ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「レイプもセックスだと思ってた」性を教えることの大切さ

2019-06-09 15:16:12 | 女性

「勃起と射精」に拘泥する男の“性欲”と、ニッポンの「性教育」

「レイプもセックスだと思ってた」…まともに教えず、男を誤解させる自民党の政治的性教育

この二つのリンクは前編・後編でつながっています。

実はリツイートで後編の「レイプもセックスだと思ってた・・・」から読んで記事にしようと思ったのですが、前編があったのに気づいて順番で並べました。

だけどもしかしたら前編のほうがよくある話なので後編から読んだ方が入り込みやすいかもしれません。

どちらにしても読むべき記事であると思います。

前編で語られたのはこの時代になっても性教育というものがなかなか進んでいかないことですね。男性二人の会話ですが男性女性ともに教育が不十分であることがわかります。女性ももっと自分の体を知るべき、という説明に肯きました。

 

私自身(50代)性教育というものはまったく受けられなかったと言っていいと思っています。

なんとなく「そういうもの(性教育)は成長につれていろいろなとこで聞いていくものだ。セックスそのものは女性は結婚してからでいいだろうし、男性はいろいろで風俗ですますのもひとつだ」という風潮のまま来てしまっているように思えます。

もちろん学校によっては真剣に取り組んでいるところもあると思いますが、多くは私の学生時代とあまり変わっていないのではないでしょうか。

これもジョージ・カーリン語るところの「未来永劫教育は変わらない」なのかもしれません。無知であるほど経済はさまざまに動かせるからです。立派な教育を受けたら風俗や堕胎手術の費用もなくなってしまうじゃないかということなのでしょうか。

さまざまな教育が大切ですが「性教育」は人間が生きていくうえで欠かせないものです。これだけは真っ先に充実させていかなければならないものなのです。

上のリンク先では触れられていませんが女性向けの低用量ピルのことなど学生時代には知る由もありませんでした。あたりまえです。解禁が1999年ですから私は36歳になっています。それでも私は生理痛などが軽かったから良かったのですが重い女性たちの苦しみを思うと何故もっと早く(学生じゃないとしても)普及してくれなかったのでしょう。というか、現在でも普及しているとは言えません。いまやっとネットで「もっと活用しましょう」と呼びかけている状態ですね。すべての日本女性が当然のように使用するのはまだまだです。

それを一部の人々が「ピルを使う女はセックスにふしだら」などと意味不の言論をしているのにあきれ果てます。

 

リンク先に戻ります。

 

清田 これは自分自身にも当てはまることなんですが、男って自分の性欲について実は“よくわかってない”ような気がするんですよ。

 

これは女性だってそうだと思いますが、本当に大変な問題であります。

そして会話は続きます。

 

清田 はい、同著で坂爪さんは、「(男性は)女性の身体の評価や採点、支配や売買を通して、間接的に自らの性を語ることしかできない」とも述べていますが、まさにその通りだなと。

村瀬 それを考えるにはまず、「快楽としての性」をどう捉えるかが鍵になると思います。これには2種類あると僕は考えていて、ひとつは身体的なオーガズム、男の場合で言えば射精につながるような“性的快感”(からだの快感)です。そしてもうひとつは、触れ合って、ほっとして、安心して……という心理面で味わう“心的快感”(こころの快感)です。

 

この「心的快感(こころの快感)」というものは簡単に手に入るものではありませんね。

それには二人の人間が互いを認め相手を知ろうとする努力が必要になってきます。そんな努力を経て心的快感はあると思いますが、その努力をしようとする気持ちが少ないもしくはまったくないことを多く感じます。

 

村瀬 そうだね。まず100%。特に男子はそちらに囚われている傾向が強いかもしれない。この性的快感って自慰行為でも得られるわけで、実は必ずしも相手を必要としないものですよね。これは何も「相手がいないから一人で」という話ではなく、恋人がいようと、結婚していようと、高齢者になろうと、相手の有無に限らず自分だけの性的快感は自分で獲得できるという意味で。

