ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「大人の道徳」齋藤孝

2019-06-16 19:55:20 | 思うこと

著者について何も知らず何気なく手に取って読み始めたのですが、こんなことを書いているなんて、と思える箇所が幾つもある一冊でした。

後で検索してみると著書も多く書かれていて幾つかの受賞もされているしテレビで顔を見たこともある人物なのですね。レビューを見ても「普通の道徳観」という評価から「中高年にとって大変ためになる」というような絶賛までありますが「ひどい内容」とまでは書かれていません。

確かに細かな項目が多々に渡って書かれていてその多くは特に反論するほどもない内容ですが逆に凄く感銘を受けることはないうえに「これは現在書かれた文章なのか」とがっくりくる部分もいくつもあるのですね。

今回はそこを書いてみたいと思います。

 

まずは第一章「今までの価値観が通用しない時代」1大人たちの非道徳的な振る舞い、の中の“パワハラ、セクハラがいけないのはわかるけど・・・”です。

もう項目からしてむっとなってしまうものですが、中身は全部取り出さねばならないものになります。

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飲み会では軽口をたたきあったりするもの、というのは良いのですがそれが「絶対に触れられたくないところに触れられた」「傷ついてトラウマになった」と言われてしまうほどのもの、というのはどういうことなのか。

危なくて恋愛の話はできません、そうなるとそもそも「飲みに行く」ということを何のためにするのか、判らなくなってくる、という文章に驚いてしまいました。

「何のために一緒に酒を飲むのか」といったまるで哲学のような問いをあらためて考えねばならない時代になったのです、というのなら本気で考えていいのではないでしょうか。

ここでいうセクハラとは書かれていないけど女子学生との飲み会ということなのでしょうが、女子学生に恋愛の話だけをするのが目的、というのはどういうことなのか、恋愛の話以外なら「何のためなのか判らない」というのはどういうことなのか、私には不思議です。

例えば小説でも映画でもマンガでも趣味についてでもスポーツや花や星や科学やオカルトについてでも楽しい話題は山のようにあるのではないでしょうか。

「恋愛の話ができない」=「何のための飲み会か判らない」というこの著者の考え方は謎すぎます。

そして「で、どうなの?みんな彼氏とかいるの?」くらいの会話は問題ないように思えます。」と書かれていますが問題ありますよ。

何故女子学生が(ここ男性じゃないですよね)教師に彼氏がいるかどうか答えなければならないのでしょうか。それを聞くことを問題がない、と考えていること自体がすでにおかしい。

セクハラがなくならないわけです。こうした「知識人」として有名な方でも初歩からして間違っているのですから。

そしてそうならないために(セクハラしないために)まずルールをきちんと知っておかなければなりません、と書く。

ルール、ではなくこの方「道徳」を知るべきなのですね。

って、その人が「大人の道徳」という本を書いている・・・女性への軽口には道徳は必要なし、と思っておられるのでしょうか。

レビューでここを批判することがなかったのも残念でもあります。

 

皆さんに伝えたかったのは以上なのですが続く「源氏物語」と「ロリータ」はわたしとして非常に不満で書いてみます。

実を言うとパラ読みした時、ここが目に入り「お、『ロリータ』について書いてる」と思って読み始めたのですがとんでもない勘違いの文章だったのでこちらもがっくりしたのです。

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まずナボコフの「ロリータ」はロリコン男ハンバートが少女を拉致していった様を一人称で書いた、という構成からなる小説なのでその文章そのものが「からくり」かもしれない、というギミックを前提として成立するものです。その男がしれっと「源氏物語」の紫の上を引き合いに出すのを日本の大学教授が大喜びしているのも奇妙なことです。確かにナボコフが我が国の古典も知っていたというのは誇れることかもしれませんがナボコフであればハンバートのようなクズが紫の上を引き合いに出して悦に入ってる滑稽さを描きだしている、と表現するべき事柄でしょう。齋藤氏がそこを自覚しながら書いているのか、この文章では勘違いで書いているとしか思えません。

