まずは「ロジカルシンキング」が苦手とされるもしくはそれが大嫌いというより軽蔑している日本という国の中でそれを有効に用いることも難しいのだと思えますが、だからといって論理思考することをやめるわけにはいかない。これロジカルか否か。イロジカル。
ネタバレですのでご注意を。
単純な思考がロジカル=大事。
「広い視点」で考えることに意味はない=これ。この本で一番面白い箇所です。
「広い視点」で考える、というととても頭が良い人のように思えますが実は思考が混乱しているというのが面白い。ここを抜き出してしまうのはヤバいことかもしれません。
広い視点で考えてしまうと思考は混乱する。大切なのは「もっとも重要な点をとらえること」
つまり服を買う時、「こっちはデザインが良い。でもこっちは安い。どっちにしよう?」は思考の混乱。今重要なのは何を基準にするのかを決めるということ。
経済が問題なのか。デザインが問題なのか。
それをごちゃごちゃにして考えるのは論理的ではない。
人間はいつもこれをとっちらかしているわけですね。
一番大切なのは平和、とは言う。
しかし「でも、向こうが悪いところが多い」「向こうから謝るべき」とばかり言ってる。
一番平和が大切ならどうすればいいか、を考えていくべき。
あれもこれも、という限り論理思考はできない。
交渉はフェアであろう、という項目も顔を赤らめる人が多いでしょう。自分もそうです。100万円の価値がある、と考えたものに「80万円でいいですよ」と言われた時、「100万円支払います」と言えるか。これも難しい。
水平思考は論理的ではない=面白い。
質問に質問を返さない=これも日本人多いですよね。むしろ頭が良いと思って使ってる人が多いように思えます。
「お隣同志仲良くしたほうがいいとあなたは思わないのですか?」
「それがなにか?」
みたいな。
してやったり!と思ってる感が強いのですが、いつも頭悪いなあと思ってしまうのは当然だったわけですね。
冒頭で日本ではロジカルシンキングが成り立たない(ことが多い)ことを書きましたけど、やはり論理思考は大切です。
それは自分を強くすると思います。
なにが正しくて間違っているかを考えることは大切です。
論理的思考というと真っ先に思い出すのはスポックですが今彼のwikiを見に行ったら「日本人がモデル」と書いてありました。まじか!最も論理的でない人種がモデル?
イロジカルすぎる。嬉しいけど不可解。
そしてヤン・ウェンリー。
彼の論理性を聞いていると論理というのは平和的だと思います。
戦争は論理的ではない。その損失を考えると。
戦争によって急激に発展する、としても緩やかに発展していけばいいのではないでしょうか。
はっきりわかるように伝えよう=大切なことですね。難しい言葉ではなく誰もがわかる言葉でわかりやすく伝える。それができる人がもっとも素晴らしい。
著者について何も知らず何気なく手に取って読み始めたのですが、こんなことを書いているなんて、と思える箇所が幾つもある一冊でした。
後で検索してみると著書も多く書かれていて幾つかの受賞もされているしテレビで顔を見たこともある人物なのですね。レビューを見ても「普通の道徳観」という評価から「中高年にとって大変ためになる」というような絶賛までありますが「ひどい内容」とまでは書かれていません。
確かに細かな項目が多々に渡って書かれていてその多くは特に反論するほどもない内容ですが逆に凄く感銘を受けることはないうえに「これは現在書かれた文章なのか」とがっくりくる部分もいくつもあるのですね。
今回はそこを書いてみたいと思います。
まずは第一章「今までの価値観が通用しない時代」1大人たちの非道徳的な振る舞い、の中の“パワハラ、セクハラがいけないのはわかるけど・・・”です。
もう項目からしてむっとなってしまうものですが、中身は全部取り出さねばならないものになります。
飲み会では軽口をたたきあったりするもの、というのは良いのですがそれが「絶対に触れられたくないところに触れられた」「傷ついてトラウマになった」と言われてしまうほどのもの、というのはどういうことなのか。
危なくて恋愛の話はできません、そうなるとそもそも「飲みに行く」ということを何のためにするのか、判らなくなってくる、という文章に驚いてしまいました。
「何のために一緒に酒を飲むのか」といったまるで哲学のような問いをあらためて考えねばならない時代になったのです、というのなら本気で考えていいのではないでしょうか。
ここでいうセクハラとは書かれていないけど女子学生との飲み会ということなのでしょうが、女子学生に恋愛の話だけをするのが目的、というのはどういうことなのか、恋愛の話以外なら「何のためなのか判らない」というのはどういうことなのか、私には不思議です。
例えば小説でも映画でもマンガでも趣味についてでもスポーツや花や星や科学やオカルトについてでも楽しい話題は山のようにあるのではないでしょうか。
「恋愛の話ができない」=「何のための飲み会か判らない」というこの著者の考え方は謎すぎます。
