ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「昔はよかった」のだろうか?

2018-09-28 07:09:10 | 思うこと


昔の映画はよかった。

年を取ってくると必ず言ってしまう言葉のひとつではないでしょうか。映画に限らずとも歌でもTV番組でもマンガや小説でも多感だった頃に見聞きしたものは鮮烈に体に染み込んでいるものだし、都合よく良いものだけを選択していることもあるでしょう。
私自身、やはり子供時代・少女時代に得た感動を年を経てから同じようにまたそれ以上に体験することはないと言っていいでしょう。
ただ、昔の作品(映画・アニメ・ドラマ・小説など)を見返しているとかなりの頻度でぎょっとしてしまうことがあるのですね。

それが差別的表現なんです。

実例を挙げていった方がわかりやすいですね。

例えば「トムとジェリー」これはもう私(50代)にとってバイブル、と言っていいほどのTVアニメです。繰り返し繰り返し文字通り数えきれないほど見ました。あの頃は夕方アニメの再放送をするのが通例だったのですが、「トムとジェリー」は無限ループでやっていましたし、大好きだったので飽きることもなしに見ていました。
その中で頻繁に登場するのが黒人のメイドさん。なぜか顔が映らない(白人たちは顔がちゃんと描かれているのですが)のです。太った体型で装飾品が好きで言動が乱暴なのも昔の映画の黒人描写によくあるタイプのものでした。無論、子供の私は何も深く考えず、顔が映らないことすら面白おかしく感じていたのですが、今思えば白人の描き方とは明らかに違う作意がありました。トムジェリは可愛いけど過激なアクションが特徴で爆発すると顔が焦げるのですがその描写は「爆発すると黒人顔になる」として笑わせますし、いたずらで黒人の姿になってしまったネズミのジェリーを焼いた皿の上で熱さで躍らせる、という演出はさすがに惨たらしいものでした。
私はこういった場面を、確認することなしに頭の中で再現できてしまうほど刷り込まれてしまってて、それほど大好きだったのですが、こういった表現を「あの頃はそれで当たり前だった」「深い意味はないよ。それで差別意識は生まれない」とは言えないし、言ってはいけないと思うのです。
今現在の私は黒人に対してトムジェリで見て来たような価値観を抱いてはいません。でもそれはその後に多くの映画や小説・または報道などを体験してきて上書きされているからです。もしトムジェリだけの知識しかないならそういった感覚を持っていても不思議ではないと思えます。

6~70年代に日本でTV放送されていた「トムとジェリー」はアニメーションとして素晴らしい出来栄えで面白くて可愛くて私たち子供にアメリカの文化を教えてくれた教師でした。私は本当に大好きでした。
でもその最高に楽しかった記憶でその中で数多く描かれてしまった差別表現への批判を消し去るわけにはいきません。
良い作品だから多少の差別は仕方ない、というわけにはいかないのですね。しかも残念なことにトムジェリはかなりそれが多いのです。笑わせるのが目的のアニメなので差別することで笑わせる、という手法がどうしても頻発してしまう。それが一番おかしい、ということにもなってくるのですよ。

アニメ「トムとジェリー」は例えのほんの一つにしか過ぎなくて、昔の作品はこういうことがまさに「当たり前」すぎるのです。

先日映画「七年目の浮気」を見返しました。なんだかアメリカ作品ばかりやり玉にあげてますが、それくらいアメリカのものを見て育った世代なんですね。日本のものよりアメリカのものを見ていたような気すらします。
他愛ない男の夢物語コメディ、くらいに記憶していたのですが、これが全然「他愛なく」見られないのです。女性蔑視、なんて問題じゃないのですよ。よくこの映画のあらすじ、というので「旦那が女房子供を避暑地へ追い払って」という説明がされてますが
、その冒頭からして神経逆なでされます。
女房子供を追い払う前に映画の導入部が始まります。
嘘か真かわからないのですが「このマンハッタン島では昔マンハッタンインディアンが暮らしていて」という説明が映像で表現されます。
類型的な姿のインディアンが夏場女房子供を追い払って若い女性インディアンと浮気をする、として「今も昔も変わりませんね」というものなのですが、これはあまりにも下品ではないですか?

しかし実際のネイティブアメリカンがそのようなことをしていたのか?と問いただしても「コメディだよ」と笑われるだけで終わりそうです。(勝手に落ち込んでもしょうがないですが)

しかもそのすぐ後の場面、件の旦那が女房子供を追い払うために駅に見送りに来ます。大量の旅行鞄を黒人のポーターが運んでいるのですが、その荷物の上に宇宙服を着た男の子が座っておもちゃの光線銃でその黒人のポーターを狙って撃ち続けるのです。
黒人ポーターは「いつものこと」とでも言いたげに硬い表情を崩しませんが、もちろん怒れるわけもなく無言です。父親である主人公は「やめなさい」とは言うものの「銃を人に向けて撃ってはいけない。ポーターさんに失礼だよ」と言って謝罪したりはしません。いくら銃社会だといっても、いや銃社会だからこそやってはいけないのでは?黒人ポーターは人ではないのでしょうか。銃を向けて撃つのは失礼ではないのでしょうか。

男の子は「地球の敵がいるんだもん。宇宙から侵入してきたんだ」と言ってさらに黒人ポーターを打ち続けます。まさか、このセリフ本気で言わせたのではないですよね?まさか、ここに主題があったのではないですよね。

ポーターが白人であればもう少し違う態度であったのでは、とも思えます。黒人ポーターだからなのか、主人公はポーターのほうをチラリとも見ずにしかもその後男の子にキスをして、つまり全然怒っていない、つまり息子の態度はちょっと乱暴ではあったけど、当たり前のことで叱るほどではないと判断しているのです。


他愛のないコメディと評された映画でマリリン・モンローの色気と可愛さを見ようと思って見始めた映画の冒頭で立て続けに人種差別を当然のこととして見させられ、とても続けて見る気がしませんでした。
女性蔑視などという以前の問題です。
監督のビリー・ワイルダーは巨匠と評されていますし、自身もユダヤ系ということで差別も受けたでしょうし、数々の名作と言われる映画を作り、多くの賞を受けた人です。
私自身はワイルダー監督作品をそれほどきちんと追って見てこなかったので全体の作品の批評というのはできませんが、この「七年目の浮気」については冒頭を見ただけで続きを見ることができない差別主義者としか思えなくなりました。
しかしこれもコメディですね。
コメディを作る時、人間は自分の本音が出てしまということなのでしょうか。

ここに挙げたものはごく僅かな例えでしかありませんね。昔の作品を見るとぎょっとするような表現が多々ある。ということは今作られて評価されているものも時代が移れば違ったものになる、ということがあり得るのですね。
その時々によく見てよく考えなければいけないのだと思うのです。

ぼーっと生きてんじゃねえよ!ということですね。

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