善人と悪人

2004-11-14 18:13:18 | 英語
中野好夫(1903~1985)という英文学者・エッセイストのエッセイに「悪人礼賛」という好編がある。中野氏は人間を(善意の)善人と悪人とに二分し、善人は困った存在であるが悪人は褒むべき存在だと言う。悪人は悪をなす上で「文法」を持っていて無茶なことは仕掛けない。それに対して善人は「文法」を持っていない。善を「錦の御旗」と心得ていて、それをやたらと他人に投げてよこす。動機が「善」であれば一切の責任を免れると信じている。

中野さんの「善人」と「悪人」はこのエッセーでは全く定義されていない。だから「悪人」とはどういう人たちなのか、これだけ読んでも分らない。勝手に分れ、という仕組である。中野さんらしい書き方だ。中野さんは頭の悪い人間と退屈な人間が嫌いなのだ。
善人・悪人の定義はないが、何となく分る。
たとえば善意の善人は教員に多いのではないか?教員の使命は子供の「良い所」を見つけてそれを伸ばしてやることである。そういう仕事を何十年も続けていると世の中には善意の人ばかり居るような錯覚に陥るキケンがある。そういう錯覚に陥った教師に教えられる子供こそ良い迷惑である。この世には悪もある。いやむしろ悪の方が歩が良いかもしれない今日この頃だ。善と悪の両方を知った上で2つをバランスにかけながら知性を構築する人でないと他人様を「教育」する資格はなさそうである。

悪人は文法を持ち、善人は文法を持たない、というのは実に鋭い指摘である。しかしこれは中野さんが生きていた時代で終ったのではないか?新潟中越地震で被災した人へ「おれおれ詐欺」を仕掛けるような人間はどういう文法を持っているのだろう?頭が良いだけで無文法に悪を仕掛けてくる。こういう連中に対処するためにも、我々も「文法」を持たなければ生きていけない時代がもう来たようだ。

断る英語表現

2004-11-13 20:12:28 | Weblog
頼みごとと、断ることは人間関係の中で難しいことの双璧です。前のブログでは頼みごとする場合についてちょっと考えてみました。
それでは断る時はどうなんでしょうか?「No を言えない日本人」などということがよく言われましたが、英米人だって断る時にいきなり"No."と言うとは限らないと思います。いや言わないことの方が多いのではないでしょうか?特に相手が頼みずらいことを頼んできたのに断らざるを得ないような場合はつらいことです。
「1000ドルばかり貸してくれまいか?ワイフが入院してるんだがそろそろ貯金が底をつきそうなんでね」などと親友から頼まれて断りたいならどうするでしょうか?この状況でただ一言 "No." で済ませるなんて考えられないことです。
まず、"Let me see." とか "Well. Well," などの無意味な言葉で場をつなぐでしょうね。しばらく時間稼ぎしてから、"I'm very sorry, but ・・・" とか "I'm afraid I can't ・・・" などとジワリと話を断る方向へ持って行くのだろうと思います。ま、お互いの人間関係によって千差万別の断り方があるのでしょうが・・・。

少なくとも、I'm very sorry, but・・・とI'm afraid・・・は武器としていざという時には使えるようにすべきでしょうね。I'm sorry と言っただけで相手はもう引き下がる心の準備をするはずです。
え、結婚を申し込まれたら?「待ってちょうだい」とか「時間をくれ」という表現はたぶんYesの意味に取られかねないと思います。これだけは一生がかかってますからいやな相手だったら、話のどこかの時点ではっきりと No を言うべきでしょうね。ただし、相手が Do you mind marrying me? と来た場合に No と言ったら大変です。承諾の表現ですからね。

英語の敬語表現

2004-11-13 19:43:59 | Weblog
日本語の敬語の難しさは世界に冠たるもののようで日本語を学ぶ外国人を苦しめてますが、英語(いや英語以外の外国語でも)敬語表現がしっかりと根付いており、これを知らないで米英諸国に行ったらヒンシュクを買うことになるかもしれません。

敬語表現とはどういう場合に使うのでしょうか?相手を敬うために使う、と言ってしまえば実もフタもありません。だって敬語を使うのは相手が年長者であるとか仕事上の上司である場合だけではないでしょう?むしろ、相手との親疎の程度による場合が多いのではないでしょうか?始めて出会った人同士ならしばらくは敬語的表現を重視して話すのが普通です。

さて、英語で敬語的表現が最もよく観察されるのは「お願いの表現」だろうと思います。
「駅へ行く道を教えてください」という表現には、次のようなものがあります。

(1)Tell me the way to the station.
(2)Tell me the way to the station, please.
(3)Tell me the way to the station, will you?
(4)Will you tell me the way to the station?
(5)Would you tell me the way to the station?(Could you・・・?)
(6)Do you mind telling me the way to the station?
(7)Would you mind telling me the way to the station?
(8)I wonder if you could tell me the way to the station.
(9)I wonder if you would mind telling me the way to the station.

