ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「燃えよ剣」司馬遼太郎

2018-09-30 06:49:12 | 小説


司馬遼太郎「燃えよ剣」好きすぎてどう書いていいのか判らない小説です。とても文章にできる気もしませんが、びびっててもしょうがないのでとりあえず書いていくことにします。

初めて「燃えよ剣」を読んだ時、なんてかっこいい話なんだろうと茫然とし、なんて悲しい話なんだろうとも思いました。
司馬さんは他の小説でもよく「この時代に友情という言葉はなかったが、この男たちの間にあるのは今でいえば友情というものであった」という書き方をしています。

そして本書の中で土方歳三は伏見の戦いを前にして「青春はおわった。-」と思いを馳せます。すでに沖田総司は病に倒れ伏しています。
戦を前に新選組隊士たちは近藤も含め女たちのもとへ別れを告げに散った後の屯営で病床の沖田を看病しながら土方が涙を落とす場面です。感傷的なこの一場面を司馬さんはさらりと書き記していますね。

この少し前に土方は沖田総司に愛刀・和泉守兼定を見せながら論じる場面があります。土方は沖田に対すると妙に心の内をさらけ出してしまうようです。
「これは刀だ」
「刀の性分、目的というのは単純明快なものだ。兵書とおなじく、敵を破る、というだけのものである」
「目的は単純であるべきである。新選組は節義にのみ生きるべきである」
沖田はここに土方の本意を汲み、微笑して答える。「私もそう思います」と。
新選組に思想と政治はない、と土方は考えています。武家に生まれたかったと漏らし思想と政治に憧れ始めた近藤の姿に滑稽な動揺を見て取ります。
乱世に死ぬ。男子の本懐ではないか、と土方は思うのです。

「男の一生は美しさを作るためのものだ、自分の。そう信じている」
「私も命のあるかぎり、土方さんに、ついてゆきます」
沖田の言葉はいつも涼しい。

新選組は思想や政治に使命を持ったエリートではなく、いわゆるチンピラたちの集まりです。
関東のヤンキーたちの集合体です。そいつらが乱世に男として立ち上がったけど、所詮お偉いさんたち、武士たちの仲間入りは無理なのです。
近藤はそういった上の人たちに憧れてしまった。その惨めさが土方にはたまらなかったのでしょう。近藤さんを友としているからこそに。
俺たちは俺たちでしかない。
ただそういう存在でしかない俺たちが燃えるさまを見せてやろうと土方は決意するのです。
だけども、それは歴史の中でなんと悲しい思いなのだろう、と考えてしまうのです。

歴史上に土方歳三・近藤勇・沖田総司の名は記されることはないのです。
記されたとしてもその肩書が如何なるものか。
それでいい、と土方はしたのです。
それでしかないと。

その後、土方は近藤・沖田を失い、蝦夷地・五稜郭で戦闘することになる。
重なる戦に生き残る土方がある夜亡霊を見る、と司馬さんは描く。
部屋の中に亡霊たちが椅子に腰をかけたり、床に胡坐をかいたり、寝そべったりしている。
皆京都のころの衣装を着ている。
新選組の面々なのだ。
近藤勇は椅子に腰かけ、沖田総司は寝転んでひじ枕、井上源三郎はぼんやり胡坐をかき、山崎烝が部屋の隅で鍔を入れ替えている。ほかにも幾人かの同志が。
無論これは司馬さんの小説家としての演出でしょう。
土方歳三が最後まで新選組副長として生きた、ということを表しているのですね。

土方が「俺には何もない。何も残らない」と思う場面がありました。
「だが俺には近藤がいる、沖田がいる、命を懸けて作った新選組がある。それだけでいい」
歴史の本にその名前が記されなくても人々の心にその名は刻まれています。