そして「で、どうなの?みんな彼氏とかいるの?」くらいの会話は問題ないように思えます。」と書かれていますが問題ありますよ。
何故女子学生が(ここ男性じゃないですよね)教師に彼氏がいるかどうか答えなければならないのでしょうか。それを聞くことを問題がない、と考えていること自体がすでにおかしい。
セクハラがなくならないわけです。こうした「知識人」として有名な方でも初歩からして間違っているのですから。
そしてそうならないために(セクハラしないために)まずルールをきちんと知っておかなければなりません、と書く。
ルール、ではなくこの方「道徳」を知るべきなのですね。
って、その人が「大人の道徳」という本を書いている・・・女性への軽口には道徳は必要なし、と思っておられるのでしょうか。
レビューでここを批判することがなかったのも残念でもあります。
皆さんに伝えたかったのは以上なのですが続く「源氏物語」と「ロリータ」はわたしとして非常に不満で書いてみます。
実を言うとパラ読みした時、ここが目に入り「お、『ロリータ』について書いてる」と思って読み始めたのですがとんでもない勘違いの文章だったのでこちらもがっくりしたのです。
まずナボコフの「ロリータ」はロリコン男ハンバートが少女を拉致していった様を一人称で書いた、という構成からなる小説なのでその文章そのものが「からくり」かもしれない、というギミックを前提として成立するものです。その男がしれっと「源氏物語」の紫の上を引き合いに出すのを日本の大学教授が大喜びしているのも奇妙なことです。確かにナボコフが我が国の古典も知っていたというのは誇れることかもしれませんがナボコフであればハンバートのようなクズが紫の上を引き合いに出して悦に入ってる滑稽さを描きだしている、と表現するべき事柄でしょう。齋藤氏がそこを自覚しながら書いているのか、この文章では勘違いで書いているとしか思えません。
「源氏物語」の時代でしかも貴族社会であれば紫の上を妻にするのはそこまで不道徳でなかったでしょうし、中年男といっても二人の年齢差は10歳ほどなので紫の上が12歳で源氏が22歳ほどとすれば中年男と言うには若すぎるようです。現在の感覚でおかしいのは確かですが。
しかも中年になった源氏は再び少女の妻を得るはめになるのですがこの時はもう興味がわかない、という人格になっているので単なる女好きだっただけで特別にロリコンだったわけではないでしょう。どちらかというと年上の女性との恋愛がけっこう多いですしね。
一方のハンバートは筋金入りのロリコンで拉致したロリータとの間に娘が生まれて10歳くらいになったらまた同じように弄び、そのまた娘ともやれる、と願望を述べています。源氏とハンバートを同列に語ってはいけません。
とは言え私は文学としての「ロリータ」は何度も読み返すほど大好きなのです。
ここまでギミックに凝った小説は無い、と思っています。ナボコフ「ロリータ」の面白さは膨大な知識と策略です。反道徳もその一部なのです。
「源氏物語」を知っていた、やってはいけないことをやってしまう、程度の文学ではないのですよ。
倫理、ということについて考えていきたい、と思ったので身近で感じたことから書いてみようかと思います。
人間生活の秩序つまり人倫の中で踏み行うべき規範の筋道と書かれています。簡単に言えば、人の交わりの中でのなすべきこと、と言うのでしょうか。
そういうと子供の頃からの大問題だった「バスや電車の中でお年寄りに席を譲る」という項目が思い出されます。
内気で話下手な日本人が一番苦手とする課題なのかもしれませんが、この問題、子供時代には気持ちはあっても勇気が出ない、ということでかなりハードルの高いことでもあり「思いやりを持つ人間になる」第一歩であり重大な試験でもあったように思えます。私自身といえばなかなか電車・バスに乗らないし乗ったら乗ったでそういう機会も少なくしかしその機会に巡り合ってもやはりやれたかどうか、記憶がありません。
(今現在は昔以上に公共の乗り物に乗らないので何とも言えませんが勇気だけはあると思っています。ただし逆に譲られそうな年齢になってきました)
今も子供たちにとっては問題であってほしいと願っていますが、ツイッターなどを見ていると席を譲るどころか妊婦さんや車いすの方に対し、「迷惑」「時間を考えろ」「別の乗り物にしろ」などと言う或いは言われたという言葉が並んでいます。
子供時代にあれほど思い悩んだ倫理学はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。
先日ケント・ギルバート氏の本を読んでいたら「日本人は素晴らしい。買い物の時、一万円を出すときに「すみません、大きいのしかなくて」と謝る。こんな心遣いをするのは世界中で日本人だけだ」と書かれていました。どういうわけか、他でもネトウヨ系の方はこの「大きいのしかなくて」と謝る日本人を物凄く誇りに思っているようなのですが、こういう気づかいは果たして特別な美徳なのでしょうか?
