ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「南京!南京!」陸川 ー絶対観るべき映画ですー

2019-06-14 21:04:47 | 映画

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「ココシリ」の鮮烈な映像で陸川監督の名前は記憶に残るものとなっていました。

その陸川監督が日本軍による南京大虐殺映画を製作したと聞いてすぐ驚くとともに早く観たいと期待したのですが、日本での公開はなくDVDにもなっていないと言います。

中国での公開が2009年となっていますからすでに10年が経つにも関わらず

いまだに公開されない中アマゾンプライムで配信されたのはなんらかの動きがあってのことでしょうか。とにかく、この映画を観たいと思っていて観れなかった者たちにとってはネット配信という一つの選択があることに感謝するばかりです。

 

以下、ネタバレがありますのでご注意を。

 

 

 

 

小さな諸事情で鑑賞するのが今になってしまいましたが、正直自分が思った以上、というか遥かに超える素晴らしい映画でした。

この映画の最初の感想として言うべきことなのか、ではありますがなんといってもモノクロームの映像の美しさ、映し出されるひとつひとつのカットの鮮烈な印象が物語とともに焼き付けられていきます。

こうした迫力のある映像というのは以前から中国映画の醍醐味でありました。

映画好きであるならばまずはこの映画の優れた映画作りの巧みさに感動しなければならないでしょう。

そして監督自身が書いた脚本は驚くほどに公平で落ち着いた視線で構築されていることを感じます。

この怖ろしく残虐に悲しい歴史を本来なら激しい怒りを叩きつけても足りないほどの苦しみに対し陸川監督はあり得ないほどの配慮を見せていることが伝わってきます。

その冷静さを保つために映画の多くの部分がひとりの日本兵の若者の視点で物語られます。そのために本国中国での上映時に物議を呼んでしまったと言われていますが、そういった自国での反感を買うことは判り切ったことであるのに陸川監督が公平な作品を作ったのはまさしく日本人にこそこの映画を観て欲しかったからに違いありません。

 

日本軍の兵士として、人間性をまったく感じない冷酷極まりない軍人・伊田と対照的に兵士・角川は慰安婦に恋をしてしまう真面目さ、一途さを持った若者として描かれます。

映画のかなりの割合がこのうぶで真っ正直な若い日本兵の立場で表現されていくことは観る者を彼に共感させてしまいます。特に最後の場面、彼が日本の祭りに没頭していく様を見せ、その後、彼は囚われ殺されそうになった中国人の親子を逃げさせた後自害する、という結末は鬼子である日本兵の表現ではありません。

一方、冷徹な軍人・伊田の行動は日本軍の狂気そのもののように見えます。何故彼はこんなにも残虐なのか、このような狂気が存在するのかとまで考えてしまいます。

しかし昨今の日本のネットでの中韓に関するネトウヨ氏たちの発言「自分たちこそが正義であり《あいつら》はいなくなって欲しい」というような表現に確かに同じ狂気を感じてしまいます。本人たちは「自分たちは立派で美しいのに(同じ東洋人の)あいつらは最悪」ということで喜びあっています。そういった考え方こそが怖ろしいことに気づかなければなりません。

 

しかし、中国人である陸川監督は対照的な日本兵を描くという手法で冷静に判断しようと試みます。しかも私には優しい若者兵士のほうに重点がおかれているようにさえ感じます。

同じく中国人側も果敢に戦う青年をリウ・イエが演じ、逆に日本軍に「ともだち」といって取り入ろうとする中年男性を描くことでバランスをとっています。

こちらも戦う男よりも姑息な行為をとっている中年男性のほうにより思い入れを感じます。

南京大虐殺として大勢を撃ち殺す場面は壮絶で惨たらしいものです。戦う男(リウ・イエ)はこの中で撃ち殺されます。幼い男の子を守って。従来の映画であればここがメインだったでしょう。

が、陸川監督がより心を配ったのはある意味の裏切り者にも思える中年男です。彼はドイツ人・ラーベに親しく仕え、日本軍とは「ともだち」という言葉を使って取り入り、保身を図っている男です。そうすれば自分の家族だけは守ることができる、という企みが彼にあったのです。

ところが日本軍兵士は彼を特別な存在として考慮することさえありません。彼の家族もなんの待遇もとられることもなく大事な愛娘はまるで何かの物体であるかのように躊躇もなく高い窓から放り落とされてしまったのです。

この場面は陸川監督が最も悲しく残酷な場面として描いていると感じます。

その後日本軍に取り入ろうとしていた男は死を選びました。再び子を宿した妻を逃して。

 

この映画が日本で公開されないのは何故なのでしょうか。DVDとして作られ販売されることすらないのは?

