「キャラ」というものについてつらつら書いていきます。
「キャラ」=創作の登場人物というのは創作者が創造できる範囲でしか創造できないものです。当たり前のことのようですが、ここは凄く重要なのですね。
つまり創造者が「嫌な人」であれば「嫌なキャラ」しか創造できないし、創造者が「ステキな人」であれば「ステキなキャラ」が創造できるということです。言い換えると「ステキなキャラ」は「嫌な人」は創造できないということです。
そう言うと「そんな馬鹿な。嫌な人間であっても善良で思いやりのある人、というのを勝手に想像すればいいだけのことであって、本人が極悪人だから極悪人しか書けないわけはない」と言い返したくなりますね。でもキャラ、というのは結局設定ではないのです。設定で善良な人、としていても物語の中の言葉や行動にその人の考え方はにじみ出てきます。また物語そのものも作者の創造物である限り作者自身の思想が生み出していくのです。
ごく短いストーリーであればなんとか誤魔化せても(それでもにじみ出てくると思えますが)長くなればなるほど作者自身が投影されてくる。
例えば男主人公であれば、相手の女性の扱いをどう描いているか、敵をどう描いているか、主人公が何を好敵み嫌うか、何を優先するかすべてが創作者の知識と思想から生まれるしかないのですから作品は創作者そのものなのです。無論、その作品が巧妙に作られていて深い洞察力によってのみ見破られることもあります。
上の文章は極端な表現で書きました。人格がそう簡単に「嫌な人」「ステキな人」だけで割り切れるわけではないし、そういった嫌な人ステキな人も個人によってそこが魅力であったり興味を失ったりもするからです。だからです。キャラの特徴は細やかなもので言動の端々にそれは現れます。
例えば多くの人が二次創作をやりますね。ある作家が創造したキャラはその作家の人格です。それはとても魅力があります。技術を持ったファンはそのキャラを使ってパロディを描きます。キャラの特性が上手く利用されているほど二次創作の価値は上がります。ずれてしまうと価値は下がります。元キャラより良い人になればより良くなるわけではないのです。その絶妙さは元の創造主だけが持つ魅力です。そのキャラを創造できる人格は他には代えられないのです。
テクニックのあるファンは元の創造主より技術的には上だったりもします。それでも創造主を越えることはできません。創造主の人格で生まれたキャラは唯一無二だからです。
そして二次創作で人気を博すテクニシャンもオリジナル作品では輝きを失ってしまうのです。それはキャラというのが想像で作られたもののようで創造主の人格そのものだからでしょう。
よく学生のような若い作家志望者が「かっこいい(可愛い)キャラが作る秘訣はなんですか?」と問いかけ「本を読みなさい。人生経験を積みなさい」と答えられ不満そうなのを見ますが、結局はそれでしかないのですね。
人生経験や読書で本当にカッコいいものはどういうものか、可愛いというのはどういうことなのか、を自分の血肉で知らなければキャラを生むことはできないのです。
うわべだけそれなりに描けても本質の部分で「凄い作家」の描くキャラには負けてしまうのです。
なので二次創作が流行るのはそうした「凄い作家」が生んだ魅力的なキャラを自分が生み出すのは無理だと知っているからなのですね。
たまにごく若い作家が魅力的なキャラを生み出すこともあります。本当にそれは天才です。しかしその天才がずっと続くかどうかは別の話です。それもできる人もいるでしょうが、そんな特別を才能を求めても仕方ありません。
キャラクターについて考えようとして検索したらば、外見のことばかり書いてる人がいました。マンガであればそこに最初目が行くのは当然ですが結局読者は中身を読んでいるものです。体の形とか目や髪の色とか大体わかれば良いくらいの問題です。そこにだけ集中して描きたい人はそれはそれで勝手ですからいいんですが、読者はその人が何を考えているかどう話し行動するか、を見ているのですよね。
素晴らしい作品に感動して自分も同じような素晴らしいものを作ろうとしても絶対に違うものになって出来上がる。それが小説でもマンガ・アニメ・映画などでもその作品はその創造主そのものだからです。
