ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

NHK朝ドラに観る女性たち

2019-03-31 07:12:25 | 女性

NHK朝ドラについて書こうかな、と思っていたらちょうど「朝ドラ100」という番組があってたようなのだけどそれは観ていないし、正直言うと朝ドラを語るほど観てはいないのにちょっと思ったこと書きたくて書きます。

 

長い間生きていますが朝ドラと言われるドラマはほとんど観ていません。といっても日本のテレビドラマ自体をほとんど観ていないので当然と言えば当然かもしれないし、夜ドラマを観ていないことを思うと朝ドラのほうがまだしも観ているのかもしれません。

 

自分が一番楽しみにして観た朝ドラは「ゲゲゲの女房」で、これはもう水木しげるが好きだから観ていたということですね。

ところで朝ドラというのはなんとなく女性のためのドラマ、という意味合いなのかと思っていたのですが名称は「連続テレビ小説」であり概要に「作品内容は、主人公の半生・生涯を中心に、それをとりまく家族や家庭を描いたホームドラマの体裁がほとんどであり、主人公は女性(ヒロイン)であることが多い。 」と書かれているので女性を描くという決まりごとがあるわけではないですね。男性主人公の場合もあるわけですし。

それでもヒロインが多い、というよりはほぼヒロインであるのでどうしてもヒロインのドラマ枠、と思ってしまいます。

そして「ホームドラマの体裁がほとんど」とされていても特定の人物それも特別な職業のモデルであることが多いため社会進出した女性を描くドラマ、というイメージもあります。

例えば最も有名で最高視聴率だった「おしん」はスーパーマーケットの経営者でありますし(すみません。この人気ドラマをまったく観ていないのでwiki参照しました)「べっぴんさん」は子供服メーカーの創業者となったヒロインでした。(これはずっと観ていました珍しく)

なのでどうしても私としては元々の朝ドラの意義が「ホームドラマ」であってもそこに描かれるヒロインの生きざまにそれを製作した人たちの女性への視線や価値観を感じてしまうわけです。

 

最近の朝ドラのほうが観ていることが多いのですがその中で物凄く期待してがっくりした作品が「花子とアン」でした。

児童文学の翻訳家・村岡花子がモデルと聞いて始まる前からとても楽しみにしていたのです。

1900年初頭・大正期に子供たちに良い文学を、と優れた英文学を数多く翻訳した村岡花子を主人公にしたドラマが作られるというのはそうした文学が大好きだった私としては当時の苦労話・秘話などが盛り込まれたドラマを見られると期待大だったのですが出来上がったドラマではそうした児童文学についての話はまったくと言っていいほど語られることはなくどういうわけか大親友として位置づけられた白蓮の物語のほうに後半傾いてしまったのはあっけにとられる思いでした。

海外の文学が取り入れられた児童文学黎明期の志は重要なものではないかと思っています。村岡花子の翻訳はその中でも屈指のものですし翻訳そのものの苦労も多くあったのではないかと思って期待したのです。

女学生時代の話はなかなか面白くはあったのですが肝心の翻訳家時期になるとなぜか物語は白蓮の悲恋もののほうへ行ってしまって途中からは「花子とアン」ではなく「白蓮と少し花子、アンは無し」になってしまいました。

確かに花子の翻訳話よりも白蓮の物語のほうが華やかであるのかもしれませんがそれなら最初からそちらでやればよかったのです。翻訳の先駆者である村岡花子がどのように「赤毛のアン」や他の児童文学を翻訳していくか、周囲の人々がそれをどう励まし援助していくかを観たかったというか観れるはずと思っていた私は茫然となるばかりでした。

せめて最初から「白蓮とその友達の花子も少し」というタイトルにするべきでした。村岡花子への冒涜であるとすら思います。

 

最初に書いたことの繰り返しですが朝ドラを語れるほど観てはいません。が、漏れ観る感じで女性の仕事、が題材になる時、その仕事への配分が少なくドラマを見る気が薄れることが多いのです。

例えば今回の「まんぷく」のヒロインは安藤さくらさんが演じていてとても面白いのですが仕事をしているのはあくまでも夫である萬平さんということになっています。

インスタントラーメンを開発していく萬平さんの話は結構その苦労話が綿密に描かれて

楽しいのですが、楽しいと思うほど「じゃあなぜ花子さんの翻訳はこれほど綿密に描かれなかったのか?」となってしまうのです。

 