陸川監督は日本人にこそこの映画を観て考えて欲しいと願い作られたと思います。そう願うだけの価値がこの作品にはあります。

 

10年の月日が経ちました。いつかこの映画が公開される日がくるのでしょうか。

一般に目にする時があるのでしょうか。

その時「なぜこんな優れた作品をすぐその時日本で観なかったのだ?まったく理解できない」と言える人間になれているでしょうか、日本人は。

 

さまざまな議論をすることが大切です。

そのために様々な表現の自由と権利が必要です。

反面、許されない表現もあります。

例えば今問題になっている、北方領土問題に立ち向かっている方々に「戦争するしかないですよね」などと国会議員が発言するのは表現の自由ではありません。

 

しかしこの映画には多くの人が鑑賞し話し合うことができる価値があります。

是非、この映画作品を観てください。

陸川監督の思いを感じられるはずです。

 


『ノーマル・ハート』ライアン・マーフィー Amazon Prime Video

2019-06-13 20:31:50 | 映画

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HBO制作のネット配信映画です。

 

HIV感染は現在では治療薬もあるのですが1980年代のアメリカ(日本は無論のこと)では未知の病であったのです。

 

私が記憶しているのは日本にも情報がきたものの「死に至ってしまう怖ろしいホモの病気」ということで半分笑いの対象になっていたようにさえ思います。

が、異性愛者にもそして当時薬害エイズと呼ばれた非加熱製剤によるHIV感染も広まったことから次第に報道内容は変化していきました。

日本という社会では同性愛の病気ということが先に報道されたことでなかなか偏見が改善されず正しい知識が広まりにくかったように覚えています。

 

しかし日本とは全く異なりゲイ運動も大きく活発なアメリカでさえエイズが発症した当初はこんなにも混乱した状態だったのだということを改めて知らされた気がします。

これまでも映画やドラマなどでたびたび見てはきたのですが、HIV感染とエイズによる悲劇と心理をここまで明確に表現したものはなかったようにも思えます。

それは今だからこそ見えてくるもの、そして映像化できることもあるのかもしれません。

 

主人公ネッドはジャーナリストであり裕福な兄を持つ恵まれた環境にいて自制心もあり前進しようという強い意志を持つ男性であるがゆえに他者にもそれを求めすぎ暴走してしまう傾向があります。

そして彼の心強い味方である女性医師は自らはポリオのために車椅子で行動しながら医師として当時怖ろしい不治の病だったエイズ患者たちを診察・治療し続けます。

女性医師を演じるのはジュリア・ロバーツです。彼女に対しては人種や美醜での差別的な人格であるという報道を聞いてから好感を持てずにいたのですが、この作品での飾らない演技はさすがに感心してしまうものがありました。

 

それにしてもme too運動にしろ、この作品のGMHC(ゲイメンズ・ヘルス・クライシス)にしろ、アメリカでの戦う人々の強い意志と行動力は本当に圧倒されます。

主人公のあまりの暴走ぶりに仲間から疎外されてしまうほどに必ず勝つ!という気持ちがあるのです。

 エイズ、というだけではなく戦おうという気持ちを持つ人は勇気を与えてくれる作品だと思います。

そして家族愛や友情の深さが染みてきます。

 

以前ゲイが題材である場合、なんともいえない違和感が常にあったものですが、こんなにもフラットな感覚で映像化できるようになったのだなという感慨もあります。

なんとも言えない違和感、というのはなんでしょうか。普通ではない変なものが登場する作品ですよーという感じといいますか。

今ではそんなヘンテコな空気なしに当たり前にそれらを映しているという感じ、というのでしょうか。

そういう感覚になったこと自体も素晴らしいことですし、いらいらさせられないほっとする感じがあるのです。

 

そういう感覚も含めて是非見て欲しい配信映画だと思います。

 

配信映画であることを残念がる方もいるようでちょっと驚きですが、私は配信映画が増えることは喜ばしく望んでいます。

劇場公開されても良いと思いますが、配信映画はますます増えて欲しいものです。


「ペインレス」フアン・カルロス・メディナーこれよりも日本社会の無痛覚さのほうが怖ろしい、と考えてしまう情けなさー

2019-06-07 04:55:50 | 映画

 

