ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

宗教について考えてみる

2019-01-31 06:44:26 | 思うこと
宗教についていろいろ本を読んでいたらネットを見ててもその文字が目に飛び込んできます。やはり気にしているからでしょうね。
それとも誰もが宗教について考えている時期なのでしょうか。

森達也氏の「A3」しかり、家入一真氏の問いかけ「あなたにとって宗教とはなんですか?」しかり。

私にとって宗教とは。自分にとっての宗教は生活・人生に当たり前の一部分であってきましたし、これからもたぶんそのままなのかなとは思います。
というのは、よく「日本人は無宗教」的なことを言いますね。私も大方と同じような感じであまり熱心に宗教活動をしてはいませんがお葬式関係は仏教で年末の鐘の音に反感は持たないしむしろ良いと思いますし、結婚式やお祝いが神前なのも当然だと思ってますし、悪い人には罰が当たると思ってますしお天道様はご存じだよ、と思います。ご飯を食べる時に(あまり言いませんが)いただきます、というのは良いことですし悪い言葉を口にするのは気が進みません。そういったことは日常の中に当たり前として溶け込んでいて宗教とも思わないで守っているわけです。

そして多くの人のように極端な宗教活動には懐疑心が湧きます。自分だけで信じている分にはいいのですが家を訪問したり一般常識とかけ離れた(例えば輸血を禁じるとか避妊をしないとか離婚できないとか)規則を厳守するのには抵抗がある、というような平凡な日本の中の一市民であります。
そんな自分自身には緩い宗教観の人間ですが宗教について考えることにはとても興味があります。

以下、考えながら書いていってしまいます。

宗教には二つの意義があって「やさしさ」と「強さ」です。この二つは互いに絡み合っています。
「宗教のやさしさ」は人々の心を救ってくれます。魂と言ってもいいです。不安になった時なにかに支えてもらわないと倒れそうな時がありますがなかなかそんな時にさっと支えてくれる人は現れません。でも宗教を信じていればその主が手を差し伸べてくれると信じられるというわけです。「やさしさ」がために強くなれるわけですね。

「宗教の強さ」はそういう人々を救ってくれる「やさしい宗教」をどのくらい強く真剣に信じているか、と問われ証明することです。困難な修行もそうですし厳しい規律を守ることもそうでしょう。そして次第にそんな素晴らしい宗教を信じないという異宗教と戦いどちらが優れた宗教であるか、どちらの宗教を信じているものが正しい人間なのかを懸けて殺し合う、という事態に発展していきます。
互いに「私の宗教のほうが真実やさしいのだ」と主張ながら殺し合うあけです。

隣人を殺しても姦淫してもいけないが、異教徒は人間でないから殺害しても凌辱してもかまわない、という規律は多くの宗教で成立してしまうようです。(その場合民族、という宗教も現れてきます)

さあて宗教はあった方がいいのでしょうか。ないほうがいいのでしょうか。

現実としては「悪い方向へ走ろうとする宗教は抑えながら、やさしい宗教を守ることがベター」というチョイスになるのではないでしょうか。
宗教の是非を単純に決めてしまうのはそれも危険なのですね。
宗教は現存の神様仏様だけではありませんね。科学・経済・主義の神様、というのも恐ろしいものであるからです。科学・経済・主義が神になる時どんな怖ろしいことになるかはもう実証済みですね。
歯止めのない科学、極端な自由経済、歪んでしまう共産主義、どれも恐ろしいし、実際腐敗してしまいました。
だからと言って科学の発展は望ましいし、経済も社会を考えることも大切なことなのです。
宗教もまた必要であるか、ないかの二択にするわけにはいかないのです。

宗教は良いけど新興宗教は怖い。
これも私もそう思うのですがそうだと決めつけるわけにはいきません。
当たり前ですが、どの宗教も始まりはあるわけだし、長い時間の中で改善され洗練されていくものですし、また長い間に腐敗し悪化していくこともあるわけですから。

