ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

山岸凉子と萩尾望都の変化について 2

2019-03-12 07:16:36 | マンガ


昨日に続き書いていきます。

山岸凉子・萩尾望都、全作品についてネタバレしますので、ご注意を。





両作家の全作品の中で最も優れた作品は、と聞かれたら山岸凉子「テレプシコーラ」萩尾望都「バルバラ異界」と答えます。
山岸凉子と言えば「アラベスク」「日出処の天子」で萩尾望都と言えば「ポーの一族」「トーマの心臓」と言われることが多いのでしょうけど、作品として高い得点をあげたいのは前に書いたそれぞれだと私は思っています。

マンガという若い文化の中で漫画作家生活の後期により優れた作品を描き上げた、というのはそれもまた注目点なのではないでしょうか。

昨日はこの二人のマンガ家の持つコンプレックスが作品に深く根差していることを書いていきました。萩尾望都は両親から愛されていない、両親への強い反発がある、という意識がほぼすべての作品に色濃く表れています。作品に登場する両親もしくは片親は様々な形で子供である主人公に負の影響を与えていきます。「トーマの心臓」ではユリスモールとオスカー、「アロイス」のアロイス、「遊び玉」のようなSFでも両親は主人公を助ける役目は与えられません。原作のあるマンガを描く時に選んだのは「恐るべき子供たち」という親を否定している作品ですね。「マージナル」は非常に面白いSFですが母親が世界中にただ一人しかいないという設定であるのはやはり母親の愛情が極端に薄いことを物語っています。「ローマへの道」の主人公の苦しみも両親からくるものでした。

そのような道のりを経て萩尾望都は「イグアナの娘」にたどり着きます。ここで彼女はかなりの皮肉を込めて両親特に母親への不満を滑稽なほどのコメディとして描きました。そしてその後「残酷な神が支配する」へとバトンは渡されます。
親の子供への抑圧がここでは性暴力という極めて悲惨な形で表されます。女性である萩尾望都にとっては生々しく母と娘、もしくは父と娘という形で描くのはさすがに抵抗があったのでしょう。性を男の子とその義父という異性に転化することでかろうじてこのタイトル通り「残酷な神」を描くことができたのでしょう。物語は萩尾作品としては異例に極端な長編です。萩尾望都にとって「親」という「残酷な神」が子供にどんな怖ろしい「支配」を「する」のかを描ききるにはこの長さがなくてはならなかったのですね。
この物語の中で主人公の少年は義父に逃げるすべもなく性暴力を何度も受け続け肉体にも精神にも惨い傷を残します。母と義父の突然の死で暴力自体からは逃れられても義父の亡霊は繰り返し彼を苦しめ続けていくのです。
少年は幾度も幾度も堕落し義兄によって救われ再びおかしくなり更に救われ更に精神がむしばまれ、幾たびも幾たびもそのループを繰り返します。もがき苦しみ立ち直ろうとしても義父の亡霊は少年から離れないのです。
が、ここで興味深かったのは萩尾望都氏がインタビューを受けた時に「父親の側に立って暴力を与えている気持ちになりすごくすっきりした」という答えをこれも幾度となくしていることでした。
あれほど両親との確執に苦しみぬいていた萩尾望都はこの怖ろしい「残酷な神が支配する」において「残酷な神」の側に立つことで自分自身が「支配される子供」から「支配する神(親)」のほうになれることを自覚できたのかもしれません。
萩尾氏は結婚もしておらず子供もいないということですがもしそうであったとしたら自分が怖れた両親と同じような親になってしまっていたのかもしれませんね。勿論これは憶測にすぎませんが。
そうして萩尾世界を覆してしまった「残酷な神が支配する」の後、彼女は「バルバラ異界」を描きます。
発表年が20002年~2005年となっていますから萩尾望都は53歳から56歳にかけて、ということですね。この作品では主人公は父親です。息子がいますがやはりというか愛情薄く育ってしまったために父親への反抗が酷くここでは父親である主人公が息子の愛情を求めて懊悩する、という物語になっています。母親は息子を愛しながらもどこかすれ違っている、という描き方でした。
長い時を経て父親というやはり性の転化はありますが親の立場で子供を見つめるという作品に変化していった萩尾望都がここにくるまでにどれほど考え続けたのか、と思わされます。
「AWAY」では再び親と子供が別々に切り離されてしまう世界が描かれていますが、なんとかしてこちらとあちらを結び付けたい、と主人公たちは願い挑戦し続け、そして皆に語りかけるのです。「この世界を良くする方法を考えて」と。
現在連載中の「王妃マルゴ」では主人公マルゴには抑圧的な母親カトリーヌ・ド・メディチがいますがマルゴは絶えず母親に反抗し自分の道を見つけていく、という物語になっています。
「不道徳な女」という批判のレッテルをはられながらも自由奔放に生きるマルゴは萩尾望都の希望のように見えます。