清田 村瀬先生はそれを「セルフプレジャー」と呼んでますよね。

村瀬 はい、そうです。いい表現でしょう? しかし、もう一方の心的快感は、触れ合いやコミュニケーションの中で得られるものであり、基本的に相手を必要とします。それで、ここが重要なポイントなんですが、性欲というものにはそのふたつを求める気持ちが混ざっています。

 

この大切なことを性教育の中でされたことがどのくらいあるのでしょうか。

どういうわけか。「性教育などしたら世の中が乱れる」という奇妙な論理を持っている人が見られますがすべての男女が村瀬氏が言っていることをすでに理解していると言えるのでしょうか。私にはそうは思えません。

 

村瀬 それが単なる射精欲求ならば、これはもうセルフプレジャーで満たすことでいいんですよ。そうやって生理的欲求を自己コントロールできることは、自分への自信にもつながるはずなので。逆に、そのために相手を利用するのはやめるべきでしょう。相手は射精のための道具ではないからです。

清田 “相手の身体を使ったオナニー”という表現もありますね。よくヤリチン男性なんかが「いくらセックスしても心の空白が埋まらない」みたいなことを言いますが、それっておそらく「本当は心的快感が欲しいのに、それを得られるようなセックスをしていない」ってことなのかもしれませんね。

 

痴漢、セクハラ、レイプなどの身勝手な行為がなくならない理由がわかる説明ですね。

男性の方がセックスだと思っていたのが女性からすればレイプだったというすれ違いがあるのもこういうことなのです。

 相手を思いやる、セックスはふたりの心と体の触れ合い、という事を無視して愛し合えるはずがないのです。

 

そして後編へ続きます。

 

ここで村瀬氏自身の体験が話されます。失敗のあとで夫婦ではなしあって解決していったという話は感心します。こうありたい形です。

そして村瀬氏は学生たちに性教育を施し学生たちも積極的に勉強していくという、これも素晴らしい話でした。

 

しかしその後にされた話には驚きました。

 

 

村瀬 その後も順調に広がっていって、性教育の取り組みを新聞で取り上げてもらったり、書籍や講演会の依頼がきたりしました。1982年には「“人間と性”教育研究協議会」という全国的な研究団体の設立にも関わり、1989年からは一橋大学、さらに津田塾大学、東京女子大学で非常勤講師をするようになった。そして1992年には学習指導要領が改訂され、性に関する具体的な指導が盛り込まれるところまで到達したんです。

清田 1992年は“性教育元年”と呼ばれているそうですね。すごいです、まるで『プロジェクトX』のようです!

村瀬 ところがね……ご存じの人もいると思いますが、21世紀に入って以降、性教育に大きな逆風が吹き荒れるんですよ。女性の自立や性の対等・平等性などが進むことに、時の政権が危機感を覚えたんですよ。

清田 いわゆる「バックラッシュ」と呼ばれる動きですよね。

村瀬 そうです。特に今の首相である安倍晋三さんなんかは、第一次安倍政権の2005年に「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクト」を設置し、性教育を激しくバッシングしました。その事務局長を務めていた山谷えり子さんとは、フジテレビの討論番組で向き合いましたが、「性なんて教える必要はない」「オシベとメシベの夢のある話をしているのがいい」「結婚してから知ればいい」などというのがその主張でした。

 

ええ?知りませんでした。

まさかここでも安倍首相の名前を聞くことになるとは。性教育をバッシングする、というのはどういうことなのでしょうか。

勿論その性教育が間違っていたというのなら解りますが、「性なんて教える必要はない。おしべとめしべでいい」とはどういうことなのか。

人間にとって性とは単なるおしべとめしべではなく心の問題が重要であるのに国の首相がそれをバッシングする。そして女性の自立や対等・平等性が進むことに危機感を持つ?