イデオロギー(主義)もまた同じですよね。

つまりなんでも緩い感覚の中でゆったりと考えながら進んでいく、という状態でありたいということです。
突き詰めた極限的な世界観、宗教観はかっこいいですが、やはりすぐに無理が来ます。
そしてどこか間違ってますし、そこから歪んでくるのです。
異なったイデオロギー、異なった宗教を持った人ともゆったり話し合えるような宗教であるならいいなと思います。
力の弱い人、子供や病人や貧しい人やマイノリティにやさしい宗教であるなら良いなと思います。
戦争をせず、男女差別がなく、人種差別がなく、何事も無理強いをしない宗教であるなら良いなと思います。

そして違った宗教があることも楽しいことだと思います。







橋本治

2019-01-30 06:06:23 | 


橋本治さんが亡くなった。
 
最近は全く彼の本を読まなくなってしまっていたのだけど、若い頃はそれこそ貪るように読んでいました。
特に少女マンガについて、そして男性同性愛について書かれたものは若い私にとっての大切な指針であったのです。

マンガ評論自体が少ない時代だったと思うのですが、その中でも少女マンガを分析評論する男性の文章というのは本当に希少だったと記憶します。
そんな中で橋本治氏は心底納得できる少女マンガ論を書いてくれていました。

「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」

タイトルだけでも少女マンガの神髄をついている気がします。

夢を見つつリアルから離れない、という少女たちです。

男性同性愛。男性、と書いたのはそのままの意味です。女性同性愛についてはあまり聞かなかった気がします。
特に「恋愛論」と「蓮と刀 男はなぜ男をこわがるのか」は教科書のように思って読んでいました。良い教科書です。

そして皆があげるでありましょう「桃尻娘」
橋本治を初めて読んだのもこの小説からだったと思います。
成人男性が女子高生になって書いてみました、というような文体の小説です。しかしこの文体この内容は橋本治でなければ書けなかった文章です。そしてここでも書かれたゲイの男の子の話を何度も読み返しました。


青空人生相談所 (ちくま文庫)
これも是非多くの人に読んでもらいたい本なのですよね。様々な年代の男女の悩み事を独特の分析で答えています。
本というのは優れていても時間が経つと出版されなくなってしまうのが残念ですが、これは再版してほしい一冊です。


と書きながらAmazon眺めていました。
あああ、だめだなあ。
随分長い間、橋本治と離れていました。
今からでも読んでいきたいと思います。

「否定と肯定」ミック・ジャクソン

2019-01-29 06:31:52 | 映画


wowowにて鑑賞。

主人公はデボラ・リップシュタット/ユダヤ系アメリカ人でありホロコースト研究者であり大学教授である女性であります。彼女が自著でイギリス人の歴史著述家(大学も中退となっているので学者というのではないと思う)デヴィッド・アーヴィングを「ホロコースト否定論のもっとも危険な語り手の一人」(←wikより)と批判したことでアーヴィングの怒りを買う。アーヴィングはイギリスの裁判所に名誉棄損としてリップシュタットとその出版社を訴えることからこの物語が始まります。


この映画は事実に基づいた作品であるということですが、原作はリップシュタット著『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる戦い』となっていますね。

実にわかりやすく優れた技術によって導かれていく映画で見ごたえありました。他レビューもかなり高評価でそれこそあまり否定したものは急遽には見受けられませんでした。

ところがですねえ。私としては途中から少しずつ疑問が湧いて来てしまったのですよ。


まずはこれは映画、ですのであくまでもエンターテインメントとして見るのならばそこまで深くはなくともなかなか楽しめる娯楽映画だったと言っていいのですが、それならばこの映画は事実です、という冠をつけてはいけないのではとも感じます。大体において「これは事実です」という文章で説得をしてくる映画にはある種の脅しを感じてしまうのですが、この映画においてはそれはかなりの比重を占めていると思えます。

「ホロコーストはなかったという差別主義者の歴史著述家(大学中退の文筆家でしかない)」デヴィッド・アーヴィングはこの映画の中でかなり貧相な容姿で表情の一つ一つが憎々しくセリフも下品でセクシャルハラスメントであったり傲慢であったりします。
しかしネットで見た実際のアーヴィング氏の写真はそこまで不細工でも貧相でもなく、やや奇妙な感じがしました。これは逆の詐欺ではないかと思ったからです。

