばかりを求めるのか。どうして女性は男性の要求に振り回されなければならないのか。どうして女性は性というものをいつも意識していなければならないのか。
山岸作品の女性たちが常に理想の男性として「背が高く」(なぜか絶対的に背が高くないといけない)イケメンで優秀な頭脳と体を持ちヒロインに重要な助言をする、という高い要求をしているのにもかかわらず女性に対して男性が若さと美しさを求めることに極端な嫌悪を感じています。
この矛盾は男性の作家にもよくあることではありますが(女性キャラは極端に胸が大きいロリであり、男性キャラは情けないタイプとして描かれる、など)山岸凉子という優れた作家がここまでその苦悩から逃れられないということにはやはり興味を持ってしまうのです。
萩尾望都の作品にこうした男性への劣等感はほとんど感じませんし、萩尾作品にはいつも背の低い太ったイケメンでない男性が美女と結婚したり活躍したりしているので萩尾氏はかなりこういう太めタイプが好きと思えますよね。顔の良い男はあまり何もできないと描かれたりしていてバランスが取れています。

山岸凉子は親に対してのコンプレックスも強いのでここは萩尾氏と対照的とは言えませんでした。

さてこういう風に両作家の中期まではそれぞれの強いコンプレックスがそれぞれの作品に強い影響をしていて個性のある作品を産み出させていきます。

時間が来てしまったのでこの続きはまた後で書くことにします。山岸凉子・萩尾望都の後期の変化はどのようになっていくでしょうか。



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6 コメント

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キーロフ体験 (biruconti)
2021-01-05 16:37:34
初めまして。
萩尾望都vs山岸涼子という両巨匠の作品の間で揺れ続けた読者の一人です。
ガエルさんの鋭い眼力に敬服するばかりです。

山岸作品にあるとてつもない女性美コンプレックス、自分も持っています。で、その出所を考えるとキーロフ・バレエ鑑賞体験なのですね。バレエという美のカノンを追求する世界で、そのカノン通りの美女たちが群れをなす世界。圧倒されて中毒になるのと同時に、あまりに違う自分は劣等感にもさいなまれるという体験です。
『アラベスク』にはイリナ・コルパコワという実在の、カノンそのままのプリマが登場するので、山岸涼子という人も歪んだキーロフ愛に悩まされていたのでは?と、思っていたのですが…
ガエルさんのご意見を伺いたく、コメントしました。ヨロシクお願いします。
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>ビルコンティさんへ (ガエル)
2021-01-05 20:49:20
初めまして。コメントありがとうございます。
ご質問にお答えしたいのですが悲しいことに私はキーロフバレエというよりバレエに対してほとんど知識がなく山岸氏がキーロフバレエについてどう思っているのかまったくわからないのです。お答えできず申し訳ありません。
そして反論になってしまうかもですが山岸氏のコンプレックスは美女たちに対してよりも(理想の)男性から愛されない怖れに対するもの、理想の男性はどうせ若い美女が好きだから、という意味のコンプレックスだと思っています。
それは女性なら誰でも考えしまうことには違いないのですが山岸氏はその心理を赤裸々に描いていることにいつも驚かされるのです。
ところでビルコンティさんのブログ、のぞかせていただきました。『キリング・ストーキング』というマンガを初めて知って少しだけ読んだところです。
教えていただいてありがとうございます。(私は答えきれなかったのにすみません)
他にも私のブログか?と思うように共通する記事があって驚きました。
なお、私は今は別のブログに引っ越ししています。左上のほうに「はてなブログ」にリンクしておりますのでもしよければ覗いてみてください。
ほんとうに訪問していただいてありがとうございました。
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ガエルさんへ (ビルコンティ)
2021-01-10 10:57:39
妙なこと聞いて申し訳ありません。

確かに読み方が偏っていたかと思います。『アラベスク』を読みながら、私はバレエのことしか考えていなかったのですね。
真のバレエの抒情性とか、「ラ・シルフィード」の解釈は、実は「レ・シルフィード」にこそ当てはまるのではないかとか。真に自立したバレリーナが現れたらどうなるのか?とか。ロマンスのことは考えてる余裕がませんでした。
はてなの方、よませていただきます。
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>ビルコンティさんへ (ガエル)
2021-01-10 20:21:53
妙な事などとんでもないです。
ビルコンティさんのようにバレエを深く考えることができるのは羨ましい限りです。
はてなのほうではビルコンティさんのブログで知った『キリング・ストーキング』について今書いているところです。ありがとうございます。感謝しきれません。
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Unknown (なる)
2021-01-24 20:31:37
私は知的ではないので
今まで分析した事なかったんです。

でも、気づくと
本棚は萩尾望都さん山岸凉子さん
満載です。

ちょっと考えてみます。😅
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>なるさんへ (ガエル)
2021-01-26 06:38:23
コメントありがとうございます。
萩尾望都、山岸凉子満載というだけで知的ですよ!
両方凄い作家ですが、方向性としては真逆ですよね。その二人を読んでいるというだけで多面性があると思います!
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