私は最近になって「性教育が昔より悪くなっている気がする」と感じていたのは間違いではなかったのですね。

男女差別が以前よりひどくなっている?何故?という感覚が日増しにあったのは気のせいではなかったのです。

 

正しい性教育がなければ男女差別はより悪い方向へといきます。

そしてそれはますます少子化に拍車をかけていくのです。

 

性教育が正しく普及していかなければ、それこそ社会は乱れ狂ってしまいます。

政府がどうこうではなく私たちが動かなければいけないのです。


美醜にこだわる氏への答え

2019-06-09 09:29:34 | 女性

 

これまでも何回か、鴻上尚史氏の人生相がツイートで流れて来てこういった画面が目に入ってきてどういう答えをされたのかとクリックするのですが、鴻上氏の考え方はどうも私とそりが合わないようでブログで反論を書いたりしました。

それからもこの記事は流れてきて読むと疑問は湧くものの一々反論するのもどうかととどまっていたのですが今回のこの相談はどうにも反感が強すぎて書いてみようかと思います。

 

とはいえ人間の持つ「美醜へのこだわり」という問題に関して特別な意識や判断を持っているわけではないのですが、考えながら書いてみましょうか。

 

25歳の女性が自分の容姿にひどい劣等感を抱いている。そして世の中の男性は女性の容姿で評価を決めていると感じている。そのため男性に極端な苦手意識があるのだが同時に恋愛をしたいという気持ちも強い。

 

これに対する鴻上氏の答えを順々と読んでいったのですが、まず「相談者は驚くかもしれませんが世の中には見る性と見られる性があって男たちは自分が見る性だと信じ切っています」という部分、この相談者は明らかに最初から男性が見る性だと言ってると思います。なぜなら相談文に「男だって不細工のくせに」という文がないからです。相談者はあまりにも自分の属する女性性が見られる性であると信じすぎています。

 

次にオーディションの際に気持ちをほぐすために子供たちに「どんな男の子(女の子)が好き?」と毎回聞きました、というのが鴻上氏自身が異性の目というのを過剰に意識しているのを感じます。

相談者の悩みのの前に何故回答者・鴻上氏がこの相談をチョイスしたか、それは鴻上氏自身が「美醜と異性への意識」というものを強く気にしているからだと私は思います。

自分が気になる悩みでなければ回答する気持ちも出てこないからでしょう。

 

そして毎回する質問が「どんな子が好きか?」と聞くというのもかなりの偏重に思えますね。好きな読書やスポーツや食べ物などではなく性的な好みの質問をしているわけです。

しかし実際かなり偏執的な好みであったらよけいにありきたりの答えをしてしまうのではないでしょうか。まさか子供が「むれむれの熟女が好き」とか言えないはずですし、「委員長タイプにしばかれたい」とも言いにくいでしょう。男性こそ変態的な趣味があるだけに平凡な答えをする、という推理はないのでしょうか。

男がみな「可愛い子」と答えた、というのを鴻上氏はむしろ安堵しているようにも感じます。疑問を持たずにそれらの答えで満足しているからです。答えた男たちが正直に答えたと信じ切っています。

これを読むと鴻上氏は実はかなり女性に対して美醜を気にしているタイプのように思えます。なぜなら「可愛い子」という答えは外見を示している場合と性格を示している場合があるからです。

「可愛い」という言葉をそのまま「容姿」だと思い込んでいる鴻上氏はそのまま「可愛い容姿」がすべてだと思っているのだと考えられます。

私は「可愛い」はむしろ表情や性格や行動が含まれたすべてだと思います。

これでいうと男性たちは個人差はあれど様々な要因で「可愛い子」であることを求めてと考えられます。

 

次に少し飛んで(あまりこざこざしますから省略します)鴻上氏が自分を「ぶさいく村」で生まれたというところです。

語るに落ちた、というべきなのか。ここで鴻上氏はやはり人間が「ぶさいく村」出身なのか「美形町」生まれなのか、という意識で生きていることを証明してしまいました。

などというと「いや彼は演出家なのだからそういう言葉の面白さを大事にしている」とか言われそうですが、自分の容姿が「ぶさいく村」生まれ、だと言っているのがもうなんとも言えない気持ちです。

「ぶさいく」という言葉の意識はどう考えられるのでしょうか。

逆の「容姿端麗」という意味は?