相変わらず日本のポスターはてんこ盛りレイアウトじゃなければ気が済まない、というデザインになっています。

どうして上ふたつのようなシンプルなデザインにするのが嫌いなのか、幕の内弁当スタイルが大好きなのか、まずここでいつも日本人のセンスに落ち込みます。

というか、観客が馬鹿だしセンスが悪いからこういうポスターじゃないと理解できないのだ、という意識が見えてしまうのですよね。

あ~あ。

 

以下、ネタバレになりますのでご注意を。

 

 

 

 さて内容ですが、観たのですから大体そうではあるでしょうが私はこういう感じの映画、戦争がらみの怖ろしい陰謀、いたいけな子供たちが巻き込まれるが傲慢な大人たちがしっぺ返しを食らう。しかし運命は残酷だ、というジャンルの作品がとても好きです。内容は様々ですが結構見て来たのではないでしょうか。

それだけに新しくこのジャンルの映画を観て感激するのは難しくもなっていきます。

現在若くてこういうジャンルの映画を初めて観るのであればなかなか面白く観れたのではないか、とは思いますが映像技術の更新を別にすれば新たな衝撃はなかったように思います。

 

しかし「痛みを感じない」というアイディアが古今東西あちこちで見受けられるのはこの「拷問」という人間にとってどうしても抗うことができない恐怖への希望だからでしょうか。

その無敵ともいえる才能が「無痛覚であるがゆえに最高の拷問者になれる」という展開だけなのはちと物足りない気もします。

単に「他人を拷問しても良心の呵責がまったくない、むしろ快感」という人間でも良さそうです。

どちらかというとめちゃくちゃに傷を受けながらも任務を遂行できる、という方向性なのではないでしょうか。

しかし今となればそのどちらもアンドロイドにおいてそれが簡単にできそうなので「そんなことが?!」という驚きは薄くなりそうです。

 

むしろ、他人の苦痛をまったく自分に置き換えて考えることのできない状態である今現在の日本社会に衝撃と恐怖を感じ続けている私です。

 

痴漢に怯え憤る女性たちを見て「冤罪かもよ」「反撃するのはやりすぎ」という男性たちの「無痛覚さ」のほうがより怖いのです。

「助けて」と叫ぶ女性に対し「うるせーな」「電車が遅れる」「安全ピンで刺すな」「自分で身を守れ」と言い返す日本の男性たちの「無痛覚さ」のほうがこの映画の何倍も恐ろしく映画が生ぬるく感じてしまうのです。

そしてそれら日本男性たちは女性に「痴漢ぐらい我慢しろ」「むしろ喜んでいるのじゃないか」と「無痛覚」であることを強制し続けています。

しかもこの事態が映画のようなエンディングを迎えることができるのかどうか。

 

痛みは体が出す生存本能の信号であるのでしょう。これ以上傷を負えば危険である、と。傷を受けてしまう行為を止めさせ、傷を癒しましょう、と体が求めるサインである痛覚。

これが麻痺してしまい傷を受け続ければいったい体はどうなってしまうのか。破壊され、元に戻らないのではないでしょうか。

社会というからだは男性と女性が組み合わさってできています。

その女性というからだの一部が痛みを感じて泣き叫んでいるのに男性という一部はその痛みを感じないでいる、その痛み、嘘じゃないのか、と言い続けている。

きっとこのままでいくと日本社会というからだは無痛覚であり続け、からだは破壊されもしくは腐りきってしまうのではないでしょうか。

 

 今の日本女性は一番上のポスターのように口を封じられ手を出させないように拘禁されています。その苦しみを目で訴えていても男性は理解しようとはしない。

たぶんからだが壊れてどうしようもなくなった時、初めて気づき「こんなになるまでなぜ声を出さなかったんだ?」とでもいうのでしょうか。

口をふさがれていては何も言えません。

 

無痛覚にならないでください。

女性はあなたたちの一部であるのです。

その痛みを理解せずにどうして社会のいうからだが成り立つのでしょうか。

痴漢という話題がでるたびにまず「冤罪かも」という男性たち。

痛みを無視して生きているのはあなたたちです。

おなじからだの一部である女性の痛みを無視すれば社会は腐りきり破壊されてしまうでしょう。

そうなってから慌てても遅いのです。