これは無論小説です。
司馬遼太郎は新選組そして土方歳三・近藤勇・沖田総司に、自分が夢と思う男としての生きざまを被せて描いたのでしょう。
武士ではなかった、関東の名もない雑草だった彼らの一生・青春はある意味空しく、ある意味輝いた。その小さな光を司馬遼太郎は見つめ、一つの歴史小説としてその存在を形にしてくれたことがたまらなく嬉しいのです。
司馬さんは書いていましたね。自分が思う漢、とは滑稽なほど一途であることだと。(たしかそういう意味合いだったのではないでしょうか)
近藤・土方の作った新選組の滑稽さは彼らの制服にも表れています。かっこいいぜ、俺たち、と粋がっていた滑稽さ。武士の真似事をしてあの時代に大名ななろうとした滑稽さ、そういた近藤勇の滑稽さを土方は愛し、また男の夢と思ったのです。

「燃えよ剣」は涙して読むべきものです。とくに底辺に生きる者であれば。
これは、時代を作った英雄たち・貴族たち・学者たちの本ではありません。

地べたを駆けずって生きる虫けらたちよ。而してその身を焦がしつくした虫けらたちよ。
この本の中にその姿が描かれています。




「少年探偵団シリーズ」江戸川乱歩

2018-09-29 06:42:03 | 小説


先日NHK偉人たちの健康診断で「江戸川乱歩 なぜ人は怖いものを見たいのか」というのを放送していて、ちょっと驚いてしまいました。
というのは江戸川乱歩は好きで結構読んできたつもりだったのですが、「少年探偵団シリーズ」が乱歩さん作家歴の後期になって書かれたものだということに思い至らなかったのですね。
私自身子供時代には江戸川乱歩「少年探偵団シリーズ」を図書館で読破したはずだと思います。さすがに記憶がないですけど、図書館にずらりと並んでいて何度も読んだことは覚えていますし、中身の文章は大好きなのですが表紙が不気味で苦手でした。
そして自分が成長するにしたがって、大人向けの、というか本来の江戸川乱歩小説「孤島の鬼」「人間椅子」「屋根裏の散歩者」「陰獣」「芋虫」などを読みまくりました。

まさか、自分の読んだ順番で執筆されたと思いこんだわけではないでしょうが、ほら、マンガ家ってわりと少年少女向けを描いてから青年誌へ行く傾向があるじゃないですか。自分の中ではマンガ家の動向が一番わかりやすい基準だったので、乱歩さんも同じような過程を進んだと何とはなしに思っていたように思います。
というか、特別どちらが先に、と思ったりしたわけではないのでしょうが、TV番組の説明にびっくりさせられたことで自分がなんとなく思い込んでいたかも、と考えたのでした。

番組の説明を簡単に言うと、乱歩さんは数々の猟奇的異常性犯罪の物語を執筆してエログロ作家と評されるわけですが、実際に異常な犯罪が起きるたびに「犯人は江戸川乱歩のファンだった」「犯人は陰獣を愛読していた」と書き立てられたそうです。
この辺、現在犯罪が起きるたびに「犯人はオタクだった」「アニメ○○をよく見ていた」などと書かれるのと同じですね。しかしある事件の時「こんな異常な犯罪を犯したのは江戸川乱歩に違いない」と書かれたというのはさすがに現在ではあり得ないでしょう(と思うのですが…あり得るのか?オタクに違いない、というのはありうるのかも)
尚且つ「芋虫」が発禁になって乱歩さんへの依頼がなくなってしまったのでした。そんな時、声をかけてくれたのが雑誌「少年」の編集者で「ぜひ、うちで少年ものを書いてください」と言われ、まさかエログロ作家の私が?と戸惑いながらも書いた少年探偵団ものが人気を呼んだ、というものでした。

あんなエログロ作家に少年向け小説を依頼するなんて物凄い慧眼の編集者だ!とちょっと感動してネット検索で当時のことが上がってないかと探したのですが、乱歩先生の文章からしてもNHK番組の説明とはやや違うニュアンスのようでwつまり乱歩先生自身は「前々から少年ものを書きませんかと言われてて、僕の書くものは子供っぽいと思われたからだろうね、と思って書き始めてみたんだけど」というような感じのことを書かれているのがありました。
なのでTV視聴での感動はアレレと尻すぼみに終わってしまったのですが、どちらにしても好きだったくせに江戸川乱歩の経歴を全然見ていなかった(見たつもりになっていた)のが少しでも改善できてよかったと思います。