人間として完全な肉体と整った形。それが少しずつ欠損しているほど「ぶさいく」ということになります。

つまり「ぶさいく」というのは「障害」ということになるのですね。

では程度がよりひどくなった「障害者」と言われる人は「ぶさいく」の典型ということになります。

ここで鴻上氏に「ではあなたはより体が欠損した人=障害者をぶさいく村生まれというわけですね」と問えばもしかしたら「いやいや、障害者の方は含まれませんよ」と言うのでしょうか?ではその欠損の線引きは?

目が小さいのはぶさいくですが、目が見えないのは立派なこと。

足が短いのはぶさいくですが、足が無いのは立派なこと。

肌が黒いのはぶさいくですが、人種による黒さは美

と判断するのでしょうか。

 

ぶさいく村に住む権利を取るのはなかなか難しいようです。

 

以前完全な美はアンドロイドである、ということを石黒浩博士が言われていました。

人間に完全な美はないのです。

 生物は子孫を残すための本能的により優れた遺伝子を求めてしまうのですから生物である人間がより優れている、と刷り込まれた本能のせいで異性の評価をしていくのは仕方ないことであり、しかし人間であることはその本能を自分でどう意識しコントロールしていくか、にあると私は思っています。

性能の優劣、健康の優劣を表面で判断できるのが美醜ということになるのです。健康であれば皮膚や目や髪がきらきらと輝き、性能が良ければ手足が長く胸が大きくくびれがあるのも運動能力がありまだ妊娠していないことを示しています。

年を取るほど生殖の力は劣るため若いほど美しい、と思われるのも動物的判断であるわけです。事実だろう、と言い張る方は動物そのもの。

そういった外見の美醜こそが内面の優劣を示しているのですから生物である人間がそこにこだわるのは至極全うなことなわけですが、それだけでは人間はけだものと同然。

それだけではない評価ができることが一段上のクラスに行ける、いわば「超人間」になれる、という事なのだと思います。

思いますが「超人間」になることより平凡な人間のままであるのが人間、ということなのですね。

 

そして「私は欠点ばかりだから遺伝子を残す対象として選ばれない」と恐れおののくのが人間なわけです。動物はそれこそ淘汰されてしまうわけでしょうが、「しょせん弱肉強食の世界なのよ」というのはもうそれって人間の世界ではないのですよね。

いつまでも能力を意味する美醜ばかり見ている動物世界で生きるのですか?

人間としての誇りは、考える葦であるはずの意識は芽生えないのでしょうか。

 

性能を表す美醜にこだわるのは動物的本能だから仕方ない、というのならどうぞ動物世界で生きてください。

それだけではない「粋」の世界を目指すのが人間としての矜持であると信じています。

 

さて鴻上氏の回答に戻りますが次の異性の好みを「カレーやハンバーグ・ラーメン」に例えている部分はあまりにもお粗末なので省きます。

サマセット・モームの言葉を引き合いに出して美人をけなしていますがますます氏の「美人に対する劣等感」が顕著になってきています。美人の愚かさと、中身のなさ、とまで言い出しているのがもう気の毒に思えます。

いったいその「美人」は誰なのですか?

美人にその言葉を言ってみてください。

美人が愚か・・・偏見ありすぎです。

 

 そしてついに

「ですから、素材として「可愛い人」だけじゃなくて、「雰囲気可愛い人」もいるのです。」

「雰囲気で可愛くなる理由はさまざまです。とても聡明だから可愛く感じるとか、優しいからとか、元気だからとか、優しいからとか、とにかく、ポジティブななにかの理由によって、雰囲気で可愛くなるのです。そして、それが女性にとって一番大切だと思っている男性はその人と恋に落ちるのです。」

 

そんな頑張って恋に落ちたくないわ、とつぶやく私がいます。

 

「愚かな男達に、これからも、容姿に関しての言葉を浴びせられるかもしれません。でも、それは男達のすべてではないのです。それが男性全体だと思って、男性全員を不信に思ったり、嫌ったりしてはもったいないのです。