そして山岸凉子のコンプレックスは性差であると書きました。
彼女のヒロインはとても若く美しく可憐で弱弱しい心を持っている、と描かれることが非常に多いのですね。そのうえで「なぜ男性は女性に若さと美しさと従順を求めるのか」ということに常に苦しんでいます。
極端なほどにヒロインを若く美麗に描きながらそこに価値を見出す男性を嫌悪している、という奇妙なパラドックスが彼女を苦しめ続けていると思っています。
また理想の男性として必ず背が高く苦悩している表情の優秀なイケメンが描かれ、ヒロインに大切な助言ができるのはこの理想男性である、という形式も貫かれていきます。
「アラベスク」のユーリ・ミロノフはその典型であり以降の作品の理想男性は皆彼の焼き直し、と見えます。
「アラベスク」にはエーディクというやや中性的な男性、そしてレミルという可愛いイメージの男性も登場するのですが、イケメンであってもこうした男性がヒロインの心を打ちぬくことがないのも特徴です。私は絶対エーディクのほうが良いと思うんですけどね。
「日出処の天子」では厩戸皇子は明らかに女性性の変形として描かれています。同性愛の設定になっていますが実は「性を嫌悪もしくは恐れる女性」を転化した表現として厩戸皇子になっていて彼は男性として描かれていないと思っています。男性であればそれぞれ女性を妻として(しかも複数人可能です)男性同士の関係を続けることに問題はなかったはずでしょう。それは男性ならば当然の関係だったはずです。あの作品の厩戸皇子が男性でなかったために彼らの関係は終わらざるを得なかったのでしょう。

その後山岸凉子は男性性への疑問と女性性への苦悶を繰り返し描き続けます。なぜそこまで性差が彼女を苦しめてしまうのか、と思ってしまうのですが、美しい女性を描きながら時が経てばその美しさは失われてしまうことへの懊悩、そして男性は常に若く美しい女性を求め、そうでなくなった女性を捨てるということへの怒りは苦痛となっていきます。
とても技術の高い作家なので不細工系のキャラを描いても魅力的であると描ける人なのですが、それにもかかわらず彼女自身が求める女性男性は美貌でなければならないと決めつけているような作品群は私には謎でもあり、それゆえに強く引き付けられもします。
そしてたどり着いた「テレプシコーラ」は「アラベスク」と大きく異なっています。
「アラベスク」ではノンナというバレエダンサーは苦悩した末でもユーリ・ミロノフという優秀で美麗なバレエダンサーであり指導者であり理解者であり伴侶の男性の愛を手中にし結婚、ということが最大の幸せとして終わりました。

「テレプシコーラ」では小学生である六花というヒロインを中心として姉の千花そして友人・空美という3人の少女を描くことで物語が進んでいきます。
空美は不細工な少女として描かれ山岸凉子のこれまでのコンプレックスを体現する人物です。顔は醜いけれど若くきれいな体ゆえにロリコンの男たちへの仏物となり消耗し、彼女は主人公たちに大きな影響を与えて早い段階で消えていきます。
六花と千花(空美も)は小学生です。ふたりとも山岸作品で繰り返された男性に対しての恋慕・卑屈さなどはほとんど描かれないのはそのための幼い少女という設定でもあるのかもしれません。
主人公六花に関わってくる二人の少年のうちいつも山岸作品で主人公の助言役に当てはめられる美形君はここではその役からはずされており代わりにブサメン(こういう表現ばっかりで申し訳ないが山岸マンガはこれらがポイントなので仕方ないのです)君である拓人が六花を助けたりするのは画期的なことだったと言えます。
が、バレエを教える教師としてはやはり高身長イケメン先生が六花の才能に気づき助言していく、という展開になってしまうのは致し方ないことでしょうか。
姉妹の母親は美人で厳しいけど父親はブサ系で心優しいと描いているのが一番ほっとすることでした。
作品内容としての凄みと優秀さはここでは書きませんが私が山岸作品の最高峰としていることで判ってもらえると思います。それに足してこの作品でこれまでの男性への疑問・苦悶が六花千花には描かれなかったことは特筆に値します。その苦しみは空美がすべて引き受けさせられたわけです。