いや「これとそれは脚本家も違うし同じように比較できないだろう」というのは判ってす。「女性が働いてて綿密に描かれていた話もいくつもあるだろう」というのも判ってるのですが、どうしても男性が働く立場であるほうが「仕事内容が面白く描かれているがしてしまうのが残念なのです。

思えばかつて最初に面白く朝ドラを観たのが「ロマンス」という1984年のもので男性が主人公でした。

ゲゲゲの女房」は大好きで面白かったですがやはり水木しげる先生がマンガを描いていることがメインです。

まんぷく」もずっと観たのですが萬平さんが発明していくのを内助の功する話。

その中「べっぴんさん」だけがかなり自分としてはこうであって欲しいドラマに近かった気がしています。ただし最後辺りが冗長過ぎてしまった感がありました。

 

女性を主人公にして仕事を題材にした物語は現実にドラマ化してほしいものがたくさんあるのになかなかそうしたものが取り上げられることはないようです。朝ドラには向かない、などの理由ではあるでしょうから夜ドラマでもいいのですが、ヒロインものというのはどうしてもまだ偏りがちに思えます。

 

次回の朝ドラは「なつぞら

アニメ業界に入るヒロインの物語と聞いてまたまた期待しています。

これは本格的アニメ話となるのでしょうか。

アニメ業界ヒロイン物はアニメで「SHIROBAKO」がありますからどうしたって比較してしまいそうです。

朝ドラは別にヒロインの職業ドラマではないのかもしれませんが私はそこにどれくらい力を入れてくるかで製作者の思いを感じざるを得ないのです。

お願いだから「花子とアン」の二の舞はやめてくださいね。

 

活躍する人の奥さん、というのが悪いわけじゃありません。

でももうかなりそれは作られました。

朝ドラで女性運動家・政治家の話はいつあるのでしょうか。

市川房江さんなど女性参政権に活躍した女性の物語、朝ドラではなくてもいいけど、そろそろ作られてもいいのではないでしょうか。

 

もしあるのだったら(日本作品で)教えて欲しいです。

今ちょっと検索しても外国作品ばかりしか見つけきれませんでした。


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あの子の虚言です

2019-03-30 06:36:58 | 思うこと

12歳長女への強姦で無罪、静岡 地裁「被害者の証言信用できず」

いったいどういうことなのでしょうか。

たったこれだけの報道ではいろいろな感想を持つ人がいるでしょう。

でもさすがにこの件に関してのコメントは少女に同情する人がほとんどです。

「たとえこれが本当に少女の虚偽証言だったとしても12歳の子供が実の父親からレイプされ続けていた、と証言せざるを得ないほどの何かがあったと考えるべきではないのか」

その通りだと思います。

「もし虚偽でなく真実だったら少女を父親のもとへ戻したらどんな酷いことになるのか」

つい先日、というより今進行形で父親から虐待を受け続けていた少女を父親のもとへ戻したことが糾弾されていますが、また同じことをしようとしているのでしょうか。

日本という国は以前から性犯罪に甘いと言われ続けそしてまったく改善してはいかない。

どんな性犯罪を犯してもなんとかして無罪にしてしまうのではないのかと思ってしまいます。

この最近でも数人の警察官からレイプされたという事件が同意があったとされ無罪となり、泥酔した女性がレイプされ抵抗しなかったから同意があったとみなされ無罪となっています。同意ということが理由になるわけです。集団レイプや泥酔でどんな同意があるというのか教えて欲しいものです。

 

12歳の場合は同意があっても犯罪ですからこの場合は嘘をついた、という理由をつけたわけですね。

 

悲しくて怖ろしくてどうしようもありません。

 

このニュースを読んでから山岸凉子緘黙の底」という作品を思い出しました。

小学校の保健の女性先生を視点にして5年生(11歳くらい)の女子生徒が実の父親にレイプされ続けているのだけど、そのことを話せないでいる、という内容です。

タイトルの「緘黙」は「口を閉じてしゃべらないこと」という意味ですね。

この話では女の子は父親と二人暮らしであり、「レイプされ続けている」ことを人に話せない、という物語になっているのは今回のニュースとは違いますが、注目したいのは女の子がやっと保健の先生を通じて事実を伝えた時の男性教師のセリフです。

 