誤魔化すことはできないのですね。
「キャラ」=創作の登場人物というのは創作者が創造できる範囲でしか創造できないものです。当たり前のことのようですが、ここは凄く重要なのですね。
つまり創造者が「嫌な人」であれば「嫌なキャラ」しか創造できないし、創造者が「ステキな人」であれば「ステキなキャラ」が創造できるということです。言い換えると「ステキなキャラ」は「嫌な人」は創造できないということです。
そう言うと「そんな馬鹿な。嫌な人間であっても善良で思いやりのある人、というのを勝手に想像すればいいだけのことであって、本人が極悪人だから極悪人しか書けないわけはない」と言い返したくなりますね。でもキャラ、というのは結局設定ではないのです。設定で善良な人、としていても物語の中の言葉や行動にその人の考え方はにじみ出てきます。また物語そのものも作者の創造物である限り作者自身の思想が生み出していくのです。
ごく短いストーリーであればなんとか誤魔化せても(それでもにじみ出てくると思えますが)長くなればなるほど作者自身が投影されてくる。
例えば男主人公であれば、相手の女性の扱いをどう描いているか、敵をどう描いているか、主人公が何を好敵み嫌うか、何を優先するかすべてが創作者の知識と思想から生まれるしかないのですから作品は創作者そのものなのです。無論、その作品が巧妙に作られていて深い洞察力によってのみ見破られることもあります。
上の文章は極端な表現で書きました。人格がそう簡単に「嫌な人」「ステキな人」だけで割り切れるわけではないし、そういった嫌な人ステキな人も個人によってそこが魅力であったり興味を失ったりもするからです。だからです。キャラの特徴は細やかなもので言動の端々にそれは現れます。
例えば多くの人が二次創作をやりますね。ある作家が創造したキャラはその作家の人格です。それはとても魅力があります。技術を持ったファンはそのキャラを使ってパロディを描きます。キャラの特性が上手く利用されているほど二次創作の価値は上がります。ずれてしまうと価値は下がります。元キャラより良い人になればより良くなるわけではないのです。その絶妙さは元の創造主だけが持つ魅力です。そのキャラを創造できる人格は他には代えられないのです。
テクニックのあるファンは元の創造主より技術的には上だったりもします。それでも創造主を越えることはできません。創造主の人格で生まれたキャラは唯一無二だからです。
そして二次創作で人気を博すテクニシャンもオリジナル作品では輝きを失ってしまうのです。それはキャラというのが想像で作られたもののようで創造主の人格そのものだからでしょう。
よく学生のような若い作家志望者が「かっこいい(可愛い)キャラが作る秘訣はなんですか?」と問いかけ「本を読みなさい。人生経験を積みなさい」と答えられ不満そうなのを見ますが、結局はそれでしかないのですね。
人生経験や読書で本当にカッコいいものはどういうものか、可愛いというのはどういうことなのか、を自分の血肉で知らなければキャラを生むことはできないのです。
うわべだけそれなりに描けても本質の部分で「凄い作家」の描くキャラには負けてしまうのです。
なので二次創作が流行るのはそうした「凄い作家」が生んだ魅力的なキャラを自分が生み出すのは無理だと知っているからなのですね。
たまにごく若い作家が魅力的なキャラを生み出すこともあります。本当にそれは天才です。しかしその天才がずっと続くかどうかは別の話です。それもできる人もいるでしょうが、そんな特別を才能を求めても仕方ありません。
キャラクターについて考えようとして検索したらば、外見のことばかり書いてる人がいました。マンガであればそこに最初目が行くのは当然ですが結局読者は中身を読んでいるものです。体の形とか目や髪の色とか大体わかれば良いくらいの問題です。そこにだけ集中して描きたい人はそれはそれで勝手ですからいいんですが、読者はその人が何を考えているかどう話し行動するか、を見ているのですよね。
素晴らしい作品に感動して自分も同じような素晴らしいものを作ろうとしても絶対に違うものになって出来上がる。それが小説でもマンガ・アニメ・映画などでもその作品はその創造主そのものだからです。
誤魔化すことはできないのですね。