その展開は「テレプシコーラ第二部」にも引き継がれていきます。

そして今連載中の「レベレーション」では主人公ジャンヌ・ラピュセルを守ってくれるような男性が(私が読んでる範囲内では)もう出てきません。
神のお告げを聞き戦う処女であるジャンヌ・ダルクには男性は友として登場してもそれ以上ではもうないのです。
美しいアランソン公爵ですらジャンヌの頬を染めるだけであり、その関係は頼もしい友情としてのみ描かれています。
物語としては山岸作品の特徴である「なぜ女性は男性に求められるだけの人生なのか」であるのですが、ジャンヌはもう助言者である理想の男性を求めはしないのです。
するとすればそれは「神」だけ、ということです。

男性の姿を借りて神の力を持った厩戸皇子は毛人という男性の伴侶を強く求めましたが、処女ジャンヌ・ダルクはもう男性を求めず神という性を越えた存在だけを信じて戦い続けていきます。
作品はまだ途中(私が読んでいる限りでは)ですが山岸凉子があれほど繰り返し、理想の男性を求める女性を描き続けた答えは男性を求めないジャンヌ・ダルク、なのでしょうか。
勿論山岸マンガが終わったわけではありません。
山岸凉子、そして萩尾望都、ふたりの稀有な漫画作家がまだまだ描き続けてくれることを願わずにはいられません。

山岸凉子と萩尾望都の変化について 1

2019-03-11 07:19:30 | マンガ


昨日、数えきれないほどの再びなのですが山岸凉子「テレプシコーラ」読み返していました。何度読んでもまた読みたくなってしまうのはどういうことなのか、と思ってしまいます。しかもかなり辛い話であるのにも関わらず。

それでちょっと山岸凉子について書きたくなってしまったのです。「テレプシコーラ」だけではなく山岸凉子全体として。しかも萩尾望都を絡ませながら話そうと思います。



なので山岸凉子&萩尾望都作品全般のネタバレになりますのでご注意を。





前にも書いたと思うのですが一番読み返してしまうマンガ家は萩尾望都と山岸凉子なのですが、「好き」の感情はかなり異なっていると感じます。
萩尾望都は最初から絵も物語もその世界に強く引き付けられたのですが山岸凉子は絵からしてあまり好きになれなかったし内容も面白くはあるけどなにか反感を感じるのです。
ふたりの作家への感覚は今もあまり変わらない気がします。
萩尾望都を読む時は肯定的な気分で読んでいて心が「陽」になっていますし「面白いな」と能動的に楽しんでいます。
山岸凉子を読む時は否定的な気分で読んでいて心が「陰」になっていますし「なんでこんな話描くのかな」と苦しみながら読まねばなりません。
なのにふたりとも自分にとってはなくてならない作家なのです。
かつては明らかに萩尾望都を読む時間が多かったのですが、年を取るごとに山岸凉子の方が多くなってきているのは自分として少々不安な気持ちにもなります。

それにしてもこの偉大な作家二人が共に長い間創作を続けていることに対しても驚き感謝し大変興味がわくところでもあります。
長い間にどう変化してきたかをリアルに感じてこれたからもありますね。(と言っても正直なところ、私はすこしマンガから離れた時期もあるので完全に並走してきたわけではないのですが)

ふたりの作家にはそれぞれ異なる欠点、というより弱点みたいなものがあってそれが両作家の特徴でもありそのものと言ってもいいのですが、その個性も長い間に変化しているのも感じます。