もっとあるかもしれません。(1) → (9)へ行くにしたがって丁寧な表現になるでしょうが、同時に、相手との距離を大きく取るようになります。親しい人へのお願いである場合は(4)くらいが限度ではないでしょうか?(5)のWould you ・・・・?を親友に使うとすれば、何か仲たがいしている場合ででもなければ言わないでしょう。(7)の Would you mind・・・?は高校の文法の時間などでしっかりと習いますが、実際は殆んど使うことは無い表現だろうと思います。すごく頼みずらい状況の下でならば使うかも知れませんが、どうなんでしょうか?これで頼んだら相手は怒るかもしれません。なぜそんなに私と距離を取るんだ、というわけです。特にアメリカではまず使わないでしょうね。
(8)は Would you mind のさらに上を行く表現です。「あなたとは人間関係に於いて無限の距離はあるが、駅への道を訊くくらいならば差し支えないだろうから訊きます。」というようなニュアンスが感じられていきなりこれを使ったら相手はびっくりするだろうと思います。頼むことの内容が非常に訊きずらい事柄(たとえば相手のプライバシーに関するような事)ならば、これを使うことは充分考えられます。たとえ相手が親友であっても、です。(9)に至っては相手との距離を無限大にとっており、なにやら滑稽な感じさえしますね。

観光客としてアメリカなんかを訪れて道を訊くならば(4)か(5)くらいが良いのではないでしょうか?

敬語的表現は英語でも奥が深いものです。相手が非常に気が置ける人物である場合は、自分の話す英語全体を敬語的に構築しなくてはなりません。たとえばチャールズ皇太子に話しかける場合は、恐ろしく気を遣うでしょうね。もっともチャールズが「もっとキャジュアルな英語で話せ」などと言ってくれたら別ですけれどもね。

英語のお願いの表現でもっと別の表現があったらぜひ教えてください。


まんぢう と まんじゅう

2004-11-12 22:03:12 | Weblog
本当に久しぶりで「ぢ」という旧仮名遣いの文字を見ました。これはまんぢう屋さんの看板に書いてありました。「まんぢう」・・・ウ、いかにも美味そう!
「まんじゅう」ではその「なんともいえない旨味」が消えかかってるような感じです。だから旧仮名遣いに戻そう、などど言っているわけではありませんが。

Neet という生き方について

2004-11-12 20:18:25 | Weblog
はじめまして。興味深く読ませていただきました。おかげさまで1つ単語を覚えました。NEET という単語です。Not in employment, education or training の頭文字をとったものだそうですね。初めて覚えました。68万人居る、ということでしたね。フリーターというのともちょっと違うような気がいたします。フリーターの中には正社員になりたくてもなれない人がかなり含まれているのだろうと思います。好きでフリーターをやってるのではない人たち、ですね。
Neet さんたちは、何をする気もないのですから、一種の隠者みたいなもので、ほとんど生きているのかどうかも分りませんね。そういう人たちが人口の 0.5% 強くらい居るわけです。何をやろうとしても親や先生が先取りしてやってくれるような学校時代を過し、現在は職業はなくても暮らすのにも遊ぶのにも何の不足もない、しかも悪いことには、先に何の希望もない、ということになれば、こういう人たちが 0.5% くらい居るのは仕方ないことだろうと思います。そして残念ながら今の日本にはこれくらいの人たちを「養う」余裕があります。江戸時代にも「遊び人」というグループが僅かながらいたようですが、どうも彼らは自分たちの生き方を心から肯定していたわけではなさそうです。どこかに罪の意識はあっただろうと思います。Neet さんたちにはそういう意識はあるのでしょうか?あったらとっくに Neet であることを止めているはずですからたぶん無いのでしょう。

名詞構文

2004-11-11 21:46:54 | Weblog
英語には、動詞で言えば済む場合にその動詞が名詞化した表現で言う傾向があります。英語では根強い表現です。

have a swim(=swim), have a try(=try), have a rest(=rest),
などのような例を見れば感じを掴んでいただけると思います。この表現は動詞1つよりはずっと好まれるようです。たとえば have a swim では、単なる swim よりもずっと具体的に感じられるようです。なぜなら、「泳ぐことを持っている」わけですから経験の表現としては swim よりは優れております。

He is a good swimmer.(泳ぎが上手い) とか She is a good cook.(料理が上手い) He is a great fish eater.(彼は魚を沢山食べる) He is a good judge of horses.(彼は馬を見分ける目がたしかだ) He is a good sleeper.(彼は眠りが深い) のような動詞が行為者の中に含まれる表現も英語では非常に好まれます。

こういう表現の仕方を、「名詞構文」という名前で呼ぶ人がおります。(江川泰一郎さんなど)良いところに目をつけたものだな、と思います。
名詞構文を上手く使えるかどうかで、その人の英語の「英語らしさ」がまるで違ってくるようです。どうでしょうか、名詞構文による表現を数多くものにするように努力したら・・・。


小さい秋とは?