「源氏物語」の時代でしかも貴族社会であれば紫の上を妻にするのはそこまで不道徳でなかったでしょうし、中年男といっても二人の年齢差は10歳ほどなので紫の上が12歳で源氏が22歳ほどとすれば中年男と言うには若すぎるようです。現在の感覚でおかしいのは確かですが。

しかも中年になった源氏は再び少女の妻を得るはめになるのですがこの時はもう興味がわかない、という人格になっているので単なる女好きだっただけで特別にロリコンだったわけではないでしょう。どちらかというと年上の女性との恋愛がけっこう多いですしね。

一方のハンバートは筋金入りのロリコンで拉致したロリータとの間に娘が生まれて10歳くらいになったらまた同じように弄び、そのまた娘ともやれる、と願望を述べています。源氏とハンバートを同列に語ってはいけません。

とは言え私は文学としての「ロリータ」は何度も読み返すほど大好きなのです。

ここまでギミックに凝った小説は無い、と思っています。ナボコフ「ロリータ」の面白さは膨大な知識と策略です。反道徳もその一部なのです。

「源氏物語」を知っていた、やってはいけないことをやってしまう、程度の文学ではないのですよ。


ちいさな親切

2019-06-15 14:38:32 | 思うこと

倫理、ということについて考えていきたい、と思ったので身近で感じたことから書いてみようかと思います。

人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道と書かれています。簡単に言えば、人の交わりの中でのなすべきこと、と言うのでしょうか。

そういうと子供の頃からの大問題だった「バスや電車の中でお年寄りに席を譲る」という項目が思い出されます。

内気で話下手な日本人が一番苦手とする課題なのかもしれませんが、この問題、子供時代には気持ちはあっても勇気が出ない、ということでかなりハードルの高いことでもあり「思いやりを持つ人間になる」第一歩であり重大な試験でもあったように思えます。私自身といえばなかなか電車・バスに乗らないし乗ったら乗ったでそういう機会も少なくしかしその機会に巡り合ってもやはりやれたかどうか、記憶がありません。

(今現在は昔以上に公共の乗り物に乗らないので何とも言えませんが勇気だけはあると思っています。ただし逆に譲られそうな年齢になってきました)

今も子供たちにとっては問題であってほしいと願っていますが、ツイッターなどを見ていると席を譲るどころか妊婦さんや車いすの方に対し、「迷惑」「時間を考えろ」「別の乗り物にしろ」などと言う或いは言われたという言葉が並んでいます。

子供時代にあれほど思い悩んだ倫理学はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。

先日ケント・ギルバート氏の本を読んでいたら「日本人は素晴らしい。買い物の時、一万円を出すときに「すみません、大きいのしかなくて」と謝る。こんな心遣いをするのは世界中で日本人だけだ」と書かれていました。どういうわけか、他でもネトウヨ系の方はこの「大きいのしかなくて」と謝る日本人を物凄く誇りに思っているようなのですが、こういう気づかいは果たして特別な美徳なのでしょうか?

私は商売をしているので実体験していますが「一万円しかなくて」と言われることに感激はしません。はっきり言って一番良いのはぴったりの金額が払えるよう小銭を用意してきてくれていることなのは当然です。でも店としてお釣りを用意しているのもまた当然なので一万円を出されるのは当然の行為としか思っていません。

出し方が乱暴でもなければそこに嫌な気持ちを持つわけはないし、正直に言うと余計なセリフが増えるだけでどうでもいいことなのです。

むしろ日本人の美徳として言えるようになりたいのはやっぱり「日本の電車やバスに乗りと皆が席を譲ってくれるし子供が泣いても皆であやしてくれる。凄く良い人ばかりだよ」という賛辞ではないでしょうか。

一万円を出すときに「あー大きいのくずされちゃうな」とか「ここで両替しちゃえ」という気持ちを持つことが皆無だとは言えないし、「すみません」という言葉にそういう下心が見え隠れしてしまうのを隠す意味合いがあることはなんとなく皆思っているでしょう。それはそれで別に構わないのですが。