「あの子の・・・虚言です。同情を引こうとの・・・」

 

嘘をついた、とされるわけです。

 

「あの年齢が持つ性への憧れからくる妄想ですよ。何かちょっと崩れたカンジのする子だった たしかに」

 

しかし作品では保健の先生がこれを否定します。

 

「やめてください!妄想でこんなこと言えません。実の父親に犯されたなど口が裂けても言えないことなんです」

男性教師「父親はハッキリ否定しています」

保健先生「当たり前です。そんなこと認める父親はいません」

 

「だからその欲望・・・だけど ふつう我が子に感じますか?」

と否定する二人の男性教師に保健先生は言います。

「彼等は自分と同等もしくは上の人間には欲望を感じません。我が子であるというより前に“あきらかな弱者”ゆえ安心して欲望するのです」

「自己の無力感をはらすためにさらに無力な子供をねじ伏せるのです」

「“親の愛”という名目で最も手近で無防備な我が子を・・・犯す!」

「その時その子供は魂を殺害されるのです」

 

事実が判らないのに無理に重ねていると思われる人もいるかもしれませんが、男性教師

の「あの子の虚言です」という決めつけが記憶されていました。

嘘をついた。では何のために?

この作品では「実の父親に犯されたなど口が裂けても言えない」とされていることを現実の女子が話したのは何故だったのか。

 

子供には自分を守る術がなにもないのです。

おとなが守ってあげなければどうしようもないのです。

 

私たちはどうすればいいのでしょうか。

 


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パリ・オペラ座バレエ団 4つの小品~フロロン~

2019-03-29 06:07:36 | 芸術

Lumière sur : Les coulisses de Frôlons de James Thierrée

 

FROLONS 振付:ジェームス・ティエレ 声:シャーロット・ランプリング ダンサー:アマンディーヌ・アルビッソン/ヴァランティーヌ・コラサンテ/エブ・グリンツテイン

wowowライブで鑑賞しました。(声は吹替でした)

パリ・オペラ座バレエ団「4つの小品」の一番目の作品「フロロン」振付はジェームス・ティエレ。チャーリー・チャップリンの孫で映画『ショコラ~君がいて、僕がいる~』などに出演した俳優でもある彼がパリ・オペラ座で繰り広げた体験型演劇、とのことです。

パリオペラ座公演会場のひとつであるガルニエ宮はそれだけでも美しさであります官能的で魅惑的な美しさでありますでが、そのガルニエ宮そのものを舞台としてバレエダンサーたちが際立った身体能力での運動はこの世のものではないような怖ろしささえ感じる不思議さに満ちています。

退廃美の衣装をまとったダンサーたちが人間ではない別の生物となってガルニエ宮を這いずり回る異世界を体験する観客たち。

「鉄則は歩き回ることです」と劇場の係員が叫ぶのに誰も聞きはしない。皆茫然立ちすくんでダンサーたち、というより不思議な生物たちに見惚れている。そしてなぜか皆奇妙な微笑みを浮かべているのです。恐怖から、でしょうか。

 

こんな異常な映像を見たことはない気がします。この場にいたら一体どんな気持ちになるのでしょう。

そういえばフランスでは人力で動く巨大なカラクリ人形の行進、というのもありましたね。あれを初めて(テレビでですが)観た時の感動に似ている気がします。

「フロロン」というのは「ぎりぎりで通ろう」という意味だそう。

始め静かに歩いているだけで驚きますが、そんなのは序の口です。説明する男の肩の上に乗っている奇妙な生物ダンサー。謎めいた怪物、階段を上り下りする虫のようなものたち。光る球を持ち、或いは背中にしょって、或いは手渡しをする。

多くの光球を頭に載せた歌姫に群がる生物たち。雅楽の音によって導かれ踊りは終わる。

 まさに悪夢を見ているかのよう。素晴らしい踊りでした。

 

 


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ブログ引っ越します

2019-03-28 20:24:26 | 日記

ほぼ毎日ここでブログ記事書いてきて、おかげさまで多くの方に読んでいただけていることを感謝しておりましたが、先日ここのブログが一新して自分としては妙に使い心地が悪くなってしまいました。

もしかしたら毎回読んでくださっている方もおられるかもしれないのに申し訳ないのですが「はてな」に移ります。書く内容はこれまでと変わらないと思いますので、もし読んでいただけるならと思いここにリンクさせていただきます。