萩尾望都はこれは公言されていますが“親からの強い抑圧とそれに対する反発”というものがほぼすべてと言えるほどに作用しています。
代表作「ポーの一族」でエドガーとメリーベルが「親から切り離され見捨てられてしまった」ことから吸血鬼の一族に拾われたことは萩尾望都が親の愛を信じていないことが感じられます。エドガーたちの本当の母親は肉体として登場もせず父親は二人の子供に特別な感情を見せません。代理の両親となった男爵夫妻たちとも親子の愛情的なエピソードは見いだせないのです。

初期作品を見て行っても子供への心配より恋人の事ばかり考えている母親を突き落としてしまう少年の話、出来の良い姉たちと比べられてしまう妹の話、いつも叱ってばかりの母親と家を出て他の家族を持っている父親の話、などというような作品が続きます。
上手い作家なので同じ話ばかりとは思わせない技巧があるのですね。親との断絶、親がいない、などということを形を変えながら描いているので昔読んでいた頃には「親を嫌っている、親から嫌われている」とは思いませんでした。

中期になっていってもその形態は変わりません。感動的な「アメリカン・パイ」も実の両親は娘の嘆きを救うことはできず娘が家出した先で知り合った男グラン・パに託して帰国するという筋書きは親子の愛が絶対である作家なら描かなかったシナリオでしょう。
「スター・レッド」はとても面白いSFなので読み終わってもしばらく気づかないでいたのですが、主人公のレッド・星(セイ)は火星への強い愛を語っても両親への思いを語ることがありません。火星から追い出され地球へ逃れるという物語の中で小さなセイが母親と逃げている場面があるのですから思い出のシーンなんかで「お母さん」と夢を見るようなカットがあってもよさそうなのですがぴくりとも母親を思い出さない、というのは日本の作品では結構珍しいことのように思えます。
それほど萩尾望都にとって母親が望郷であるというイメージにはならなかった、ということでしょうか。(望都と望郷という文字が意味深です)
例を挙げていことしたらたぶんすべての作品になってしまうように思えます。
「メッシュ」もしかりですね。
そしてその気持ちが最も露骨に表現されたのが「イグアナの娘」でしょう。
外国ものやSFが多い萩尾望都作品で現代日本を舞台にリアルに描かれた作品でドラマ化もされた印象深いものです。
が、最も露骨でありながらコメディとしたところが萩尾望都の技術の高さなのですね。そしてこの作品で親への確執を明確に描いたことはやはり彼女の作品に大きく影響していったと思われます。

技巧的に自分の“コンプレックス”を創作していった萩尾望都と対照的に山岸凉子の"コンプレックス"は常に露悪的に描かれてきたと言えます。
私が山岸作品を快く好きと言えず恐ろしさを感じてきたのはそこにあるわけなのですがこうまでも自分のコンプレックスを見つめ考え写し取るように表現してきた山岸凉子という作家には萩尾望都にない生の凄みがありそこに次第に惹かれていったのです。