 はちなさんの周りにも、ひとつ成長した男達が確実にいるはずです。いないようなら、交遊関係を広げて探して下さい。

 そして、はちなさんの魅力に惹かれる男も間違いなくいると断言します。」

 

もう少し言うなら日本の男性の中に探すのは難しすぎるので外国へ行った方が良いかもです。

 

日本の男性はあまりにも幼稚です。

 

そして最後に鴻上氏は止めを刺します。

 

 最後に僕の大好きな谷川俊太郎さんの詩を紹介します。『彼女を代弁すると』という詩です。

 彼女を代弁すると

 「花屋の前を通ると吐き気がする
 どの花も色とりどりにエゴイスト
 青空なんて分厚い雲にかくれてほしい
 星なんてみんな落ちてくればいい
 みんななんで平気で生きてるんですか
 ちゃらちゃら光るもので自分をかざって
 ひっきりなしにメールチェックして
 私 人間やめたい
 石ころになって誰かにぶん投げてもらいたい
 でなきゃ泥水になって海に溶けたい」

 無表情に梅割りをすすっている彼女の
 Tシャツの下の二つのふくらみは
 コトバをもっていないからココロを裏切って
 堂々といのちを主張している

 

 谷川俊太郎は好きですが、美醜で落ち込んでいる女性にこの詩を送るのは残酷です。

その意味が鴻上氏にはわかっていない。

女性の苦しみがどこにあるのか、まったく気づいていないのですね。鴻上氏は言うのです。

 

自分は60歳だから25歳のあなたはそれだけで羨ましい

 

女性にとってその言葉ほど惨いものはないのに。

せめてそのことくらい気づいて欲しかった、と思います。


女性アスリートの心と体

2019-04-01 07:06:50 | 女性

半世紀以上生きて来たのに今頃になって気づくことがあります。というかそんなことばかりです。当たり前と言えば当たり前でもありますが。

 

とは言え本当にえっと驚くこともあるのです。

女性アスリートの話がそうでした。

私はまったくスポーツをしない女性のせいもあって女性アスリートが抱える悩みについてなど考えたことがなかったのです。といっても最近まで「女性アスリートに対しての誤った考え方」ばかりがまかり通っていたのですから私が運動選手であったとしても気づかなかったに違いありません。

「女性アスリートに対しての誤った考え方」と書きましたが私はまだやっとそういう考え方について気づいたばかりなので何がどう誤っているのかは判っていません。

いろいろなことを学びながら「女性の体や心理」についてこれから考えていきたいものです。

そしてそのことは女性の運動選手だけでなく一般の女性に関してもとても大切なことなのだと思います。

 

女性の運動選手はより運動能力を高めるためにダイエットをしている場合が多いと聞きます。例えばランナーなど速く走るためには少しでも体重が軽いほうがいいわけですね。他の運動選手も同じことが多いわけですが単純に食事制限をしてしまうと女性の場合無月経になってしまう。月経というのは正直言って面倒なものですしすぐに子供が欲しいというわけでもない女性にとっては無ければ楽ちんだとなってしまう。ましてや男性から指導を受けている場合などは特に月経に関しての正しい知識を教えてもらうことはないのだろうと推測されます。勿論女性の体や心理について勉強された男性指導者もいるでしょうし、女性だからといって正しい知識を持っているとは限らないわけですが。

私がえっと驚く話を聞いたのはまだそんな前の事ではなかったと思います。ある女性がスポーツに打ち込んでいたのですが頑張れば頑張るほど体の調子がおかしくなって

とうとうやめざるを得なくなった、今思うと食事療法が間違って生理が止まってしまっていたのだけど当時はそういう知識がまったくなかった。もしその知識さえあればスポーツを止めなくてもよかったはずなのに悔しい、とテレビで話していたのです。