 

新ブログ

 

もしよろしければこれからも「ガエル記」をどうぞよろしくお願いします。


闇金ウシジマくん ザ・ファイナル

2019-03-27 05:33:39 | 映画


原作マンガもドラマもこれ以前の映画も見ずにいきなりのザ・ファイナル鑑賞なのだけど理由は「平成史」で佐藤優氏が「この映画で原発の清掃の話が出てくる。金になるが2年で身体がぼろぼろになる」というのを読んで見たくなったのでした。

以下ネタバレです。(上もネタバレかもだけど)




上の文章の答えを言うと、実は「原発で清掃」(メルトダウンした原発、福島原発ってことですよね)というのは借金を抱えたウシジマくんの友人が最後そこへ行かされる、というとこで終わっていて実際そこで働く場面はなかったのでした。少しがっかりですが映画自体は予想を超えた面白さで驚きました。
というより全然面白いとかを期待してなかったし、こんなに感動して涙さえこみ上げるような映画だとは微塵も考えていなかったのでした。
他の方のレビューを見ると「今までで一番つまらない」という感想が結構多いようなんですね。前のをチラリとも見ていないのでその点については何も言えないのですがたぶん以前の作品はウシジマくんの闇金業者らしい徹底した冷酷な活躍が楽しかったのに本作はかなり抒情的な雰囲気になって求めていたものがなかった、ということなのでしょうか。
そう思ってしまうようなセンチメンタルな男たちの青春映画、という趣がある作品でした。
あまりに面白かったので機会があれば1から見ていきたいと思います。
「平成史」を読んでからタイミングよくwowowで放送していたので録画して見たのでした。ほんと偶然なタイミング。

且つ、闇金映画、という想像するだにエログロ満載の下劣な代物だろうと思っていたら他にないほど上品な演出だったのでそこも驚きでした。おぞましいグロテスク暴力のインパクトシーンは外されているし女性が裸になる場面も下着姿だったり胸を隠すなどの配慮がなされているしウシジマくんは人望の厚い優しい男だし、義理人情が満載だったりします。
周囲の人間たちから強く信頼され愛されているウシジマですが、本作でグッとくるのは当然ですが中学時代の友人竹本との友情です。
この竹本という男、まじで不思議な存在です。皆が「ウシジマ」「社長」と呼ぶ中でひとり「かおるちゃん」という呼び方をする。キリスト教系の映画であればキリストのイメージだとかの意味付けがあるかもしれないけど、そんな風にも思えない。むしろお釈迦様のようですらあります。
彼を主人公にしても良いくらいの人間性を持っているのですが、今現在の風潮としてはこの人間性は逆に白々しくなってしまうのかもしれない。「闇金」という物語の中のひとつのキャラクターとして置かれるのが適切な人間性なのかもしれません。

ですから奇妙ですが表舞台にいる「闇金」という闇の存在の裏返しとして人を救う竹本という光明のキャラが存在する。表が闇で裏に光があるというカラクリで物語が成り立っている。
しかも闇がこの世を生き抜いていくのに光は地獄へ落ちようとしている。
そんな現世を描いているかのように思えます。

何も知らずに言いますがこの映画監督はこのファイナルこそが作りたかったものなのではないかと考えてしまったりします。以前の映画を観ずに言いますが。

「おまえのしていることは砂漠に水を撒くくらい無駄なことだ」
「甲本っちが僕を見捨てずにかばってくれた。それでじゅうぶんだよ」

結局、真の勇者は竹本なのです。
ウシジマはそれを理解しています。
私はそう思いました。


ウシジマの中学時代を演じた狩野見恭兵が魅力的でした。
ウシジマの山田孝之は特に好きな役者ではありませんが、本作はとても良かったと思います。

ところで本作を観るきっかけとなった「平成史」の佐藤氏の発言ですが、今日になってネット検索したらその仕事は漫画掲載時はまだ震災が起きてないのであり得ないという説が。
そして原発より死体洗いのほうがあり得るという説で「あららら」でした。
まあそれでも思いがけず良い映画が観られてよかったです。
それでもなければたぶんこのジャンル観なかったと思うので。
とはいえ、マンガはそうかもしれませんが映画制作時点では原発清掃のイメージはあったかも、とは思います。

とにかく竹本が気になる存在でした。