山岸凉子のコンプレックス、苦悩は性差にあると思います。萩尾望都と違ってここは彼女から明文したものを読んだことはないのですが彼女の作品は常に「理想的な男性と劣等感に怯える女性」の対立で描かれてきました。
代表作「アラベスク」ではバレエ学校の学生であるノンナは教師であるユーリ・ミロノフに絶対的な尊敬と共に異性としての恋慕を併せ持っています。そしてその「ミロノフ先生」の愛情が別の誰かに移ることをいつも恐れ不安であることが描かれます。
山岸凉子の作品はこの後ずっと同じ話の繰り返しなのですね。
山岸作品の理想的男性は繰り返しユーリ・ミロノフの焼き直しであり、ヒロインはノンナの焼き直しなのです。
その理想的男性とは背が高く尊大で完璧な美貌で優秀な頭脳を備えている、というようなあまりにも極端に美化された男性像なのです。私としてはこのような男性に逆にあまり魅力を感じないのですが山岸作品のヒロインは必ずこういう尊大な男性を理想としています。
ヒロインは逆に気弱で思い悩むタイプであり外見は多くの場合は綺麗な容姿なのですが自信を持っていない、という表現となります。(日本の)女性の読者としてこのキャラクターは共感しやすいものだとは思えますが時としてあまりの気弱さに苛立ちもします。
そして男性への性差に対する不満・不安・疑惑・恐怖が繰り返し語られていきます。
どうして男性は女性に若さと美しさばかりを求めるのか。どうして女性は男性の要求に振り回されなければならないのか。どうして女性は性というものをいつも意識していなければならないのか。
山岸作品の女性たちが常に理想の男性として「背が高く」(なぜか絶対的に背が高くないといけない)イケメンで優秀な頭脳と体を持ちヒロインに重要な助言をする、という高い要求をしているのにもかかわらず女性に対して男性が若さと美しさを求めることに極端な嫌悪を感じています。
この矛盾は男性の作家にもよくあることではありますが(女性キャラは極端に胸が大きいロリであり、男性キャラは情けないタイプとして描かれる、など)山岸凉子という優れた作家がここまでその苦悩から逃れられないということにはやはり興味を持ってしまうのです。
萩尾望都の作品にこうした男性への劣等感はほとんど感じませんし、萩尾作品にはいつも背の低い太ったイケメンでない男性が美女と結婚したり活躍したりしているので萩尾氏はかなりこういう太めタイプが好きと思えますよね。顔の良い男はあまり何もできないと描かれたりしていてバランスが取れています。

山岸凉子は親に対してのコンプレックスも強いのでここは萩尾氏と対照的とは言えませんでした。

さてこういう風に両作家の中期まではそれぞれの強いコンプレックスがそれぞれの作品に強い影響をしていて個性のある作品を産み出させていきます。

時間が来てしまったのでこの続きはまた後で書くことにします。山岸凉子・萩尾望都の後期の変化はどのようになっていくでしょうか。



「殺し屋1」山本英夫

2019-03-08 07:02:53 | マンガ


ずっと以前本作原作の映画(DVD)を観て以来初めて読むことになりました。(ずっと以前といっても映画がDVDになったのが2002年となっているからそれ以降ではあります)

しかもマンガが無料公開になっているおかげでの読マンガです。

映画を観た頃は一番映画鑑賞にはまっていた頃だったと思うのですが、三池崇史監督作品にもかなり惚れ込んでいた時期でしたし浅野忠信・大森南朋・塚本晋也などの出演(監督)映画を夢中で観まくっていた頃です。
「殺し屋1」はその集大成(とまでは言わないかもですが)のような感もありましたかね。
特に浅野忠信がエロくてかっこよかった印象があります。原作マンガのこのオヤジを浅野忠信にしたことに感謝したい。(原作のオヤジファンは異論でしょうが)
1が大森南朋なのもよかったです。

というわけで原作マンガのほうですが、ネタばれになりますのでご注意を。





とにかく映画で残酷描写この上ない感が最高にきつい作品だったのでマンガでいきなりグロショック!ということはなくて助かりました。正直に言うとグロは苦手ですし、映画を観た頃もかなり辛かったものですがあの頃は韓国映画も観まくっていたせいもあって(当時の(今もかもしれませんが)韓国映画は残酷ものばかりだったので(しかし面白かった))グロを観ずに映画を観れるか、くらいの感覚でした。(いやグロくない映画もあったのですが、興味をそそる映画ほどグロ系が多くて)グロ趣味か、と思えるほどグロ映画を観てた気がします。
原作マンガも映画同様にというかメジャーマンガでここまでグロ行為を描かなかければいけないのか。作者にここまでグロ行為を描かせるのは何なのか、とすら思えてきます。
一人の(実際は一人じゃないだろうけど)人間がグロ行為の描写の線一本一本を描き画面を埋め尽くしているわけです。

が、しかし世界は現実のグロ行為に満ち満ちていて実際はこのマンガなどソフトであると思えるような残虐行為が行われていることを思いもします。
特に幼い子供に対する残虐行為の怖ろしい惨たらしい現実にフィクションは勝てそうにありません。


