ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

一番の楽しみ

2019-02-28 07:12:09 | 思うこと
年を取っていて嫌になることは様々あるけど、ゲーム世代でないことだけは良かったと思ったりします。というとそれは個人個人で同世代でもはまってる人もいるし、若い世代でもはまってない人もいるのだから、と言われることは必至ですけどね。

いやゲームにはまっている方は絶対にこの楽しみを知らない方が不幸だと言われるでしょうし、私自身そう思ってはいるのですよ。でもゲームに取られてしまう時間を思うとやはりはまらなくてよかったと思ってしまうのです。

ただでさえ本を読む時間が少ないのにこれ以上読書の時間を奪われたくない。物凄い頭脳をもっていたらゲームやりつつ本も読めるかもしれませんが私にはそういう頭脳は搭載されなかったのです。
そして読書をするとこの楽しみを知らないなんてな、と思ってますから、結局そういうことなのでしょうね。

ゲームをやりたい気持ちはあります。時間と金がたっぷりあるのならね。結局は一番をなににするかってことですかね。

「聖書を語る」中村うさぎ・佐藤優

2019-02-28 06:05:49 | 
佐藤優氏の本を読みたくて図書館で探していました。田舎の小さな図書館なので蔵書が少なくて佐藤優はほとんどないのですがやっとこれを見つけました。
中村うさぎ氏と佐藤優氏による聖書についての対談なら面白いかなと軽く思って借りたのですが、しょっぱなから「面白い」なんてものではない衝撃の連続でした。

対談という形式は読みやすいものですが、二人の語り口が極端に違っていて、ハイテンションで口の悪いうさぎ氏と常に冷静沈着で丁寧な口調の佐藤氏の話しぶりだけでも読んでいて楽しいです。
あっと思ったのは佐藤優氏のうさぎさんの分析です。
彼はうさぎさんが極めてピューリタニズムだと言います。ピューリタン(清教徒)というのは厳格・潔癖・きまじめであるわけですがうさぎさんは「私の行い(買い物依存症・美容整形手術・ホストクラブ通い・デリヘル経験など)はその逆じゃないか」と反論します。すると佐藤氏は「だからこそですよ」というのです。
そうなのか!と思いました。

潔癖・生真面目・厳格であるがゆえにそういう行動に走ることが彼女の反逆であるわけなのか。
確かにそれらを「いけないこと」だと思わなければ過剰にそこへ入り込む必要はないのかもしれません。真面目な人ほど没入してしまうのはそういうことなのかと今更理解したように思えました。

まだまだ読み始めたばかりですが、あまりに感心してしまったwので少し書いてみました。
さてまた読んでいきますよ。

100分de名著:オルテガ「大衆の反逆」保守とは何か

2019-02-27 21:00:00 | TV
100分de名著、興味深い本が紹介されることが多くて楽しみです。そして現在のことを皮肉ってるのかな、と思うことがしばしばあります。
今回のオルテガ著「大衆の反逆」はまさにそれでした。毎回なるほど思いながら見ていましたが特に最終の第4回 「保守」とは何か、は現在の政権及びそれに追随する人々に向かっての当てこすり?!としか思えない感じで凄くおかしかったし、本当にそうだと思いました。

伊集院さんが言うように「保守」というのは「あの頃はよかった」というような主義なのだと思っていましたがそうではないのですね。

中島教授が言われたのは
「どんなに優れた人でも、エゴイズムや嫉妬からは自由になることはできない。人間は知的にも倫理的にも不完全で、過ちや誤謬を免れることはできないのだ。こうした人間の不完全性を強調し、個人の理性を超えた伝統や良識の中に座標軸を求めるのが「保守思想」だが、オルテガはその源流につながる。歴史の中の様々な英知に耳を傾けながら「永遠の微調整」をすすめる彼らの思想は、急進的な改革ばかりが声高に叫ばれる現代にあって、大きなカウンターになりうる」
ということでした。
wikiを見たらちゃんと「保守主義者たちは、基本的には人間の思考に期待しすぎず、「人は過ちを犯すし完全ではない」という前提に立つ[5]。そして謙虚な振るまいをする」と書かれているではありませんか。(すぐwikiを頼ってすみません)