それにしても戦後の子供たちに乱歩さんの少年探偵団シリーズがあって本当によかったのではないでしょうか。主に男の子向けではありますが、男の子たちのやるせなさがあの探偵団ごっこで随分癒されたのではないかと思います。悲しいですけど。
私にしてもたくさん楽しませてもらいました。
無論のちにはエログロ作品にもはまりました。
乱歩の魅力は何と言っても昭和初期の魅力的な風俗の描写ですね。
よく「昭和」を振り返る、というので戦後の話が語られますが(まあ、それは時間的に当然なんですけども)私は昭和だったら戦前の昭和に惹かれます。良いところのイメージで、ってことですけどね。

乱歩さんは好きすぎて映画化されてもなかなか自分が描くイメージに映像が追い付かないで困ります。凄いほどの美男美女、異常性愛、今でも書かれていないほどの同性愛の描写、東京のイメージもとてもお洒落でまさに憧れの都会に思えます。


タイトルにした「少年探偵団シリーズ」から離れてしまいましたw

江戸川乱歩が「少年探偵団」を書いてくれたことは色々な意味で最高の贈り物でした。
様残な人間の闇を書いたのちに書かれた少年向けの物語。
それは大人向けの作品と全く違うものではないはずです。
上の方で大人向けを「本来の乱歩」と書きましたが、少年探偵団こそ本来の乱歩だったのかもしれませんね。

「昔はよかった」のだろうか?

2018-09-28 07:09:10 | 思うこと


昔の映画はよかった。

年を取ってくると必ず言ってしまう言葉のひとつではないでしょうか。映画に限らずとも歌でもTV番組でもマンガや小説でも多感だった頃に見聞きしたものは鮮烈に体に染み込んでいるものだし、都合よく良いものだけを選択していることもあるでしょう。
私自身、やはり子供時代・少女時代に得た感動を年を経てから同じようにまたそれ以上に体験することはないと言っていいでしょう。
ただ、昔の作品(映画・アニメ・ドラマ・小説など)を見返しているとかなりの頻度でぎょっとしてしまうことがあるのですね。

それが差別的表現なんです。

実例を挙げていった方がわかりやすいですね。

例えば「トムとジェリー」これはもう私(50代)にとってバイブル、と言っていいほどのTVアニメです。繰り返し繰り返し文字通り数えきれないほど見ました。あの頃は夕方アニメの再放送をするのが通例だったのですが、「トムとジェリー」は無限ループでやっていましたし、大好きだったので飽きることもなしに見ていました。
その中で頻繁に登場するのが黒人のメイドさん。なぜか顔が映らない(白人たちは顔がちゃんと描かれているのですが)のです。太った体型で装飾品が好きで言動が乱暴なのも昔の映画の黒人描写によくあるタイプのものでした。無論、子供の私は何も深く考えず、顔が映らないことすら面白おかしく感じていたのですが、今思えば白人の描き方とは明らかに違う作意がありました。トムジェリは可愛いけど過激なアクションが特徴で爆発すると顔が焦げるのですがその描写は「爆発すると黒人顔になる」として笑わせますし、いたずらで黒人の姿になってしまったネズミのジェリーを焼いた皿の上で熱さで躍らせる、という演出はさすがに惨たらしいものでした。
私はこういった場面を、確認することなしに頭の中で再現できてしまうほど刷り込まれてしまってて、それほど大好きだったのですが、こういった表現を「あの頃はそれで当たり前だった」「深い意味はないよ。それで差別意識は生まれない」とは言えないし、言ってはいけないと思うのです。
今現在の私は黒人に対してトムジェリで見て来たような価値観を抱いてはいません。でもそれはその後に多くの映画や小説・または報道などを体験してきて上書きされているからです。もしトムジェリだけの知識しかないならそういった感覚を持っていても不思議ではないと思えます。

