ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

山岸凉子と萩尾望都の変化について 2

2019-03-12 07:16:36 | マンガ


昨日に続き書いていきます。

山岸凉子・萩尾望都、全作品についてネタバレしますので、ご注意を。





両作家の全作品の中で最も優れた作品は、と聞かれたら山岸凉子「テレプシコーラ」萩尾望都「バルバラ異界」と答えます。
山岸凉子と言えば「アラベスク」「日出処の天子」で萩尾望都と言えば「ポーの一族」「トーマの心臓」と言われることが多いのでしょうけど、作品として高い得点をあげたいのは前に書いたそれぞれだと私は思っています。

マンガという若い文化の中で漫画作家生活の後期により優れた作品を描き上げた、というのはそれもまた注目点なのではないでしょうか。

昨日はこの二人のマンガ家の持つコンプレックスが作品に深く根差していることを書いていきました。萩尾望都は両親から愛されていない、両親への強い反発がある、という意識がほぼすべての作品に色濃く表れています。作品に登場する両親もしくは片親は様々な形で子供である主人公に負の影響を与えていきます。「トーマの心臓」ではユリスモールとオスカー、「アロイス」のアロイス、「遊び玉」のようなSFでも両親は主人公を助ける役目は与えられません。原作のあるマンガを描く時に選んだのは「恐るべき子供たち」という親を否定している作品ですね。「マージナル」は非常に面白いSFですが母親が世界中にただ一人しかいないという設定であるのはやはり母親の愛情が極端に薄いことを物語っています。「ローマへの道」の主人公の苦しみも両親からくるものでした。

そのような道のりを経て萩尾望都は「イグアナの娘」にたどり着きます。ここで彼女はかなりの皮肉を込めて両親特に母親への不満を滑稽なほどのコメディとして描きました。そしてその後「残酷な神が支配する」へとバトンは渡されます。
親の子供への抑圧がここでは性暴力という極めて悲惨な形で表されます。女性である萩尾望都にとっては生々しく母と娘、もしくは父と娘という形で描くのはさすがに抵抗があったのでしょう。性を男の子とその義父という異性に転化することでかろうじてこのタイトル通り「残酷な神」を描くことができたのでしょう。物語は萩尾作品としては異例に極端な長編です。萩尾望都にとって「親」という「残酷な神」が子供にどんな怖ろしい「支配」を「する」のかを描ききるにはこの長さがなくてはならなかったのですね。
この物語の中で主人公の少年は義父に逃げるすべもなく性暴力を何度も受け続け肉体にも精神にも惨い傷を残します。母と義父の突然の死で暴力自体からは逃れられても義父の亡霊は繰り返し彼を苦しめ続けていくのです。
少年は幾度も幾度も堕落し義兄によって救われ再びおかしくなり更に救われ更に精神がむしばまれ、幾たびも幾たびもそのループを繰り返します。もがき苦しみ立ち直ろうとしても義父の亡霊は少年から離れないのです。
が、ここで興味深かったのは萩尾望都氏がインタビューを受けた時に「父親の側に立って暴力を与えている気持ちになりすごくすっきりした」という答えをこれも幾度となくしていることでした。
あれほど両親との確執に苦しみぬいていた萩尾望都はこの怖ろしい「残酷な神が支配する」において「残酷な神」の側に立つことで自分自身が「支配される子供」から「支配する神(親)」のほうになれることを自覚できたのかもしれません。
萩尾氏は結婚もしておらず子供もいないということですがもしそうであったとしたら自分が怖れた両親と同じような親になってしまっていたのかもしれませんね。勿論これは憶測にすぎませんが。
そうして萩尾世界を覆してしまった「残酷な神が支配する」の後、彼女は「バルバラ異界」を描きます。
発表年が20002年~2005年となっていますから萩尾望都は53歳から56歳にかけて、ということですね。この作品では主人公は父親です。息子がいますがやはりというか愛情薄く育ってしまったために父親への反抗が酷くここでは父親である主人公が息子の愛情を求めて懊悩する、という物語になっています。母親は息子を愛しながらもどこかすれ違っている、という描き方でした。
長い時を経て父親というやはり性の転化はありますが親の立場で子供を見つめるという作品に変化していった萩尾望都がここにくるまでにどれほど考え続けたのか、と思わされます。
「AWAY」では再び親と子供が別々に切り離されてしまう世界が描かれていますが、なんとかしてこちらとあちらを結び付けたい、と主人公たちは願い挑戦し続け、そして皆に語りかけるのです。「この世界を良くする方法を考えて」と。
現在連載中の「王妃マルゴ」では主人公マルゴには抑圧的な母親カトリーヌ・ド・メディチがいますがマルゴは絶えず母親に反抗し自分の道を見つけていく、という物語になっています。
「不道徳な女」という批判のレッテルをはられながらも自由奔放に生きるマルゴは萩尾望都の希望のように見えます。