現在保守と呼ばれてる方ってなんかそうじゃないような気がしますが、本来の保守の姿とはこういうものなのですね。
いやこれだったら私も保守なのかも、と思いました。

上の文章はNHKの100分de名著のサイトから抜粋させてもらったのですがそこが「プロデューサーAのおもわく。」というタイトルでますますおかしいですw(誉め言葉ですよ)


そしてその中に安倍みちこさんの「みちこ’s EYE」というコーナーがあって「敵と共に生きる!」という言葉に感銘を受けたと書かれていました。
「中島さんの解説を経て、「自分は間違う。だから、自分とは違う人、自分と対立する人、つまり敵こそ尊重すべき」「耳が痛い意見にこそ耳を傾け続けよ」と受け止めました(みちこ’sEYEから抜粋)」
ちょうど今日意見の食い違いがあってへこんだばかりでした。でもそういう対立こそ大切に考えなければいけないのだと思いました。ちょうどよく読んでよかったです。
番組は見ていたのに文章で書かれてやっと思い知るというw
敵、といっても外側ばかりでなく内側にいる敵もあるということですね。


アメリカ伝統の受賞ロードムービー

2019-02-27 06:32:04 | 映画


先日行われたアメリカアカデミー賞授賞式を楽しみにして観ていました。
日本人監督の二つのノミネートももちろん気になっていましたし(お二人とも大好きな監督というわけではないですが特に「万引き家族」の評価は気になりましたね)他にもいろいろ興味ある作品があったからです。
なかでも作品賞は(観てはいませんが)「ローマ」かまさか「ボヘミアンラプソディ」?などと考えておりましたが、なんと聞いたこともなかった「グリーンブック」という作品が作品賞受賞で驚きでした。
画像も車に普通の格好の男がふたりなんとなく座っているだけのものであまり目立つ感じではなかったからです。

その後で「グリーンブック」の粗筋を読んでみると「人種差別が色濃く残る1960年代のアメリカ南部を舞台に、黒人ジャズピアニストとイタリア系白人運転手の2人が旅を続けるなかで友情を深めていく姿を、実話をもとに描き」とあります。
あーそうか、アメリカ伝統の物語が賞を取ったんだ、とその時気づきました。

「アメリカ伝統」といっても歴史の短い国の事ではありますが特に映画の中で「出会った複数の男(女)が旅をしていくなかで強いつながりを持つ」という物語はなんどとなく描かれてきたものだと思うのです。
ロードムービー、というこのジャンルは広大なアメリカという国ならではの伝統芸になるのでしょう。

ガンマンなどのアウトローが放浪していく話は数えきれないほどあるでしょうし、カウボーイが作り上げてきた国でもあります。後にはそれがオートバイや車に乗った男たちへと変わっていきます。
例えばかつてはジョン・ウェインが登場した映画であり、さらにその伝統は「二十日鼠と人間」となり「イージーライダー」ケルアックの「オン・ザ・ロード」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」そして女同志の「テルマ&ルイーズ」となりドラァグクイーンの「プリシラ」となっていきます。
まだまだ全然足りなくて「明日に向かって撃て」男女コンビの「俺たちに明日はない」老年の「ストレイトストーリー」ドタバタギャグで「ジム・キャリーはMr.ダマー」父と娘の「ペーパームーン」
他にも「スケアクロウ」「真夜中のカーボーイ」もそうですし大好きなガス・ヴァン・サントはロードムービーが多く「マイプライベートアイダホ」そして「ジェリー」という異色作もあります。リンチの「ワイルド・アット・ハート」も忘れてはなりません。

出会いの時は対立するほどの関係であっても旅をしていく過程で互いを知り強い繋がりを持っていく物語はアメリカらしい荒々しさと強引な感動を引き起こします。
私もロードムービーが好きです。見たものでもここに挙げたのはほんの一部分です。