一方主人公デボラ・リップシュタットを演じるのはレイチェル・ワイズ。アメリカ人女性学者らしい気の強い発言を多発しますが可愛らしい美女なのでつい私も引き込まれて見てしまいます。
現実のリップシュタットはさすがにレイチェル・ワイズと同等の美女、というわけにはいかないでしょうけど、映画においてかなり美化してしまった感は否めません。
いやそんなのは映画として当然の技巧、というのならアーヴィング氏も同じ程度の美化をすべきだったと思うのですが、明らかにこちらは美化ではなく劣化させています。

被告はユダヤ人の正義を訴える美しい大学教授である女性デボラ・リップシュタット、片や、逆恨みで訴訟を起こした下品で差別主義者でホロコースト否定論者で貧相な初老男性で大学中退の嘘つき文筆家アーヴィング(セクハラ付き)、という図式ではだれが見てもどちらを応援するか見えてしまいます。


この映画を見てアーヴィングを応援したとなればそのこと自体で自らの人格を貶めてしまうでしょう。お前はホロコーストを否定するのか。差別主義者を援護するのか、と。
私自身ホロコーストを否定するアーヴィングを肯定する気持ちにはなれませんが、それと映画の構成と技巧を考えるのは別問題です。別問題ですが、そこを訴えることすらホロコーストが絡むと気持ちが萎えてしまいます。
それが脅しだと思う根拠です。

気持ち悪いおっさんに絡まれている若く美しい女性を救い出したい気持ちには誰でもなりますし、なるべきですし、私もなります。しかもその女性が正しいのなら尚更です。

しかし、この映画の作りは過剰に偏っています。リップシュタットとアーヴィングの過剰な美化と劣化だけではありません。
映画は映画の中でしかその問題の評価ができません。ところが実際のリップシュタットはもっとアーヴィング氏を手ひどくこき下ろしているようです。当然です。ホロコーストを否定するような輩を否定するのは。
しかし映画ではリップシュタットのアーヴィング氏への批判は露骨には表現されていません。彼女がどのようにアーヴィング氏を批判したのか、その部分も説明すべきですね。
その批判した文章を表現するとリップシュタットのイメージを損なってしまうから、ではないのかと思ってしまうのです。
「そんなひどいことを書かれたらさすがに怒るかもな」
観客にそう思わせてはいけないからでしょうか。

先に書いたようにアーヴィング氏は大学中退でありながら歴史を勉強し著述家となった男です。歴史研究に人生を捧げたと映画でも言っていました。そんなしょぼい年配の男性がまだ若い女性教授にこき下ろされたら自尊心は砕けてしまうでしょう。
勿論リップシュタットはホロコーストを否定したアーヴィングを批判したのでしょうけどもアーヴィングは自分自身を否定されてしまった。お前のような無学の男に何が判る?有能な私がお前を批判する、と言われたように思えたのでしょう。
だからと言ってアーヴィングを擁護しようとは思いませんが、リップシュタットはアーヴィングの一番痛いところを刺してしまった。その痛みで訴訟を起こしてしまったわけですね。


そして現実は当たり前ですが、正義の女性リップシュタットに勝利を告げ、みすぼらしい差別主義者アーヴィングは負けます。しかもその後も悪あがきを続ける姿を見せつけるという徹底的なアーヴィング潰しです。

実際アーヴィング氏は200万ドルの支払いを命じられ破産したそうです。
映画ではそれを言ってませんね。観客に彼を同情させてはならないのです。
あくまでもアーヴィングは狡猾な嫌らしい傲慢な嘘つき男であり、リップシュタットはユダヤ人の名誉のために戦った正義の人なのですから。

頭脳明晰なスコットランド弁護士ランプトンの活躍は見ていてほんとに面白くかっこいいのです。アメリカ女性らしい感情過多のリップシュタットと冷静な弁護団のチームは魅力的ですし、映画としての醍醐味を感じます。
一方のアーヴィングは孤軍奮闘。誰も信用せず一人で戦うわけですが、そこにも彼のコンプレックスを感じます。

いったいアーヴィング氏の心にはなにがあるのでしょうか?なぜ彼はホロコーストを否定しなければならなかったのでしょうか?
むしろその角度からの映画を見てみたい気がします。