6~70年代に日本でTV放送されていた「トムとジェリー」はアニメーションとして素晴らしい出来栄えで面白くて可愛くて私たち子供にアメリカの文化を教えてくれた教師でした。私は本当に大好きでした。
でもその最高に楽しかった記憶でその中で数多く描かれてしまった差別表現への批判を消し去るわけにはいきません。
良い作品だから多少の差別は仕方ない、というわけにはいかないのですね。しかも残念なことにトムジェリはかなりそれが多いのです。笑わせるのが目的のアニメなので差別することで笑わせる、という手法がどうしても頻発してしまう。それが一番おかしい、ということにもなってくるのですよ。

アニメ「トムとジェリー」は例えのほんの一つにしか過ぎなくて、昔の作品はこういうことがまさに「当たり前」すぎるのです。

先日映画「七年目の浮気」を見返しました。なんだかアメリカ作品ばかりやり玉にあげてますが、それくらいアメリカのものを見て育った世代なんですね。日本のものよりアメリカのものを見ていたような気すらします。
他愛ない男の夢物語コメディ、くらいに記憶していたのですが、これが全然「他愛なく」見られないのです。女性蔑視、なんて問題じゃないのですよ。よくこの映画のあらすじ、というので「旦那が女房子供を避暑地へ追い払って」という説明がされてますが
、その冒頭からして神経逆なでされます。
女房子供を追い払う前に映画の導入部が始まります。
嘘か真かわからないのですが「このマンハッタン島では昔マンハッタンインディアンが暮らしていて」という説明が映像で表現されます。
類型的な姿のインディアンが夏場女房子供を追い払って若い女性インディアンと浮気をする、として「今も昔も変わりませんね」というものなのですが、これはあまりにも下品ではないですか?

しかし実際のネイティブアメリカンがそのようなことをしていたのか?と問いただしても「コメディだよ」と笑われるだけで終わりそうです。(勝手に落ち込んでもしょうがないですが)

しかもそのすぐ後の場面、件の旦那が女房子供を追い払うために駅に見送りに来ます。大量の旅行鞄を黒人のポーターが運んでいるのですが、その荷物の上に宇宙服を着た男の子が座っておもちゃの光線銃でその黒人のポーターを狙って撃ち続けるのです。
黒人ポーターは「いつものこと」とでも言いたげに硬い表情を崩しませんが、もちろん怒れるわけもなく無言です。父親である主人公は「やめなさい」とは言うものの「銃を人に向けて撃ってはいけない。ポーターさんに失礼だよ」と言って謝罪したりはしません。いくら銃社会だといっても、いや銃社会だからこそやってはいけないのでは?黒人ポーターは人ではないのでしょうか。銃を向けて撃つのは失礼ではないのでしょうか。

男の子は「地球の敵がいるんだもん。宇宙から侵入してきたんだ」と言ってさらに黒人ポーターを打ち続けます。まさか、このセリフ本気で言わせたのではないですよね?まさか、ここに主題があったのではないですよね。

ポーターが白人であればもう少し違う態度であったのでは、とも思えます。黒人ポーターだからなのか、主人公はポーターのほうをチラリとも見ずにしかもその後男の子にキスをして、つまり全然怒っていない、つまり息子の態度はちょっと乱暴ではあったけど、当たり前のことで叱るほどではないと判断しているのです。


他愛のないコメディと評された映画でマリリン・モンローの色気と可愛さを見ようと思って見始めた映画の冒頭で立て続けに人種差別を当然のこととして見させられ、とても続けて見る気がしませんでした。
女性蔑視などという以前の問題です。
監督のビリー・ワイルダーは巨匠と評されていますし、自身もユダヤ系ということで差別も受けたでしょうし、数々の名作と言われる映画を作り、多くの賞を受けた人です。
私自身はワイルダー監督作品をそれほどきちんと追って見てこなかったので全体の作品の批評というのはできませんが、この「七年目の浮気」については冒頭を見ただけで続きを見ることができない差別主義者としか思えなくなりました。
しかしこれもコメディですね。
コメディを作る時、人間は自分の本音が出てしまということなのでしょうか。