そんなどうでもいいことより、「妊婦さんやお年寄りや弱者のかたに電車・バスで席を譲る。泣く子供がいても許すだけじゃなくてみんなであやしてあげる」という国のほうが絶対に良いのです。

「一万円すみません」より「この席どうぞ」のほうが良いのです。

 

ましてや「痴漢です。助けて」の声に「電車が遅れる」「冤罪だろ」という声が真っ先に上がる国に倫理があるとは思えません。

 

言うだけでなく実行が大切、と思っていますが私はバス・電車に乗らないのでどうもそっちでは実行が伴いません。せめてものつぐないにスーパーなどに行ったとき困ってるお年寄りがいないか、気にしています。(そのくらいしか外出していないのです)

自動ドアじゃない扉があってとても重いのですよね。後は物を落としたりしている時さっと取ってあげられるか、とか。

でもまあうちの方は田舎のせいなのか、皆さん優しい人が多いように思います。

 

救急車に道を譲る、など当たり前と思っていたらそういうことすら守られていない、と聞き、本当にこの国大丈夫なのかなと思ってしまいます。

こういうの特別なことではなくさっとやれるのがかっこいいことなのです。自慢などしなくても当たり前にさらっとやれるようになりたいのです。


「倫理」のページ

2019-06-14 07:27:45 | 思うこと

ここのところずっとツイッターなどで多くの人の書く文章を読んでいるのですが、様々な考え方に打ちのめされてしまうような気がします。

それらを知ることがなかった昔の頃は一般の人々と言うのはなんとなく緩く良心的なものではないか、つまらないほど平凡なものではないかと思っていたようなのですが、実際の心の中は良きも悪しも多様なものであるのです。

 

良い話も多々あるのですが、やはりどうしても悪い話のほうが気になってしまうわけです。

痴漢を含む性犯罪、いじめを含む虐待・暴行。性差別、人種差別、いずれに属するか、何人なのか、どこ出身か。

どうしても自己を肯定するために他を排斥・侮蔑しようとする心理。

そういったものが渦巻いている世界をのぞき込むのは怖ろしいものです。

 

こうした人の心を読んでいるうちに「倫理」ということばが気になってきました。

遠い昔もう記憶もないのですが倫理社会という科目があった気がします。

勉強したのかどうかすらよく覚えていません。

また小学生の頃は「道徳」という授業がありました。こちらはテレビ放送などで勉強した記憶があります。

昨今はこの道徳の時間がなくなったとか、いや復活させよう、いや個人の自由だとかで話題になったりもしています。

 

いったい私たちはこれをどう勉強していけばいいのでしょうか。

いろいろな報道・人々の考え方を見聞きしていると今の日本という国における倫理や道徳というものは諸外国に比べかなり歪んでいる様にも思えてなりません。

「絶対に正しい」ということはない。

「国からこれが正しいという規範を押し付けられ、それが間違っていることの恐ろしさ」

しかしどうすればいいのかと多くの人と考えながら進むことしかできないのだと思います。

 

高校時代にページをめくったかどうかすら覚えていない「倫理」のページを今からめくってみたいと思うのです。


「平家物語」ー恕ーという大切な気持ちを考えて欲しい

2019-06-09 14:41:45 | 思うこと

先日放送されたNHK「100分de名著」の「平家物語」第4回「死者が語るもの」で、とても面白く興味深いことが語られていました。

有名な熊谷直実が平敦盛を討つ場面です。

直実が討とうとした武将がまだ子供だったことに気づいて我が子が怪我をしたことを思い出し胸を痛める。この子供を殺してしまったらその親はどんなに辛いかと考える。しかし敵を討つ、という忠の心のために敦盛の首を切ってしまう。しかしその後直実は仏門に入って敦盛を弔う。という話です。

 