とはいえ、フィクションは現実の一部を切り取りそれをさらに戯画化したものなのだから当然なのです。

映画もそうでしたがマンガでも共感してしまうのは垣原雅雄のほうです。作者は垣原に憑依して言葉を放ちます。絶望ばかりを味わってきた垣原は1によって初めて「希望」を持ちそのために初めて「苦痛」そして「死にたくない」という気持ちを持つ。
なんという究極の恋愛なのか、というマンガ作品でした。


そして1も垣原もすべてはジジイの夢の中で動かされていた、ということなのでした。



ほんとうにね、絵も話もグロも全部嫌で退けたいのに一気に読んでしまうというのはどういうわけなのか、そこが知りたいですよ。

リンクしておきますね。
【期間限定無料配信】
 ※全話誰でも無料期間は2019年3月31日までとなりますので、お早めにお楽しみください。
とのことです。

殺し屋1

「イエス Jesus」安彦良和

2019-03-05 07:19:48 | マンガ


安彦良和氏の歴史作品のスタンスがとても共感出来て好きなのです。ずば抜けた作画とキャラクターの魅力は言わずもがなですが。

それでかなりのマンガ作品を読んできましたが、時々この素晴らしい絵がその創作の評価をブレさせているのでは、と思う時があります。あまりにも絵の技術が卓越過ぎるがゆえに歴史考察力に対して目が向けられていないのでは、と危惧してしまうのです。
それはまた氏の崩れない絵と同じように物語もまた歴史を崩してしまうような荒唐無稽なものがないためかもしれませんが。
じっくり読み込ませてくれる安彦歴史ものはとても自分にしっくりくる感じがあります。

さて表題の「イエス Jesus」です。
この物語も無名の若者であるヨシュアの目から見ていった救世主“イエス”という設定になっています。とはいえこれは安彦氏の勝手な創作ではなくヨハネの福音書の「イエスの愛した弟子」が誰か判らないことから生まれたものであるということを「あとがき」で書かれています。

以下内容に触れますのでご注意を。






安彦氏の歴史マンガを続けて読んでいるといくつかの同じエピソード、表情、台詞、構図などに出会ってしまうことに気づかされます。
それは彼の表現が似通ってしまったからではなくまさに「そこが描きたい場面」だからなのでしょう。
例を挙げると本作「イエス」でヨシュアが自分の犯した罪に気づき認めイエスにすがりつきながら泣く場面があります。かつて自分の母親を見殺しにしたことを悔いた為です。
同じように「我が名はネロ」でネロがレムスに対してすがりつく場面があり、「ジャンヌ」ではジャンヌの生まれ変わりのように登場するエミールにジル・ド・レー、そして王太子ルイが涙を流して許しを請います。
安彦氏の作品ではだからといてその後、その人が生まれ変わって善人になるわけではないのですが、自分の罪を自覚し涙を流して許しを請う、ことがひとつのカタルシスになっているのだと思われます。
「虹色のトロツキー」は明確なそうした表現はないですが主人公ウムボルトがどんなに行動しても複雑に絡み合う世界に対し「何もできません。ボクには今なにもわかりません」と言う場面がそうであるように思えます。


「イエス」では無名の主人公ヨシュアは様々に思い乱れながらイエスに付き従っていきます。
そしてイエスの最大の奇跡である「復活」を仕上げるのです。

「イエス」の描き方は書く人によって千差万別となるでしょう。超人であったか凡人であったかまたは悪人であるとか蔑む表現もあるでしょう。
安彦氏の「イエス」はとても現実的でありイエスの尊厳も存在します。この作品も素晴らしいものだと思いました。



「イエスが愛した弟子」は必然「安彦良和が愛した若者」となります。安彦マンガのヒーローはいつも端麗な容姿でそれも魅力のひとつです。時には不格好な主人公でもいいのではないかと思ったりもするのですが、これは安彦作品の特徴で揺るがせないものなのかもしれません。「天の血脈」では眼鏡で小柄な主人公になりましたがそれでも時々かっこよくなってしまうというのがおかしいです。
そして主人公は思い悩んで歪んだ考えをしても核では正しいことを行いたいと思っています。そこにもとても惹かれます。