2004-11-10 23:02:18 | Weblog
この有名な歌の「小さい秋」という表現は日本の秋の情緒を実に的確に表している。だれでもよく分る。しかし、「小さな秋」とはどういうことだ、と開き直られると、これは答えるのが難しい。

私の勝手な解釈によれば、秋とは万物が次第に縮小して、遂には無に帰す季節である。万物が縮小すると共に人間の心も考えも縮小するに違いない。「小さな秋」とは「小さな秋の中の自分」ということなのではないか?心が縮むと目も縮む。目が縮めば、何でも小さく見える。象を見てもネコくらいにしか見えない。したがって象を見て涙を流す人もいるかも知れない。私は今朝アラブ人が懸命に英語を話しているのを聞いているうちに、ふと涙が出てきた。これは何なのだろう?
老いれば人生の秋である。したがって何でも小さく見えるようになる。

「小さな秋」とはそういうこと、つまり縮小した自分のことなのかもしれない。それを「見つける」とは何か「自分探し」に通じるようでもある。道を歩いていると、少し前方に「縮んでしまった自分」がヒョコヒョコ歩いている、というような感覚なのかもしれない。なんだかアイルランドの妖精の話みたいだけれど。

たとえば小さな落ち葉を見てそれを「小さな秋だ」と称するのはいかがなものだろうか?たしかに落ち葉は小さい。そして今は秋、それも晩秋である。でも、それだけでは落ち葉の小ささと秋とを結ぶものが無いのではないか?その2つの間に縮んだ自分の心が介在して、始めて落葉は「小さい秋」になることができる。

年1個(?)

2004-11-10 21:45:08 | Weblog
今日のNHK教育で、最近助数詞が少しづつ変ってきていることがテーマになっておりました。1個、2個、の「個」も助数詞には違いありませんが、本来の助数詞の性格を失う寸前の言葉です。なお、「助数詞」とは、「鳥1羽」「本1冊」「紙3枚」などに見られる、羽、冊、枚、などのことです。日本語は名詞によって助数詞が違うという外国人にとっては極めて厄介な数体系を持っております。いくらやっても外国人は助数詞だけは難しいと言う方が多いようです。
ところが、最近、ごくわずかながら、日本語の物の数え方が英語なんかに似てきたようです。つまり、「***個」という普遍的な助数詞を今までにない物事に使うようになってきた、という話でした。たとえば、「私はあなたよりも年が1個多い」などと言うことが若者の間に広がっているのだそうです。私はアンテナが低いので、こんなことは始めて聞きました。そして驚きました。日本語のどこか奥深い所が変ってきている、と思います。助数詞は外国人にとっては実に厄介なものではあるけれども、1つの日本の文化なんです。助数詞を失った日本語なんて羽をむしられたニワトリみたいなもので、日本語の大きな部分が欠けることになります。「年1個」はほとんど幼児語ですね。オトナが平気でこんな日本語をしゃべるとなると、これは大変なことです。意味が通じさえすれば表現などはどうでもいい、というかなり怠惰な気分の表れではないでしょうか?

Here you are. のこと

2004-11-09 22:44:09 | 英語
Here you are! (さあ、どうぞ)というのは面白い表現です。「あなたはここに存在する」ということと、「さあどうぞ」は関係があるのでしょうか?
私個人的には、これはこの表現全体として相手の注意を引く表現であって、文そのものにはほとんど意味がないのではないかと考えてます。文全体で間投詞みたいなものでしょう。そういえば here にも間投詞的な意味があるようです。たぶん最初は Here it is. などを使っていたのではないでしょうか?それが it is では相手へのインパクトが小さいと感じて、you are にしたのではないかと思います。Here we are.(さあ着いたよ)もこれで説明できそうです。文全体で間投詞みたいなもの・・・・。

病気の表現にはhaveが多い

2004-11-08 17:35:41 | 英語
病気、というとhaveときますね。「今私の体の状態は~です」という表現の多くはhaveで済むようです。いわく、
have a fever(熱がある)、have flu(インフルエンザにかかっている)、have a toothache(歯が痛い)、have a pain in the stomach(腹が痛む)・・・・。
have にはsuffer fromの意味がありますから多いわけですね。

ただ、日本語の「持つ」が気になります。どうも日本語の「持つ」は、自分にとってプラス価値のものを「持つ」場合に使うことが多いでしょう。「お金持ち」「時間持ち」「彼車持ってるよ」等々。もっとも「癇癪持ち」「病気持ち」もありますね。でもこれはどうも「病気を所有している」という感じではないように思います。「癇癪や病気が頻繁で永続的な状態」を表すのではないでしょうか?つまり、癇癪や病気にしっかりと取り付かれている、という感じです。

英語のhave は考えると面白い動詞で、所有する物が有り難いものであろうとロクでもないものであろうと、一切関係ないようです。大変クールな動詞?

あとついでですから病気表現で面白いのは、日本語の病気表現には「主体性」がありませんね。たとえば、「歯が痛い」などと言う。「私は歯痛を持つ」という主体性が感じられません。だから病気に負ける。「熱がある」なんて他人事みたいに言う。「病気には勝てない」ということなのでしょうか?病気だけは英語にならって、「熱を持つ」「歯痛を持つ」という表現を流行らせて、もっと病気に対して立ち向かう姿勢を養ったらどうでしょうか?
またバカなことを書いてしまいました。