その話はずっと記憶に残っていてそれから少しずつ女性アスリートについて知りたいと思い、情報も耳にするようになってきました。

先日「放送大学」で小笠原悦子教授の「女性アスリートの育成と支援、その課題」を観てますます女性アスリートについて学びたくなりました。

その中で教授は「女性は男性のミニチュア版ではありません」ということを話されていてなるほどと思いました。

今までの女性アスリートはどうしても男性のスポーツをそのまま受け入れ男性に比べ劣っているが少しでも男性に近づくように、というような考え方で進んできてしまったのではないでしょうか。

これは自分が好きな文学やマンガについて考えればとても納得がいきます。文学やマンガの世界も男性の世界であったわけですが、女性作家たちは「自分も男性に劣らない文学・マンガ創作をしたい」と頑張ってきたわけです。ところが女性には女性のやり方があってそれは男性とは違うわけです。男性のミニチュア版として創作するのではなく女性の創作をしていくべきなのですね。

文学・マンガはスポーツに比べるとやや早めにそういったことに気づき成長していったように思えます。

だけどもスポーツは文学よりもっと男性的と考えられてしまったせいもあるのかもしれません。女性には女性のスポーツの方法、そして体や心の育成法があるのではないでしょうか。

そしてこの考え方がより進歩できればそれは女性運動家だけの話ではなく女性全員に対して正しい心と体の育成法が学べていけるようになるはずです。

 

特に月経というのは男性にないものでしかも女性の心体に深く根差しているものです。それを「男と同じようになるため」に失くしてしまうのは女性の心体自体を殺してしまうことになるのでしょう。

私自身も若い時過激なダイエットをしてしまい無月経になった時期があります。その時「面倒なものがなくなった」と却って喜んでいた記憶があります。が、その時期が短かく回復したおかげで無事に2人の子供を持てましたがあのままおかしくなっていたらと今思うと怖くもなります。

スポーツをするにも月経はある意味やっかいなものでもあるでしょう。けど、女性である以上そのやっかいなものを上手くコントロールしながら生きていかねばならないのですね。

図書館で須永美歌子著「女性アスリートの教科書」を借りてきました。2018年発行で我が田舎図書館にはこれ以外に女性アスリート向けの本はなかったのです。

男性アスリート向けらしい本は数えきれないほどあるのですがたぶん女性アスリートも男性ミニチュア版としてそれらを読んできていたのではないでしょうか。

この本の前書きを読んでも上に述べたようなまだまだ女性アスリートへの指導はこれからだ、ということが書かれています。

女性が男性と同じようにスポーツに打ち込み始めてもう長い年月が経っているのにこうしたことが全く考えられてこなかった、という事実に驚きました。

「女性を捨てる」とか「女を越えろ」とかいうことではなく女性として心体を作っていくことが大切なのだということを今頃になって気づかされたように思います。

そしてそれはスポーツや文学だけでなく女性の生き方そのものに当てはまることなのです。

 


 


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NHK朝ドラに観る女性たち

2019-03-31 07:12:25 | 女性

NHK朝ドラについて書こうかな、と思っていたらちょうど「朝ドラ100」という番組があってたようなのだけどそれは観ていないし、正直言うと朝ドラを語るほど観てはいないのにちょっと思ったこと書きたくて書きます。

 

長い間生きていますが朝ドラと言われるドラマはほとんど観ていません。といっても日本のテレビドラマ自体をほとんど観ていないので当然と言えば当然かもしれないし、夜ドラマを観ていないことを思うと朝ドラのほうがまだしも観ているのかもしれません。

 

自分が一番楽しみにして観た朝ドラは「ゲゲゲの女房」で、これはもう水木しげるが好きだから観ていたということですね。

ところで朝ドラというのはなんとなく女性のためのドラマ、という意味合いなのかと思っていたのですが名称は「連続テレビ小説」であり概要に「作品内容は、主人公の半生・生涯を中心に、それをとりまく家族や家庭を描いたホームドラマの体裁がほとんどであり、主人公は女性(ヒロイン)であることが多い。 」と書かれているので女性を描くという決まりごとがあるわけではないですね。男性主人公の場合もあるわけですし。