ここに挙げたものはごく僅かな例えでしかありませんね。昔の作品を見るとぎょっとするような表現が多々ある。ということは今作られて評価されているものも時代が移れば違ったものになる、ということがあり得るのですね。
その時々によく見てよく考えなければいけないのだと思うのです。

ぼーっと生きてんじゃねえよ!ということですね。

「レベレーション」1~3巻 山岸凉子

2018-09-27 06:54:49 | マンガ


進行形で読んでいるマンガのひとつ、と言っても単行本になってからの話なので今現在お話がどうなっているのかは知らないので、3巻までの内容として書いていきます。

以下、内容に触れますのでご注意を。

宗教に関連した歴史もの長編ということですぐに「日出処の天子」と重ね合わせて読む人も多いと思うけど、はっきりと同じ意識で描かれている作品でありますね。

「日出処の天子」の感想で書いたように厩戸皇子は山岸凉子氏が抱えている疑問を“女と見まごう美しい男性”という形で表した作品だった。

作者は男主人公の口を借りて「私たちが組めば世界を変えられる。それでも、お前(男である毛人)は子供を産める女を選ぶのか?」と問いかける。世界を変えてしまうほどの能力より「異性と交わって子供を作ること」こそが「自然の摂理」だという毛人の答えに厩戸皇子は絶望する。

世界は男たちの力で作られ動かされている。その中で女たちは利用されていく。それが世界の仕組みだ。その仕組みから逃れることはできない。でもそれで本当にいいのか?と作者は怒りを込めて描いたのだった。

本作「レベレーション」でも実は問いかけは同じだ。というより山岸凉子という作家は一貫して同じ疑問を作品の中で訴え続けているのである。

「日出処の天子」で女と見まごうほどとはいえ男である厩戸皇子を借りて表現したことを今度は女性であるジャネット=ジャンヌ・ダルクによって語ろうとしているのだ。

ジャンヌ・ダルクと言えば「女だてらにフランス軍を率いてイギリス軍を蹴散らし、オルレアンを取りもどした」「髪を短く切り男装をしたことで異端者とみなされた」「神の啓示を受けて自分を神の使者と考えたちょっと頭のおかしな女」などというような
イメージがすぐに湧くだろう。
山岸凉子氏はそのようなジャンヌ・ダルクへの批評はは男性社会で活躍する女性が常に言われ続けてきた言葉と同じではないかと語る。

美しく善良な姉カトリーヌが嫁ぎ先で受けたそしりと暴力。石女=子供の産めない女め、夫からの絶え間ない暴力DVに耐え続けなけらばならないのが女だ。
女は父親が選ぶ男としか結婚できないのか。好きな男と寄り添うのは許されないのか。
ジャネット=ジャンヌ・ダルクは絶望の中で神の声を聞く。
「王を助けよ」と。
父親からは女のおまえに何ができる、とののしられ、信頼する司祭からも「現実から逃れたかったために神の声を聞いたのではないか」「女の身でなにができようか」と諭される。この時の司祭の言葉は非常に重要なものだ。「それでも人はその声に囚われてはいけないのだ」
神の声を聞いたものはと途轍もない力を持ってしまうのだろう。その力をコントロールできる者は少ない。まして女の身では自分をコントロールするだけではなく他者も操る能力を要する。それなしでは破滅へと行き急ぐ運命を免れないのだ。

そこがこの物語の要となる。
神の声を聞き、危うい戦争で勝利をものにする奇跡。
男であれば「英雄」として尊敬を得るはずだ。
だが、女であるというだけで、それは「異端者」であり「異常者」であり「頭のおかしな女」と謗られ、辱めを受け死刑となってしまったのだ。こんなことができるのは魔女に違いないと烙印を押され恐れられる。
ならば女はどう生きればいいのか。
男の中で戦わなければ、男に従って暴力を受けるしか生きる術はないというのに。

上手く世渡りをしてうまく男を扱えばいいのよ、という方法をジャネット=ジャンヌ・ダルクは拒絶した。拒絶したかった。それは許されないことなのか?と「レベレーション」で作者は問うている。