そして山岸凉子のコンプレックスは性差であると書きました。
彼女のヒロインはとても若く美しく可憐で弱弱しい心を持っている、と描かれることが非常に多いのですね。そのうえで「なぜ男性は女性に若さと美しさと従順を求めるのか」ということに常に苦しんでいます。
極端なほどにヒロインを若く美麗に描きながらそこに価値を見出す男性を嫌悪している、という奇妙なパラドックスが彼女を苦しめ続けていると思っています。
また理想の男性として必ず背が高く苦悩している表情の優秀なイケメンが描かれ、ヒロインに大切な助言ができるのはこの理想男性である、という形式も貫かれていきます。
「アラベスク」のユーリ・ミロノフはその典型であり以降の作品の理想男性は皆彼の焼き直し、と見えます。
「アラベスク」にはエーディクというやや中性的な男性、そしてレミルという可愛いイメージの男性も登場するのですが、イケメンであってもこうした男性がヒロインの心を打ちぬくことがないのも特徴です。私は絶対エーディクのほうが良いと思うんですけどね。
「日出処の天子」では厩戸皇子は明らかに女性性の変形として描かれています。同性愛の設定になっていますが実は「性を嫌悪もしくは恐れる女性」を転化した表現として厩戸皇子になっていて彼は男性として描かれていないと思っています。男性であればそれぞれ女性を妻として(しかも複数人可能です)男性同士の関係を続けることに問題はなかったはずでしょう。それは男性ならば当然の関係だったはずです。あの作品の厩戸皇子が男性でなかったために彼らの関係は終わらざるを得なかったのでしょう。

その後山岸凉子は男性性への疑問と女性性への苦悶を繰り返し描き続けます。なぜそこまで性差が彼女を苦しめてしまうのか、と思ってしまうのですが、美しい女性を描きながら時が経てばその美しさは失われてしまうことへの懊悩、そして男性は常に若く美しい女性を求め、そうでなくなった女性を捨てるということへの怒りは苦痛となっていきます。
とても技術の高い作家なので不細工系のキャラを描いても魅力的であると描ける人なのですが、それにもかかわらず彼女自身が求める女性男性は美貌でなければならないと決めつけているような作品群は私には謎でもあり、それゆえに強く引き付けられもします。
そしてたどり着いた「テレプシコーラ」は「アラベスク」と大きく異なっています。
「アラベスク」ではノンナというバレエダンサーは苦悩した末でもユーリ・ミロノフという優秀で美麗なバレエダンサーであり指導者であり理解者であり伴侶の男性の愛を手中にし結婚、ということが最大の幸せとして終わりました。