「スターウォーズ」や「スタートレック」もロードムービーなのかもしれません。

そういえば「ノーカントリー」もそうでしたね。猫とのロードムービー「ハリーとトント」音楽ロードムービー「ブルースブラザーズ」そうか「ロード・オブ・ザ・リング」もそうでした。
ああ、昨日書いていた「ロリータ」もロリータとのロードムービーです。

「私の男」熊切和嘉

2019-02-26 07:11:43 | 映画


桜庭一樹原作と後で知ったけどそれは読んでいないのでここで書くのは映画「私の男」についてです。

映画を観る前は大概の場合役者とあらすじ程度は調べるものですなのね。主演の浅野忠信はとても好きな人なので文句なしなのですがどうやら「両親を失った少女が養父となった男と性的関係を続けていく話」と知って手に取るのをためらっていました。そういう類の話は手垢がつき過ぎてうんざりだしどうせ「ありきたりのロリコンもの」だろうと思ってしまったわけです。
ところが先日岡田斗司夫氏の以前の動画を見ていたらある人からの「この映画のどこが良いのかわからない」という問いかけに岡田氏が「見る人によってはっきりわかれるよね、それだけじゃない」という答えをしていたので見たくなり、まだ期限になっていないアマゾンプライムにあったのでちょうどよく鑑賞しました。


なるほど美しい映像は素晴らしいし浅野忠信はいつも通り彼らしい静かな演技で惹きつけられるものでしたし女優の二階堂ふみは初めて(と思いますが)観ましたがとても魅力的な表情を見せてくれました。
そして内容は私が最初想像したような「ありきたりのロリコンもの」とは大きく違いました。というか浅野忠信がそういういつものパターン映画に出るわけもないので彼を信じるべきでありましたよ。

が「ロリコンもの」という表現はある意味当たっていたかもしれません。「ありきたりじゃないロリコンもの」だったわけです。
というのはこの「私の男」はナボコフの「ロリータ」というクエスチョンへのアンサーのひとつではないのかと思ったからです。

ここでちょっと読んでいない原作小説への思いを寄せます。というのは映画監督は男性ですが原作者の桜庭一樹氏は女性であり、女性だからこそのこの物語ではないかと思うからです。


さて映画とナボコフの「ロリータ」のネタバレになります。ご注意を。

ナボコフの「ロリータ」は凄く面白い小説です。そしていろいろ考えさせてくれます。
「ロリータ」はあくまでも中年男の独白による一人称小説でロリータである少女の思いは微塵も書かれていません。一人称だから書きようがないわけでそこがまさにこの小説のトリックであり醍醐味なのですが、ここでちょっとその部分を知りたくなってKindleの無料サンプルだけ読んでみました。
思った通り(というのもなんですが)少女側の独白による一人称で書かれていました。
勿論桜庭一樹氏は「ロリータ」の女性側版というような単純な実験だけをしているのではなく一つの作品として優れたものに作り上げているのだと思います。
が、親が死んだことで養父になる、それも仕方なくというような成り行きではなく男側が積極的に養父になる、という部分にも一つの「鍵」を感じます。
「ロリータ」の男の一人称で疑問となるのは「ロリータは男との性交を実際はどう思っていたのか」ということが一つなのですね。一人称ならどうとでも書ける(もともと小説だから奇妙な表現ではありますが「ほんとうは気持ち悪い」と思っていても一人称なら「彼女の方から誘ったのだ」と嘘が書ける)からです。

「私の男」ではそこは同じようにロリータである「花」は男に対して仕掛けていきます。淳悟が花を襲ったのではなく花が淳悟を襲ったわけです。
そして淳悟は花に溺れ、花も淳悟に欲情していきます。

実はここがとても重要なのです。
もしこの物語を「ロリコンである日本人男性」が書いていたら「何も知らない花を淳悟が襲い、最初は恐れ抵抗していた花が次第に淳悟になついていく」というような展開をしていたのではないかと思います。
そういったものを「ありきたりのロリコンもの」だと考えて嫌っていたのですが本作はこれが真逆になっています。