男社会の中で戦うことを(神の声を聞いて)選択したジャネット=ジャンヌ・ダルクは女の体であることに苦悩する。男たちの性的な嫌がらせ、セクシャル・ハラスメントは避けられない苦痛だ。
神の使命を負って戦ってる最中でも女は絶えずそのことを意識し男からのセクハラを退ける努力を払わないといけないのである。

ジャンヌ・ダルクが処女(ラ・ピュセル)である、ことが重要視される。処女(ラ・ピュセル)であるためにフランス軍の男たちは彼女に従ったのだろうか?アイドルは処女でなければその価値を失うということなのだろうか。

ジャネット=ジャンヌ・ダルクは穢れ泣き少女そして処女であるがために純粋に疑いもなく神を信じ男たちを従えて戦う。その危うさ。
急げ!急げ ラ・ピュセル!
と3巻は幕を閉じる。
ジャンヌの人生が向かうこの先の闇を私たちは見つめなければならない。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」Q

2018-09-26 05:21:43 | アニメ


さて、最もみなを困惑させるQであります。


以下、内容にふれますのでご注意を。

これも同じくシンジの心の映像として見ていきます。これはあくまでも外的宇宙ではなく内的のもので、ひとりの少年がぶつぶつ言いながら心の敵と戦ってるのですから。

「エヴァに乗る」=女に乗る=セックス、ということをいきなり禁止されてしまうシンジ。

彼の世界で女性の比重が大きくなっている。女の活躍が目立つ。
父・母の声がほとんど聞こえない。存在も薄くなっていく。シンジはそのことが母親=綾波を助けたと思っていたのにいまいち自信が持てない。
エヴァとのシンクロ率はほぼなし=セックスの下手さ。
セックスをすると死ぬこともある、という話に困惑するシンジ。
「エヴァにだけは乗らんといてください」=セックスをしようとするシンジを思い切り拒絶。
羅列していてやや嫌になってくるけど本当にいつまで経ってもガキのままのシンジにうんざりでもある。
とにかくいつまでも成長しないシンジ=庵野が感じてきたセックス・女性に対する感情・経験してきたことの様々をエヴァンゲリオンというアニメの中で映像化した、ということなのだ。

となれば渚カヲルという少年の登場は・・・やはり庵野=シンジが出会った憧れの同性、ということなのである。
自分に比べなんでもできて大人で難しく意味の解らないことを言って戸惑わせてくる同性の友だち。
それは少年にとって異性以上に強い影響力を持ち惹きつける。ふたりの連弾はそれを表している。どうすればもっとうまくできるようになるか。勉強でもスポーツでも仕事でもセックスでも。
だがその存在だけを頼りにするわけにはいかない。いつか少年は大人として独立しなければならなくなるのだ。

アダム・エヴァ・リリス、という言葉は聖書そのままに意味している。本来アダムと同等であったリリス、それは悪魔を生み出すものとして認識されている。エヴァはアダムのあばら骨から生み出された女でしかない。

本作中でシンジと冬月が将棋をする場面は、将棋を「指す」というべきところを「打つ」と言ったり「飛車角金を落としてやる」の違和感とか「31手先で積み」と言った31分後にチョーカーが爆発する、などいろいろ含みがあるのですが、なかなか将棋に手こずってるシンジをみて冬月は「将棋崩し」を始める。
これってね、「積み木くずし」じゃないかと思ったんですよ。昔「積み木くずし」って本と映画とドラマが流行った時があって私はなんか嫌で見なかったんですが、物凄い話題になった親子の対立の物語なんだけど、将棋を崩すことでそれをイメージさせようとしたのではないかと。ものすごいめちゃくちゃですが。

セカンドインパクト=第二次性徴からサードインパクト=大人としての性。

シンジを取り巻く者たちの苦悩。そしてシンジ自身の苦悩。
それがどんなに辛く激しいものか。Qはクエスチョン=問いかけでもある。

きみはどう思うか?