自ら物語を語った能楽師安田登さんは孔子の儒教をここで説明します。その儒教において最も大切なのは「忠」と「恕」である。

 

「忠」とは一度決めたことはする、と説きます。

そして「恕」は相手と一体化する気持ち、だというのです。

 

そしてこの二つの教えは時には対立してしまう。その時に選ぶべきは「恕」である。

というのですね。

 

ここで直実の行動を現在の人間がどう考えるかということも重要な問題だと思いますが、、私はその前にこの「忠と恕」について驚いてしまいました。

「忠」という言葉が日本人の歴史の中で重要な言葉であるというのは知られていると思います。

それは「忠義心」という言葉にもなり主君に仕える心、やがては自分の勤める会社への忠義心などというように長く使われてきた言葉です。いわば日本人の魂のようにすら言われてきたと言っても過言ではないでしょうし、いわば苦々しくこの言葉を口にする人たちも多いでしょう。

それに比べ「恕」という言葉は実を言うと私はずっと知らなくて最近になってやっと知るようになったほどです。単なる勉強不足と言われればそうですが、それでも「忠」という文字と比較するなら日本においてはまったく使用頻度が少ないのは事実でしょう。

しかも孔子は「忠」よりも「恕」が大切だと言っているのに、です。

 

「忠」の言葉を調べると「いつわりがない、まごころ」と出てくるのですがやはり日本人としては「主君にいつわりなく尽くす」という意味にとらえてしまいます。

 

「恕」に関しては周囲の人に聞いてみればよいと思いますが「なにそれ?」と言われるのがオチではないでしょうか。文字を見ても「怒る」に似ているとすら思いそうです。

意味としては怒るの逆の「許す」なのですが。

「恕」は「如くの心」と読み解くべきで「相手の身になって考える」という事なのですね。

そして孔子の言葉は昔から日本で説かれてきたのに最も大切だという言葉をどこかに置き忘れてきてしまったようです。

次に大切とされる「忠」は曲解して上位者の都合の良いように書き換えられてしまった感があります。

儒教、というと妙に嫌われてしまうところもありますが、一部は都合よく変換して利用し、一部はどういうわけか切り捨ててしまう、それが日本の教育の在り方なのですね。

 

「恕」という正直聞きなれない、見なれない言葉に「相手の身になって考える」という大切な意味があり、それを排除してしまった日本の教育にこの国の本音を見てしまったように思えてなりません。

 

特に昨今の日本社会の様々な犯罪、そしてそれについて語るのを見聞きしていると最も大切なはずの「恕」はどこにも見当たらないように、いやそこまでは言いたくないですね。「恕」の気持ちを持っている人たちは目立たず、そうでない人たちの大声にかき消されてしまっているように思えます。

 

いきなり「恕」と言っても通じることも無いように思えます。

「忠」で苦しんでいる人々は数多くいるようですが。

 

 先日起きた痛ましい事件でも犯人に対し、「自分だけ死ね」という。「そうではなく犯人にも相談出来る場所があればよかった。救えればよかった」という人が現れることが救いではありますがその言葉に対して「よくもそんなことが言えるものだ。自分が殺されても同じことが言えるのか」と返ってくる。

こんな社会ではいけないことに気づいてほしい。

「恕」という言葉がない国でもそうした「思いやり」を持った国はありますね。そういう理想を持って社会を築こうという気持ちがなければ良い社会になるはずはありません。

大昔から「恕」という言葉を勉強してきたはずなのにそれをいまだに理解していない、ということは悲しいことだと思います。

  

さらに安田登さんは語ります。

平家物語の中に「灌頂巻」という部分があってここでは後白河法皇が建礼門院を訪問するのです。

後白河法皇は平家の鎮魂をするつもりであったのがいつしか彼自身が鎮魂されていた、というのです。

翻って現代の人間たちも「平家物語」を読み、聞くことで自分の魂を鎮めることができるのです。

もちろんこれは「平家物語」に限ったわけではなく何らかの物語あるいは映画あるいはマンガやアニメそして音楽などを見聞きすることで鎮魂を感じることがあるのではないでしょうか。