「テレプシコーラ」では小学生である六花というヒロインを中心として姉の千花そして友人・空美という3人の少女を描くことで物語が進んでいきます。
空美は不細工な少女として描かれ山岸凉子のこれまでのコンプレックスを体現する人物です。顔は醜いけれど若くきれいな体ゆえにロリコンの男たちへの仏物となり消耗し、彼女は主人公たちに大きな影響を与えて早い段階で消えていきます。
六花と千花(空美も)は小学生です。ふたりとも山岸作品で繰り返された男性に対しての恋慕・卑屈さなどはほとんど描かれないのはそのための幼い少女という設定でもあるのかもしれません。
主人公六花に関わってくる二人の少年のうちいつも山岸作品で主人公の助言役に当てはめられる美形君はここではその役からはずされており代わりにブサメン(こういう表現ばっかりで申し訳ないが山岸マンガはこれらがポイントなので仕方ないのです)君である拓人が六花を助けたりするのは画期的なことだったと言えます。
が、バレエを教える教師としてはやはり高身長イケメン先生が六花の才能に気づき助言していく、という展開になってしまうのは致し方ないことでしょうか。
姉妹の母親は美人で厳しいけど父親はブサ系で心優しいと描いているのが一番ほっとすることでした。
作品内容としての凄みと優秀さはここでは書きませんが私が山岸作品の最高峰としていることで判ってもらえると思います。それに足してこの作品でこれまでの男性への疑問・苦悶が六花千花には描かれなかったことは特筆に値します。その苦しみは空美がすべて引き受けさせられたわけです。

その展開は「テレプシコーラ第二部」にも引き継がれていきます。

そして今連載中の「レベレーション」では主人公ジャンヌ・ラピュセルを守ってくれるような男性が(私が読んでる範囲内では)もう出てきません。
神のお告げを聞き戦う処女であるジャンヌ・ダルクには男性は友として登場してもそれ以上ではもうないのです。
美しいアランソン公爵ですらジャンヌの頬を染めるだけであり、その関係は頼もしい友情としてのみ描かれています。
物語としては山岸作品の特徴である「なぜ女性は男性に求められるだけの人生なのか」であるのですが、ジャンヌはもう助言者である理想の男性を求めはしないのです。
するとすればそれは「神」だけ、ということです。

男性の姿を借りて神の力を持った厩戸皇子は毛人という男性の伴侶を強く求めましたが、処女ジャンヌ・ダルクはもう男性を求めず神という性を越えた存在だけを信じて戦い続けていきます。
作品はまだ途中(私が読んでいる限りでは)ですが山岸凉子があれほど繰り返し、理想の男性を求める女性を描き続けた答えは男性を求めないジャンヌ・ダルク、なのでしょうか。
勿論山岸マンガが終わったわけではありません。
山岸凉子、そして萩尾望都、ふたりの稀有な漫画作家がまだまだ描き続けてくれることを願わずにはいられません。

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2 コメント

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Unknown (秋桜)
2019-11-07 23:14:00
初めまして。此方のブログは休止されてしまったのでしょうか?ふと辿り着き、沢山の言ノ葉参考にさせていただいています。
私は三十路の多忙な主婦ですが、現役の歳を重ねた文学少女(笑)、学生時代には文学部、さらには海外でも学びました。この度、此方を訪れたのは昨今はまってしまいました昭和の漫画を調べていて、特に萩尾望都さんや山岸凉子さんの作を次は何を読もうかしらと思っています。漫画と言えど、素晴らしい芸術ですね。私の生まれる前のようですが、恐らく作家さん方々は多種多様な本を読み、学びした事が分かります。欧州に馴染み深く、本当によく研究されてるなぁと思います。その頃には、ランボーやボードレールをも研究したのでしょうか……。 ただ、子どもの喧騒の最中、夫と現実に即した明日の当番を話し、仕事や家事で疲れた中でなくお休みにゆっくり読み感じ考えたい作品が多いのが残念です。時々、寄らせていただきます(^^)主様、未だお読みでしたら、時々でも是非続けて下さいませ。
豊の雪、日毎寒さいやまし、お元気でいて下さいますよう。
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ありがとうございます (ガエル)
2019-11-08 06:59:38
読んでくださって嬉しいかぎりです。ありがとうございます。
私は50代主婦で、萩尾望都・山岸凉子はどんぴしゃに読み続けてきた世代です。
両作家の作品ではお勧めしたいものがたくさんあります。というかほとんど読んでもらいたいものばかりです。

それと私についてですが、実はブログははてなブログの方へ引っ越ししてしまい、ここはそのまま残していました。
はてなでも内容はあまり変わってはいないので、もしよろしければはてなブログへお越しくださればそちらでも色々書きまくっています。
https://gaerial.hatenablog.com/
秋桜さんもお風邪などひかれませんよう、ご自愛ください。
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