私は商売をしているので実体験していますが「一万円しかなくて」と言われることに感激はしません。はっきり言って一番良いのはぴったりの金額が払えるよう小銭を用意してきてくれていることなのは当然です。でも店としてお釣りを用意しているのもまた当然なので一万円を出されるのは当然の行為としか思っていません。
出し方が乱暴でもなければそこに嫌な気持ちを持つわけはないし、正直に言うと余計なセリフが増えるだけでどうでもいいことなのです。
むしろ日本人の美徳として言えるようになりたいのはやっぱり「日本の電車やバスに乗りと皆が席を譲ってくれるし子供が泣いても皆であやしてくれる。凄く良い人ばかりだよ」という賛辞ではないでしょうか。
一万円を出すときに「あー大きいのくずされちゃうな」とか「ここで両替しちゃえ」という気持ちを持つことが皆無だとは言えないし、「すみません」という言葉にそういう下心が見え隠れしてしまうのを隠す意味合いがあることはなんとなく皆思っているでしょう。それはそれで別に構わないのですが。
そんなどうでもいいことより、「妊婦さんやお年寄りや弱者のかたに電車・バスで席を譲る。泣く子供がいても許すだけじゃなくてみんなであやしてあげる」という国のほうが絶対に良いのです。
「一万円すみません」より「この席どうぞ」のほうが良いのです。
ましてや「痴漢です。助けて」の声に「電車が遅れる」「冤罪だろ」という声が真っ先に上がる国に倫理があるとは思えません。
言うだけでなく実行が大切、と思っていますが私はバス・電車に乗らないのでどうもそっちでは実行が伴いません。せめてものつぐないにスーパーなどに行ったとき困ってるお年寄りがいないか、気にしています。(そのくらいしか外出していないのです)
自動ドアじゃない扉があってとても重いのですよね。後は物を落としたりしている時さっと取ってあげられるか、とか。
でもまあうちの方は田舎のせいなのか、皆さん優しい人が多いように思います。
救急車に道を譲る、など当たり前と思っていたらそういうことすら守られていない、と聞き、本当にこの国大丈夫なのかなと思ってしまいます。
こういうの特別なことではなくさっとやれるのがかっこいいことなのです。自慢などしなくても当たり前にさらっとやれるようになりたいのです。
「ココシリ」の鮮烈な映像で陸川監督の名前は記憶に残るものとなっていました。
その陸川監督が日本軍による南京大虐殺映画を製作したと聞いてすぐ驚くとともに早く観たいと期待したのですが、日本での公開はなくDVDにもなっていないと言います。
中国での公開が2009年となっていますからすでに10年が経つにも関わらず
いまだに公開されない中アマゾンプライムで配信されたのはなんらかの動きがあってのことでしょうか。とにかく、この映画を観たいと思っていて観れなかった者たちにとってはネット配信という一つの選択があることに感謝するばかりです。
以下、ネタバレがありますのでご注意を。
小さな諸事情で鑑賞するのが今になってしまいましたが、正直自分が思った以上、というか遥かに超える素晴らしい映画でした。
この映画の最初の感想として言うべきことなのか、ではありますがなんといってもモノクロームの映像の美しさ、映し出されるひとつひとつのカットの鮮烈な印象が物語とともに焼き付けられていきます。
こうした迫力のある映像というのは以前から中国映画の醍醐味でありました。
映画好きであるならばまずはこの映画の優れた映画作りの巧みさに感動しなければならないでしょう。
そして監督自身が書いた脚本は驚くほどに公平で落ち着いた視線で構築されていることを感じます。
この怖ろしく残虐に悲しい歴史を本来なら激しい怒りを叩きつけても足りないほどの苦しみに対し陸川監督はあり得ないほどの配慮を見せていることが伝わってきます。
