ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

こころの時代~宗教・人生~「詩人 尹東柱を読み継ぐ人びと」

2019-02-17 06:11:11 | 詩歌


こころの時代~宗教・人生~「詩人 尹東柱を読み継ぐ人びと」

ユン・ドンジュという朝鮮の詩人について様々な人(主に日本人)が語る番組でした。ユン・ドンジュは日本の大学で勉強したのですが、当時の治安維持法違反容疑で逮捕され福岡の刑務所で獄死したのでした。その死の原因は謎とされているそうです。

その福岡でユン・ドンジュの詩を読む会、というものが長く行われ美しいけど難解な彼の詩を韓国人を交えて日本人たちが読み解いている、というのは不思議でもありまた素晴らしいことだと思います。
ハングルで詩を書いたということで捕らえられ獄死し詩人の詩がこうも現在の人々の心を惹きつけているのです。

ユン・ドンジュの詩をここに載せたいと思ったのですが、その訳によっても意味合いが違ってくるので難しく思えます。

ここでは番組で紹介されていた詩のひとつを載せてみます。
訳はユン・ドンジュを長く研究されている上野潤氏のものでそのページとリンクしています。

尹東柱(ユンドンジュ)詩集、上野潤訳(C)-「懺悔録」

  懺悔録


 緑青のついた銅鏡の中に

 僕の顔が残っていることは

 と或る王朝の遺物である故

 こんなにも辱いのか


 僕は我が懺悔の文を一行にまとめよう

 ―満二十四年一個月を

  如何なる喜びを望み生きて来たのか


 明日か明後日かそのと或る喜びの日に

僕はもう一行の懺悔録を書かねばならない。


―その時その若い年齢に

 何故そんな恥かしい告白をしたのか


夜には夜ごと我が鏡を

手のひらで蹠で磨いてみよう。


そうすればと或る隕石の下へ孤り歩み行く

悲しき人の後姿が

鏡の中に現れて来る。




番組で登場された司祭・井田泉氏訳

「星を数える夜」

星ひとつに 追憶と
星ひとつに 愛と
星ひとつに 寂しさと
星ひとつに 憧れと
星ひとつに 詩と
星ひとつに お母さん、お母さん、

お母さん、わたしは星ひとつに美しい言葉をひとことずつ呼んでみます。小学校のとき机を並べた子らの名まえと、佩(ペ)、鏡(キョン)、玉(オク)、このような異国の少女たちの名まえと、もう赤ちゃんのお母さんになった娘たちの名まえと、貧しい隣人たちの名まえと、鳩、小犬、兎、らば、鹿、フランシス・ジャム、ライナー・マリア・リルケ、このような詩人の名まえを呼んでみます。

これらの人たちはあまりにも遠くにいます。
星が 目まいするほど遠いように、

お母さん、
そしてあなたは遠く北間島(プッカンド)におられます。 




ユン・ドンジュを描いた韓国映画があるので観たいと思っています。
そしてやはり彼の詩をもっと読みたいですね。

ユン・ドンジュが最後に大きな声で発した言葉がある、ということでした。
朝鮮語を解さない日本人看守にはその意味が解らなかったと。
物静かだった彼が死の間際に何を叫んだのか。
何故叫ばなければならなかったのか。
考えなければなりません。

「99粒のなみだ」寺山修司

2018-09-04 07:02:39 | 詩歌


1975年・第11刷を持っています。「あなたの詩集・寺山修司★編」というシリーズです。このシリーズで持っているのはもう一冊、10番目の「鏡の国のあなた」です。どちらも絶版。わがブログ恒例の「絶版シリーズ」ですね。

アマゾンで見ると「99粒のなみだ」は今のところ古本で買えるようですが、「鏡の国のあなた」は古本もないようです。

寺山修司については他にも数々語りたいことがありますが、今回は特に私が一番初めに感動したエピソードから書いてみたいと思うのです。

これは(たぶん)一般の女性(それも少女たち?)からの応募作品を寺山修司氏が選んで本にした、というもののようです。
「99粒のなみだ」の中には、ほかにも著作を出されている伊東杏里の「あんりとぱうろ」が入っています。「地獄の天使」という喫茶店を経営するふたり、というお話と美しい少年の美しいお話のバージョンがあります。そして3つめの詩のタイトルが「99粒のなみだ」でこれをそのままほんのタイトルにされているのですね。
どれも美しいものが大好きな少女が憧れる世界です。