現在日本とも置き換えて考えてしまいます。

ネトウヨと呼ばれる人々。奇妙な存在です。
日本人こそが世界で最も美しい人種だと言い、何故か同じはずの別のアジア人とは違う存在だと威張ります。
そして日本人が行ったという歴史上の愚行を否定し続けます。
南京大虐殺はなかった、従軍慰安婦はなかった、インパールでの餓死もなかったと言い募ります。挙げているときりがありません。
ネトウヨさんたちとアーヴィング氏の心は同じ構成になっているのでしょう。どうしてそうなってしまったのか、分析してみる価値はあると思うのです。

そして語弊があるかもしれませんが、先日読んだ「A3」に当てはめれば森達也氏はアーヴィング氏に当たってしまうかもしれません。

というのはアーヴィング氏は「ヒトラーはホロコーストに積極的ではなかった」と書いたとされているようだからです。その後の記述がどうだったのかによってくるので一概には言えませんが、「ヒトラーはホロコーストに積極的ではなかった」という記述はまさに森達也氏の「A3」の表現と似通っているようにも思えます。

そうだとするとアーヴィング氏と森氏は同じ?

いやいや、そう簡単に結論付けることはできません。

ただ、物事や考え方は多角的に見ることができる、ということなのではないでしょうか。

否定と肯定、角度が違うとまた別の見方ができる。

そう思えました。





「A3」森達也・読了

2019-01-28 07:14:09 | 評論・随筆


先日紹介した森達也著「A3」読了しました。

無料公開ということでネットで紹介されていたものです。この機会がないと申し訳ないけど読んではいなかったかもしれないのですが、本当に読むことができてよかったです。森達也氏の「この本を読んで欲しい」という強い願いも感じられました。



私は1963年生まれですので地下鉄サリン事件が起きた当時(1995年)は32歳です。結婚もし、子供も産んでいました。そんな中でのオウムの一連の事件は恐怖でありました。とくに坂本弁護士一家殺害事件は赤ちゃんを含む殺害だったこともあり、とても許せるようなことではありませんでした。
それでもただただ恐ろしく、おぞましく今日に至るまでほとんど本に書かれたもので読んだのは村上春樹著「約束された場所で」くらいではないでしょうか。
すでにそれも遠い記憶になっています。ただ「約束された場所で」は悪いわけではなかったのですが、それほど私には深い印象を与えてくれなかったように記憶しています。とはいえそれは記憶の中のことなので今読み返してみればまた違った感想になるのかもしれません。
近々読み直してみたいとも思います。

と書くと私がオウム事件に興味が無いようですが、そういうわけでもないのです。当時を覚えている方ならその頃のTV報道がオウム一色だったのはご存知でしょう。私もそういう報道はかなり見ていました。あまりにも見ていたのでそれ以上本で読むほどではないと思ったのもありますし、本で改めて読むのにはある種嫌悪感がつきまとうのもありました。まさか読むことで自分が引き込まれてしまうという予防線を張ったわけではないのですが、自分が絶対にそういう宗教にはまったりはしないという自惚れを持つのもいけないのでは、とも思っています。
まあそんな気持ちもあってオウムについて書かれた本は敬遠してきました。

さてやっと本題です。
そういう私にとうとうページをめくらせた「A3」読んでいくうちに思ったのはこの本に書かれているのは報道されていた当時自分が感じていたことと全く同じだ、ということでした。

以下、ネタバレになります。




森達也氏の考えが自分が考えていたことと同じ、という言い方はおこがましいようですが、自分としてはあの頃TV報道を見ていた人は同じように考えているよね、と思っていました。

というのは膨大な報道を見て聞いていると「結局これは教団の誰もかれもがいろんな役割を分担して巨大な力を持って行動したために誰か一人が凶行を命令したのではなくみんなが一つの思いを供用して起こした事件と言うわけなのだ」としか自分は思えなかったのでした。そのために報道を見ていた人ならほぼ皆そう考えただろうとなんとなく思っていたのですが森氏によれば世間はそう考えていないし、自分の考えは異端のようだということで森氏の考えがほぼ自分と同じだったと感じた私はここにきてちょっと驚いています。