女性も感じ方は様々ですから絶対ということは言えませんがこうした「中年男から無理やり犯され次第に喜びを感じ年を取っていく前に終わり」といったパターンは女性にとっては腹立たしい筋書きではないでしょうか。
あの最高級の古典である「源氏物語」がそのパターンで、そのためにあの物語は長きにわたって男性からの支持を受けたのではあるでしょう。紫式部は女性だと思いますがそのエピソードにおいて紫式部は紫の上を決して幸福になった女性ではなく不幸だったと描いているように私には思えます。


男性である映画監督熊切氏がどのように考えたのかはわかりませんが少なくとも映画はロリータである花の視点で描かれていると私は思いました。
淳悟は家族の愛を知らない男です。家族の愛を渇望しそれを手に入れ与えられました。
愛を受け入れたのはロリータである花ではなく、この作品では男の淳悟の方なのです。
花は淳悟にとって実の娘であり、同時に愛そのものであり、それなしに生きてはいけないものなのです。

花が成長し「他の男」と結婚するというところもナボコフの「ロリータ」と同じです。
が、その先は違います。
ロリコンであっただろうナボコフはここで養父ハンバートを去らせます。
ナボコフはハンバートにロリータと過ごした時間だけを与えましたが本作では花は淳悟を退出させません。
淳悟はこの後もずっと苦しまねばならないのです。
「ロリータ」では殺人が物語に決着をつける綺麗ごとになっていますが「私の男」での殺人はずっと引きずらねばならない怨霊のようなものです。
「ロリコンもの」では常に少女が犠牲者ですがこの物語では中年男が犠牲者となっています。「そう描きたい」「少女が加害者であり中年男が犠牲者なのだ」という物語なのであり、だからこそ女性がこれを見た時にどこかぞくりとする愉悦感を覚えるのです。

もちろんそう感じない人もいるでしょう。ネット記事で「私の男」映画上映の際に「私は被害者女性です」と訴え出た女性がいたというのを読みました。
少女期に性被害者になった女性は本当に気の毒ですがだからこそこの映画においては女性が加害者であってもいいのではないか、「いいのではないか」というのはまた奇妙な表現になってしまうのですが女性が常に被害者犠牲者になってしまう男性社会への殴り込み、という気概を私は感じました。
林真理子氏の原作小説に対する嫌悪感の記事も見ましたが(原作完読してはいないけど)かなり勘違いされていると思えます。
勘違いではなく、父娘で性交している、という事柄自体が気持ち悪くて作品の意味合いなどどうでもいい、ということなら確かにそこは「フィクションである作品をどう解析していくかは人それぞれ」なので仕方ないことでありましょう。

この文章を書く前に「BLにおける受けと攻めの価値」というような文を読みました。
女性が描く男性同性愛作品に男性同士でありながら「受け=モノを入れられる方=女性側=格下」「攻め=モノを入れる方=男性側=格上」という図式が常に問題視されるのは何故だ?というもので長年そういうものを見ている自分にとっても面白かったのですが、本作もまたそこが問題となるわけです。
「受け=モノを入れられる方=女性側=格下」であることを疑問もなく描ける者とそこに疑問を持つ者がいるわけです。
「受け=モノを入れられる方=女性側=格下」という図式は真実なのか?

本作での花は「女性」であり言葉としては「モノを入れられる方」なのも間違いではありませんが日本語としては「モノを入れる方」とも書けるわけです。この場合相手は「モノを入れさせられた」とでも書くのですかね。
そのうえで精神的には「受け」とはいいがたい「攻め」であり「格上」なわけです。

淳悟は「男性」であり「モノを入れさせられる」であり精神的に「受け」であり「格下」なのだと描くのです。

そんなことはあり得ない、でしょうか。
しかし当たり前のことを描くのが映画なのでしょうか。
ここではロリータである花が中年男の淳悟を手に入れたのです。