彼女以外の選ばれた詩も甘く拙い少女たちの詩であふれています。宇野亜喜良の挿絵が素敵です。

当時(40年前くらいってことですね)この本を見つけたときは本当に驚きました。寺山修司さんの名前は知っていたはずです。有名な詩人でありお芝居や映画監督としても数々の受賞をしている「偉い人」という肩書があるのにこんな素人の少女たちの詩を選考している!自分自身、少女であった私は感激したのです。この日本という(その当時は特に)少女などというのは何の知恵もない愚かな存在だと思われているような国で時代だったその時に尊敬され立派な地位にいる壮年の男性がこんな甘ったるい詩を選んでくれていることに。
今現在であればそういう企画は多々あるかもしれないし、少女たちが書いた本、というのは売れるということで乗り出す男性もいるでしょうが、自分の意識、少女だった私の感覚ではその頃、「女(少女)が書くものなどは一人前の男が読めるような代物じゃない」という意識が強かったと思います。少女マンガがそのいい例で、男性たちからの「少女マンガ。ああ目がでっかくて星が飛んでるくだらないあれね」的な言葉しかないのを「内容を深く読んでもいないくせに」と歯がゆく思っていたものでした。
そんな思いがある時にまさにそういう男性であるはずの寺山修司氏が少女たちの詩編をしていることに驚いたのです。

少女マンガの世界でも寺山修司の名前はそれから度々目にしました。
特に記憶に残っているのは寺山修司氏が竹宮惠子「風と木の歌」を絶賛していたことです。寺山氏はジルベールを応援していて「セルジュなんかに負けるな」とおっしゃっていたのがすごくおかしくてうれしかったのです。
その後、私は寺山修司の本業である詩作や映画などを読んだり見たりすることになり、そのとんでもない才能と偉業を知ることになります。
寺山修司の世界は映画でも詩でも人並外れた異常なと言っていい特殊な力で人を惹きつけてしまいます。それからは少女や少女マンガに寄り添ってくれた方、というのではなしに寺山世界に魅了されていくのですが、時折思い出しては「こんな凄い人が何故女の子の気持ちを救ってくれていたのか?」と思い、「いや、誰も顧みない女の子の気持ちを救える人だからこそ凄い感性を持っているのだ」とさらに納得したりしました。

寺山修司が47歳という年齢で亡くなったのは惜しい。1935年生まれなのですから、今でもご健在であっても不思議ではない
わけです。
あの感性で今のアニメやゲームなどを評価し、仕事をしてもらえたかもしれません。

ところで、最近になって思いもかけず当時の寺山修司と再会することになりました。
萩尾望都著書「一瞬と永遠と」というエッセイ集の中のひとつに「寺山修司の少女感覚」という文章があったのです。
私はまったく知らなかったのですが、萩尾望都氏は寺山修司氏と「数年一緒に、新書館という出版社の仕事をした」と書かれているのです。アマチュアの詩やマンガを募集して、入選作を集めて単行本にする、応募者のほとんどは少女だった、というのです。
その本のタイトルは「エンゼル・シャーベット・タイム」「デリカシィ・ココア・タイム」というような甘いお菓子のタイトルがついた、とのことです。今調べると1978年発行でやはり絶版。私が持っているものの後のシリーズなのでした。
「一瞬と永遠と」」で萩尾さんは私が私が感じたことを裏付けてくれることを書かれています。
少女が対象とはいえ、入選作を集めた本のタイトルにお菓子の長いタイトルをつけるのも、マッチョな男なら「だから女は・・・」とでも言いそうなのに、寺山さんは「デリカシイ・ココアとはどんなココアなのか」と少女感覚のスタンスにするりと立てる不思議な人だったと。
さらに萩尾さんの記憶にあるのはしわくちゃの原稿に書かれた詩を「これは今回一番いいよ」「きっと一度丸めて捨ててまた拾って投稿したんだね」と寺山氏が言われたことだそうです。
しわくちゃの原稿をそのまま送るなんて威張った人なら怒り出すようなことを純粋に考えて評価する。
萩尾望都さんの心の中にも魅力的な寺山修司が記憶されていることが自分の遠い記憶の感動と重なったのです。
「ああ、やはり自分が感じた通りの魂を持つ人だったのだ」という思いがこみ上げたのでした。

「若き日の詩集」新川和江 編

2018-08-27 04:43:07 | 詩歌


小説・評論、などに比べると詩集を読むことは少ない。というよりほとんど無いです。昔はそれでも少しは知っておかないと、的に幾つか買って読んだりしたのですが、ボードレールとかそんな感じでまあいいんですが、それ以上に進まなかったのでした。
そんな中、購入して何度も繰り返し、今に至っても読んでいる一冊がこれであります。

これは詩人・新川和江さんが選ばれた詩編です。
「若き日の」と題されたとおり青少年期のみずみずしくも切ない心情を表したものが多く、今読むとなお胸に染み入るようです。