 

「恕」の大切さ、そして「鎮魂」ということを考えながらこの記事を書いてみました。


あの子の虚言です

2019-03-30 06:36:58 | 思うこと

12歳長女への強姦で無罪、静岡 地裁「被害者の証言信用できず」

いったいどういうことなのでしょうか。

たったこれだけの報道ではいろいろな感想を持つ人がいるでしょう。

でもさすがにこの件に関してのコメントは少女に同情する人がほとんどです。

「たとえこれが本当に少女の虚偽証言だったとしても12歳の子供が実の父親からレイプされ続けていた、と証言せざるを得ないほどの何かがあったと考えるべきではないのか」

その通りだと思います。

「もし虚偽でなく真実だったら少女を父親のもとへ戻したらどんな酷いことになるのか」

つい先日、というより今進行形で父親から虐待を受け続けていた少女を父親のもとへ戻したことが糾弾されていますが、また同じことをしようとしているのでしょうか。

日本という国は以前から性犯罪に甘いと言われ続けそしてまったく改善してはいかない。

どんな性犯罪を犯してもなんとかして無罪にしてしまうのではないのかと思ってしまいます。

この最近でも数人の警察官からレイプされたという事件が同意があったとされ無罪となり、泥酔した女性がレイプされ抵抗しなかったから同意があったとみなされ無罪となっています。同意ということが理由になるわけです。集団レイプや泥酔でどんな同意があるというのか教えて欲しいものです。

 

12歳の場合は同意があっても犯罪ですからこの場合は嘘をついた、という理由をつけたわけですね。

 

悲しくて怖ろしくてどうしようもありません。

 

このニュースを読んでから山岸凉子緘黙の底」という作品を思い出しました。

小学校の保健の女性先生を視点にして5年生(11歳くらい)の女子生徒が実の父親にレイプされ続けているのだけど、そのことを話せないでいる、という内容です。

タイトルの「緘黙」は「口を閉じてしゃべらないこと」という意味ですね。

この話では女の子は父親と二人暮らしであり、「レイプされ続けている」ことを人に話せない、という物語になっているのは今回のニュースとは違いますが、注目したいのは女の子がやっと保健の先生を通じて事実を伝えた時の男性教師のセリフです。

 

「あの子の・・・虚言です。同情を引こうとの・・・」

 

嘘をついた、とされるわけです。

 

「あの年齢が持つ性への憧れからくる妄想ですよ。何かちょっと崩れたカンジのする子だった たしかに」

 

しかし作品では保健の先生がこれを否定します。

 

「やめてください!妄想でこんなこと言えません。実の父親に犯されたなど口が裂けても言えないことなんです」

男性教師「父親はハッキリ否定しています」

保健先生「当たり前です。そんなこと認める父親はいません」

 

「だからその欲望・・・だけど ふつう我が子に感じますか?」

と否定する二人の男性教師に保健先生は言います。

「彼等は自分と同等もしくは上の人間には欲望を感じません。我が子であるというより前に“あきらかな弱者”ゆえ安心して欲望するのです」

「自己の無力感をはらすためにさらに無力な子供をねじ伏せるのです」

「“親の愛”という名目で最も手近で無防備な我が子を・・・犯す!」

「その時その子供は魂を殺害されるのです」

 

事実が判らないのに無理に重ねていると思われる人もいるかもしれませんが、男性教師

の「あの子の虚言です」という決めつけが記憶されていました。

嘘をついた。では何のために?

この作品では「実の父親に犯されたなど口が裂けても言えない」とされていることを現実の女子が話したのは何故だったのか。

 

子供には自分を守る術がなにもないのです。

おとなが守ってあげなければどうしようもないのです。

 

私たちはどうすればいいのでしょうか。

 


 はてなブログへ引っ越ししています。

よろしければそちらでも読んでいただけらばと思います。

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