読まずにいられない山岸マンガ

2019-02-16 07:20:31 | マンガ


日本でのマンガというメディアは複雑で難しいものなのにそれを一人でこなすことがほとんどです。
アシスタント、というお手伝い、のスタッフはいますが、ストーリー・構成・セリフ・文章・キャラデザイン・作画などを分担して製作することが稀にはあっても普及しないのはそれらすべてを含めたもので作者を表現するのがデフォルトになってしまっているからなのでしょう。

私は実を言うと少女マンガのキャラクターデザインがどうしても心底好きになれないのですが、それなのに幾度となく読み返してしまうのは少女マンガなのですね。
そこはとても自分でも不思議です。

特に年老いてからも読み返し続けているのは山岸凉子・萩尾望都のふたり。山岸凉子さんの絵は子供の頃凄く苦手だったのになぜ今はこうも読んでいるのかと思ってしまいます。

さて、先日のようにバレエ映画を見た後などはすぐに山岸凉子マンガを手に取ってしまいます。
今回は映画の中のシーンが「黒鳥」を思い起こさせたので「牧神の午後」という単行本を手に取りました。
この本は一作目がニジンスキーを描いた「牧神の午後」二作目がその「黒鳥」後の3篇が山岸凉子さんのエッセイになっているというお得な一冊です。
「牧神の午後」はほぼハーバート・ロスの映画「ニジンスキー」をマンガに書き起こしたもののようにも思えますが、そこに山岸凉子の解析が入ることが重要な要素なのです。

ニジンスキーはロモラという女性と結婚したのだから同性愛者ではなくディアギレフとは強制された関係だったとする方もありますが、私はそんな単純なことではないと思います。
映画「ニジンスキー」や山岸凉子「牧神の午後」に描かれた微妙な感情であるのではないでしょうか。
ここに描かれたニジンスキーの狂気が別作品「負の暗示」につながるようにも思えてしまいます(内容は全く違いますが)


「黒鳥」
実在のバレリーナ・マリア・トールチーフを語り手にして描かれた物語です。
マリアと結婚した有名な振付家バランシンがミスターBという名前で登場します(そのことを表記されてはいますが)バランシンに霊感を与え続けたのは出会った若く美しい女性たちで、その出会いごとに彼はその女性たちと結婚、そして離婚を繰り返します。
その行動は「男性は若く美しい女性を求める」ことを極端に嫌悪しというか憎悪する山岸凉子の感性に酷い衝撃を与えたのだと思います。
このことも「バランシンとマリアは離婚後も仲が良かった。このマンガの描き方は間違っている」という文章を見つけましたが、仲良くしていたとしてもマリアの心の中は判りません。
作中にも描かれていますがバランシンは実際悪気はなく純粋に若く美しい女性に惹かれているのでしょう。そして結婚した女性には心から忠実に献身していると自己を信じ切っているのですが女性から見ればそれは裏切りなのだと山岸氏は描いているのです。
悪い人ではないから仲良くはできても異性として愛することはできないのです。
自分の中の女を殺されてしまうからです。
短編ですから単純に描くという技法もあると思います。

怖ろしい二つの短編の後はエッセイマンガでこちらはほっとします。

少女の頃バレエを学んでいた山岸凉子さんが40代後半になって再び教室に通い始める、という話を楽しく描いています。男性編集長を巻き込んでの参加だったのですが、なんと無理をして骨折をしてしまうという事態に。それでも頑張り続けるのがすごいです。
しかも他にも多々困難が待ち構えるドラマチックな展開です。
発表会を終えた後は真っ白な灰になていたという・・・。

バレエというと若い男女のもののようですが実際は年を取ってから「健康のために」というようなことで始める人も多いのですね。
緊張感あふれる発表会のどきどきも楽しそうです。

2つ目のエッセイにはなんと首藤康之さんも登場してのレッスン。
それにしても山岸凉子氏のバレエマンガになれてしまうとこのポーズの描き方が当たり前になってしまい、他の人が描いたのを見るとあまりの下手さに(ほんとに失礼な言い方ですが)驚いてしまうのですよね。
重心の置き方、手足の角度や線の描き方、衣装や靴の描き方、山岸氏は簡単な線ですらっと描かれているのですが他の人の絵を見るとすべて少しずつおかしく見えてしょうがないのです。
これは思いもよらぬ副作用でありました。
(もちろん、上手い方はうまく描けていますけども)