以下、内容の詩を記載します。







「鳩」  高橋睦郎 


その鳩をくれないか と あのひとが言った
あげてもいいわ と あたしが答えた

おお なんてかあいいんだ と あのひとがだきとった
くるくるってなくわ と あたしが言いそえた

この目がいいね と あのひとがふれた
くちばしだって と あたしがさわった

だけど と あのひとがあたしを見た
だけど何なの と あたしが見かえした

あんたのほうが と あのひとが言った
いけないわ と あたしがうつむいた

あんたが好きだ と あのひとが鳩をはなした
逃げたわ と あたしがつぶやいた
あのひとのうでの中で






光景が目に浮かんできます。
鳩の羽ばたく音が耳に聞こえてくるようです。


そして





北の海   中原中也
 
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪(なみ)ばかり。
曇(くも)った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪っているのです。
いつはてるとも知れない呪。
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。




中原中也の詩の中でも
特に幻想的で
ぞくりとくるような
怖さがあります。






そして最後はポール・エリュアールの「自由」が
高らかに歌い上げられます。


自由  ポール・エリュアール
    安東次男訳

ぼくの生徒の日のノートの上に
ぼくの学校机と樹木の上に
砂の上に 雪の上に
ぼくは書く おまえの名を   
読まれた 全ての頁の上に
書かれてない 全ての頁の上に
石 血 紙あるいは灰に
ぼくは書く おまえの名を
金色に塗られた絵本の上に
騎士たちの甲冑の上に
王たちの冠の上に
ぼくは書く おまえの名を
密林の砂漠の上に
巣の上に えにしだの上に
ぼくの幼年の日のこだまの上に
ぼくは書く おまえの名を
夜々の奇跡の上に
日々の白いパンの上に
婚約の季節の上に
ぼくは書く おまえの名を
青空のようなぼくの襤褸(ぼろ)の上に
くすんだ日の映る 池の上に
月のかがやく 湖の上に
ぼくは書く おまえの名を
野の上に 地平線に
小鳥たちの翼の上に
影たちの粉挽き場の上に
ぼくは書く おまえの名を
夜明けの一息ごとの息吹の上に
海の上に そこに浮ぶ船の上に
そびえる山の上に
ぼくは書く おまえの名を
雲たちの泡立てクリームの上に
嵐の汗たちの上に
垂れこめる気抜け雨の上に
ぼくは書く おまえの名を
きらめく形象の上に
色彩のクローシュの上に
物理の真理の上に
ぼくは書く おまえの名を
めざめた森の小径の上に
展開する道路の上に
あふれる広場の上に
ぼくは書く おまえの名を
点くともし灯の上に
消えるともし灯の上に
集められたぼくの家たちの上に
ぼくは書く おまえの名を
二つに切られたくだもののような
ぼくの部屋のひらき鏡の上に
虚ろな貝殻であるぼくのベットの上に
ぼくは書く おまえの名を
大食いでやさしいぼくの犬の上に
そのぴんと立てた耳の上に
ぶきっちょな脚の上に
ぼくは書く おまえの名を
扉のトランプランの上に
家具たちの上に
祝福された焔むらの上に
ぼくは書く おまえの名を
とけあった肉体の上に
友たちの額の上に
差し伸べられる手のそれぞれに
ぼくは書く おまえの名を
驚いた女たちの顔が映る窓硝子の上に
沈黙の向こうに
待ち受ける彼女たちの唇の上に
ぼくは書く おまえの名を
破壊された ぼくの隠れ家たちの上に
崩れおちたぼくの燈台たちの上に
ぼくの無聊の壁たちの上に
ぼくは書く おまえの名を
欲望もない不在の上に
裸の孤独の上に
死の足どりの上に
ぼくは書く おまえの名を
戻ってきた健康の上に
消え去った危険の上に
記憶のない希望の上に
ぼくは書く おまえの名を
そしてただ一つの 語の力をかりて
ぼくはもう一度 人生を始める
ぼくは生まれた おまえを知るために
おまえに名づけるために
自由(リベルテ)と




これはこの本の表紙絵を描いている大島弓子のマンガ
「「ローズティーセレモニー」で
効果的に引用されています。
若い日の熱い思いを感じされてくれます。
老いてから熱くなっても良いですけどね。


一人の詩人の詩集を読むことが正道なのかもしれませんが、この本のように
あるテーマでまとめられた詩集もあって良いと思うのです。
惜しむらくは新川さんご自身の詩が一つでも入っていたら、と思われるのです。
それでもこの選ばれた詩を読めば、新川さんがどのような眼差しを持たれているのか、感じられる気がします。

ここには含まれない新川さんの詩をひとつ引用させてもらいます。
 
わたしを束ねないで
              新川和江
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす

わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃(はばた)き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注(つ)がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮(うしお) ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
座りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