私が森氏の考えをきっちり受け止めているかはわかりませんが、自分が当時思っていたことをこの著書が一つ一つ裏付け調査してくれたような感覚で読み進めていました。
と言っても森氏は現場で直接色々な体験をしかも壮絶な体験をしてきたわけで、自分の考えと違った意見を持つ人たちとの軋轢には疲弊してしまうことでしょう。
特に裁判所内での麻原を詐病だと断言して何の処置もしようとしない(すでに、しなかった、ですが)ことは奇妙なことです。

「同じ考え方」と書きましたが、これから先は、森氏の表現で私も導かれていきます。氏が幾度となく念を押すように「文章には必ず主観が入る」わけです。

裁判中の麻原の奇行は詐病だとして死刑判決をし、そして死刑執行。しかも弟子を含め13人の死刑執行を急いだ、という現実は何を意味しているのでしょうか。
麻原の刑務所内での精神の破壊はほんとうに自然のことだったのでしょうか。そのことは誰にもわからない。いや、誰も知らないわけはないのです。
しかしそのことが公になるのはいつの事か。永遠に謎のままで終えることができるのでしょうか。

日本、という国は奇妙な感性をいくつも持っています。今ここでそれらを並べ立てはしませんが「悪い(と思われることは)きれいさっぱり消し去って何もなかったことにしてしまいたい」というのが一つです。
この一連の事件はオウムそして麻原という異常な悪の仕業でそれをさっぱり消し去ってしまえば日本は元通りの美しい国になる、と誰かが考えたのでしょうか。
でもそうではないことを皆薄々感じているのです。
そして森氏は強くそう感じたのでしょう。自著を無料公開してもその恐ろしい予想を多くの人にして欲しいと思ったのですね。

本作を読んでいるとオウム真理教の事件が極めて日本的なことだと思えます。
教えに対する熱心さ、まじめさゆえに師の心を忖度し少しでも物事が上手くはかどるように全身全霊で努力する。そのことだけに喜びを感じる。一つ一つの行動に金銭などの見返りを求めていない。もっと強欲であれば計画は破綻していたかもしれないのに。
麻原も含め上層部の一人一人が良い人だった。頭脳明晰だった、と言われる。
それでも麻原がいなければこんな事件は起きなかった?
これらの事件は起きなかったかもしれないけど、違う形での事件は起きたかもしれない。
というより今現在いろいろな形で起きているのではないのでしょうか。
私は現在の政府自体にも同じ恐怖を感じます。
また「ブラック企業と呼ばれる異常な労働環境」「相撲協会」「大学の様々な事件」「学校でのいじめなど」「セクハラや痴漢なども含む女性蔑視が一向になくならない」ことにも同じような気質を感じます。それらの中でも多くの死者や苦悩する人々が出ていても改善されないことはある意味オウム事件と同じ恐怖のはずですが、これらは日常化しないもののようにすら感じているのではないでしょうか。

オウムの麻原と信者に対してはとことんまで追求し分析し続けるべきだったはずなのに処刑することで何も無かったことにしてしまったのです。
麻原の精神破壊に関して将来何らかの公表があるのかもしれません。
ないかもしれません。それを知るすべもないでしょう。

そして日本という国はこれからも「悪いことは消してしまう」というやり方で進んでいくのでしょうか。
 
私は本当はそうではないと思いたいのです。
今までも少しずつ解決してきたこともあるはずです。
少しずつ物事を考えより良い方向へ向かって進んでいきたい。
そう願っています。


「A3」森達也

2019-01-25 07:08:42 | 評論・随筆



森達也「A3」


1995年オウム真理教によって地下鉄サリン事件が起きてからすべてが変わってしまった、ということをその時代に意識を持って生活していた者の多くは感じているのではないでしょうか。私自身は物凄くそう思っています。

しかしこの事件、そしてこの宗教について話すことは難しいというより先に恐怖が勝ってしまいます。

考えることにも距離を置いてしまっていたのですが、やはり知り、考えねばならないのだと思います。
まだ読み始めたばかりですが、多くの人にも知って欲しくこのブログでもリンクを貼らせていただきます。
同時に知ったYouTubeもリンクします。

『クラウド 増殖する悪意』森達也さんライブトーク@ふらっとすぽっと!