その冷静さを保つために映画の多くの部分がひとりの日本兵の若者の視点で物語られます。そのために本国中国での上映時に物議を呼んでしまったと言われていますが、そういった自国での反感を買うことは判り切ったことであるのに陸川監督が公平な作品を作ったのはまさしく日本人にこそこの映画を観て欲しかったからに違いありません。
日本軍の兵士として、人間性をまったく感じない冷酷極まりない軍人・伊田と対照的に兵士・角川は慰安婦に恋をしてしまう真面目さ、一途さを持った若者として描かれます。
映画のかなりの割合がこのうぶで真っ正直な若い日本兵の立場で表現されていくことは観る者を彼に共感させてしまいます。特に最後の場面、彼が日本の祭りに没頭していく様を見せ、その後、彼は囚われ殺されそうになった中国人の親子を逃げさせた後自害する、という結末は鬼子である日本兵の表現ではありません。
一方、冷徹な軍人・伊田の行動は日本軍の狂気そのもののように見えます。何故彼はこんなにも残虐なのか、このような狂気が存在するのかとまで考えてしまいます。
しかし昨今の日本のネットでの中韓に関するネトウヨ氏たちの発言「自分たちこそが正義であり《あいつら》はいなくなって欲しい」というような表現に確かに同じ狂気を感じてしまいます。本人たちは「自分たちは立派で美しいのに(同じ東洋人の)あいつらは最悪」ということで喜びあっています。そういった考え方こそが怖ろしいことに気づかなければなりません。
しかし、中国人である陸川監督は対照的な日本兵を描くという手法で冷静に判断しようと試みます。しかも私には優しい若者兵士のほうに重点がおかれているようにさえ感じます。
同じく中国人側も果敢に戦う青年をリウ・イエが演じ、逆に日本軍に「ともだち」といって取り入ろうとする中年男性を描くことでバランスをとっています。
こちらも戦う男よりも姑息な行為をとっている中年男性のほうにより思い入れを感じます。
南京大虐殺として大勢を撃ち殺す場面は壮絶で惨たらしいものです。戦う男(リウ・イエ)はこの中で撃ち殺されます。幼い男の子を守って。従来の映画であればここがメインだったでしょう。
が、陸川監督がより心を配ったのはある意味の裏切り者にも思える中年男です。彼はドイツ人・ラーベに親しく仕え、日本軍とは「ともだち」という言葉を使って取り入り、保身を図っている男です。そうすれば自分の家族だけは守ることができる、という企みが彼にあったのです。
ところが日本軍兵士は彼を特別な存在として考慮することさえありません。彼の家族もなんの待遇もとられることもなく大事な愛娘はまるで何かの物体であるかのように躊躇もなく高い窓から放り落とされてしまったのです。
この場面は陸川監督が最も悲しく残酷な場面として描いていると感じます。
その後日本軍に取り入ろうとしていた男は死を選びました。再び子を宿した妻を逃して。
この映画が日本で公開されないのは何故なのでしょうか。DVDとして作られ販売されることすらないのは?
陸川監督は日本人にこそこの映画を観て考えて欲しいと願い作られたと思います。そう願うだけの価値がこの作品にはあります。
10年の月日が経ちました。いつかこの映画が公開される日がくるのでしょうか。
一般に目にする時があるのでしょうか。
その時「なぜこんな優れた作品をすぐその時日本で観なかったのだ?まったく理解できない」と言える人間になれているでしょうか、日本人は。
さまざまな議論をすることが大切です。
そのために様々な表現の自由と権利が必要です。
反面、許されない表現もあります。
例えば今問題になっている、北方領土問題に立ち向かっている方々に「戦争するしかないですよね」などと国会議員が発言するのは表現の自由ではありません。
しかしこの映画には多くの人が鑑賞し話し合うことができる価値があります。
是非、この映画作品を観てください。
陸川監督の思いを感じられるはずです。