それでもヒロインが多い、というよりはほぼヒロインであるのでどうしてもヒロインのドラマ枠、と思ってしまいます。

そして「ホームドラマの体裁がほとんど」とされていても特定の人物それも特別な職業のモデルであることが多いため社会進出した女性を描くドラマ、というイメージもあります。

例えば最も有名で最高視聴率だった「おしん」はスーパーマーケットの経営者でありますし(すみません。この人気ドラマをまったく観ていないのでwiki参照しました)「べっぴんさん」は子供服メーカーの創業者となったヒロインでした。(これはずっと観ていました珍しく)

なのでどうしても私としては元々の朝ドラの意義が「ホームドラマ」であってもそこに描かれるヒロインの生きざまにそれを製作した人たちの女性への視線や価値観を感じてしまうわけです。

 

最近の朝ドラのほうが観ていることが多いのですがその中で物凄く期待してがっくりした作品が「花子とアン」でした。

児童文学の翻訳家・村岡花子がモデルと聞いて始まる前からとても楽しみにしていたのです。

1900年初頭・大正期に子供たちに良い文学を、と優れた英文学を数多く翻訳した村岡花子を主人公にしたドラマが作られるというのはそうした文学が大好きだった私としては当時の苦労話・秘話などが盛り込まれたドラマを見られると期待大だったのですが出来上がったドラマではそうした児童文学についての話はまったくと言っていいほど語られることはなくどういうわけか大親友として位置づけられた白蓮の物語のほうに後半傾いてしまったのはあっけにとられる思いでした。

海外の文学が取り入れられた児童文学黎明期の志は重要なものではないかと思っています。村岡花子の翻訳はその中でも屈指のものですし翻訳そのものの苦労も多くあったのではないかと思って期待したのです。

女学生時代の話はなかなか面白くはあったのですが肝心の翻訳家時期になるとなぜか物語は白蓮の悲恋もののほうへ行ってしまって途中からは「花子とアン」ではなく「白蓮と少し花子、アンは無し」になってしまいました。

確かに花子の翻訳話よりも白蓮の物語のほうが華やかであるのかもしれませんがそれなら最初からそちらでやればよかったのです。翻訳の先駆者である村岡花子がどのように「赤毛のアン」や他の児童文学を翻訳していくか、周囲の人々がそれをどう励まし援助していくかを観たかったというか観れるはずと思っていた私は茫然となるばかりでした。

せめて最初から「白蓮とその友達の花子も少し」というタイトルにするべきでした。村岡花子への冒涜であるとすら思います。

 

最初に書いたことの繰り返しですが朝ドラを語れるほど観てはいません。が、漏れ観る感じで女性の仕事、が題材になる時、その仕事への配分が少なくドラマを見る気が薄れることが多いのです。

例えば今回の「まんぷく」のヒロインは安藤さくらさんが演じていてとても面白いのですが仕事をしているのはあくまでも夫である萬平さんということになっています。

インスタントラーメンを開発していく萬平さんの話は結構その苦労話が綿密に描かれて

楽しいのですが、楽しいと思うほど「じゃあなぜ花子さんの翻訳はこれほど綿密に描かれなかったのか?」となってしまうのです。

 

いや「これとそれは脚本家も違うし同じように比較できないだろう」というのは判ってす。「女性が働いてて綿密に描かれていた話もいくつもあるだろう」というのも判ってるのですが、どうしても男性が働く立場であるほうが「仕事内容が面白く描かれているがしてしまうのが残念なのです。

思えばかつて最初に面白く朝ドラを観たのが「ロマンス」という1984年のもので男性が主人公でした。

ゲゲゲの女房」は大好きで面白かったですがやはり水木しげる先生がマンガを描いていることがメインです。

まんぷく」もずっと観たのですが萬平さんが発明していくのを内助の功する話。

その中「べっぴんさん」だけがかなり自分としてはこうであって欲しいドラマに近かった気がしています。ただし最後辺りが冗長過ぎてしまった感がありました。

 

女性を主人公にして仕事を題材にした物語は現実にドラマ化してほしいものがたくさんあるのになかなかそうしたものが取り上げられることはないようです。朝ドラには向かない、などの理由ではあるでしょうから夜ドラマでもいいのですが、ヒロインものというのはどうしてもまだ偏りがちに思えます。

 

次回の朝ドラは「なつぞら

アニメ業界に入るヒロインの物語と聞いてまたまた期待しています。

これは本格的アニメ話となるのでしょうか。

アニメ業界ヒロイン物はアニメで「SHIROBAKO」がありますからどうしたって比較してしまいそうです。

朝ドラは別にヒロインの職業ドラマではないのかもしれませんが私はそこにどれくらい力を入れてくるかで製作者の思いを感じざるを得ないのです。

お願いだから「花子とアン」の二の舞はやめてくださいね。

 

活躍する人の奥さん、というのが悪いわけじゃありません。

でももうかなりそれは作られました。

朝ドラで女性運動家・政治家の話はいつあるのでしょうか。

市川房江さんなど女性参政権に活躍した女性の物語、朝ドラではなくてもいいけど、そろそろ作られてもいいのではないでしょうか。

 

もしあるのだったら(日本作品で)教えて欲しいです。

今ちょっと検索しても外国作品ばかりしか見つけきれませんでした。


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女性は潜伏する

2019-03-09 06:43:04 | 女性
先日まで「トクサツガガガ」というドラマが放送されていて、私は一度も見なかったのですが伴侶が楽しみにして観ていて「面白かったよ」とのことでした。しかし「だけど」と言うのです。
「OLをしてる女の子なんだけど、恰好は普通だしオタクなのを隠しているし特撮ファン、というくらいではあったんだけどね」
おいおいおい。それはちがーう!

観ていないので伴侶の感想が的を得ているのかどうかは判らないのですが、「それはあなたの女性オタクへの判断が間違っている」と釘を刺しました。

あのね、女オタクというのは見るからにオタクの姿をして「ガンダム大好き」と公言してはばからない男オタクとは全く違う生物なのですよ。
女オタクは幼少期からそういう自分の趣味が他とずれていることを察知しそれは大っぴらにしたくないと思うわけです。
それは色々な理由があると思うのですが例えば「このキャラが好き」とか言ってしまった時に男子からそのキャラについて馬鹿にされたりすることにショックを浮けてしまい私がこのことを口にしたために大好きな人を(アニメキャラのことです)貶めるような事態になってしまった。もう口にはすまい。大切なものほど心の中に秘めておくのだ、と誓いを立てるのです。
一度誓いを立てた女は強いです。
彼女の信仰は秘密裏に行われていくのです。
時々に彼女は同じ信仰を持つ女性を見つけ互いに聖者について語ることに喜びを見出しますが他にその信仰を守っていることはおくびにも出さぬよう気を付けて生きていくのです。
その信仰と生き方は隠れキリシタン、今でいう潜伏キリシタンを思わせます。
表に出して叩かれる男オタクとは違う別の信仰の道を選んだのです。
男オタクにとってはその道は「めんどくせえ」でしょうし、「言えよ」かもしれませんが、それが女オタクのある種喜びであるのかもしれません。その名をみだりに唱えてはならないのです。
が、その信仰は強く長きにわたるものであります。
姿かたちは「普通の女」であっても死す時もその手の中に小さく「推し」を握りしめているのです。

普通の女の生活をしていても胸には熱い思いがあるのです。
だだもれさせている男オタクとは違う厳格な戒律の中で敬虔な祈りを捧げているのです。

このことを伴侶に伝えると唖然としていました。
そうです。
私も女オタクなのでほとんど大事なことは心に秘めたままなのです。



今はネットが普及しかつての潜伏者もかなりそこで自分を表現することができるようになりました。
ほんとうに幸せなことだと思います。
でも現実のミサに行って思う存分話してみたい気持ちはあるのですよね。


男オタクさんに対し差別的表現をしたことをお許しください。
「トクサツガガガ」観ていないのでそれについて語れないこともお許しください。