イヌもネコも人間様のかかる病気のほとんどにやはり罹ると言いますね。先日はネコの尿道結石の記事を読んでびっくりしました。こんな高級な病気にかかるのか、と思ったわけですね。
イヌもネコも人間に似た点はすごく多いようですが、笑うのだけはどうも人間だけのようです。動物は笑いません。ネコはある特殊な条件ならば笑いに似た表情を見せる、という説がありますが。
言葉ならば、インコなどは喋りますから人間と動物を分ける決定的な要因とはならないのではないかと思いますが、笑いだけはどうも人間だけのようです。「はじめにことばありき」ではなくて「はじめに笑いありき」が真相のようです。
笑う、というケッタイな動作はいったいいつから始まったのでしょうか?チンパンジーは笑わないらしいですね。では、原始人は笑ったでしょうか?どこかに原始人の笑いを録音したCDが残ってますか?たとえば、北京原人は笑いましたか?クロマニョン人は笑いました?ホモ・サピエンスが現れて、直ちに笑いましたか?
考えると、笑い、って人間の生存に寄与するところが甚だ少ない動作でしょう?笑うと死ぬのを免れた、ということはありますか?ムダなエネルギーは使わないというのが生物の生きる上での原則でしょう?ところが人間だけは「笑う」とか「考える」とか、一見生存に関係ないような行動をする。これは不思議ですね。
「笑い」の発祥は、やはり仲間どうしのコミュニケーションの一種だったのではないか、と私などは考えます。「おい、佐藤」だけでは、相手に「威嚇」ととられてしまう可能性がある。それで、(パソコンの顔文字みたいに)「アッハッハ」を前にくっつけたのではないでしょうか?じゃあ、疑問が出てきます。「アッハッハ」が「威嚇」の表現ではなくて「親和」の表現である、という共通理解はいつごろから流布したのでしょうか?だって、下等なサルならば、歯を見せることは「威嚇」の表現でしょう?歯を見せないで笑うことはできませんからね。
笑いの発祥は、言葉の発祥に負けず劣らず不可思議であって奥深いもののように感じます。それゆえに、笑いはよほど人間存在に根源的に関わっている動作のように思われるわけです。
ところが、我が日本では、この笑いが減ってきたようです。ま、そもそも武士はあまり笑わなかった階級とされておりますが、時には無礼講などと称して思い切り「ガス抜き」をやったみたいですよ。けっきょく、ごく最近までは、笑いの総量は男女貴賎を問わずほぼ同じで経過してきたように思いますが、違いますか?その笑いがどうも薄くなっているような気がするのは間違いでしょうか?皆さん、硬直していらっしゃる。「斯くあらねばならない」という思考形態がいろいろな活動分野で幅をきかせるようになっているようです。たとえば、教育
の分野ではそうですね。だから笑いも少ない。ひょっとしたら、豊かであることは笑いをあまり要しないことなのかもしれません。すべて達成されてしまったら、前進、希望、努力、などというd>動きは必要ありませんものね。笑い、などという動きも必要ありませんね。
動かなければ人間は半分死にます。最近のNEETという現象も豊かであるが故の動きの停止、と関係ないのでしょうか?
もっとも、私は今の日本が豊かである、とは全然思いません。極貧ではないけれども貧しいなあ。モノもカネも溢れているけれども貧しいなあ。そう思いませんか?
イヌもネコも人間に似た点はすごく多いようですが、笑うのだけはどうも人間だけのようです。動物は笑いません。ネコはある特殊な条件ならば笑いに似た表情を見せる、という説がありますが。
言葉ならば、インコなどは喋りますから人間と動物を分ける決定的な要因とはならないのではないかと思いますが、笑いだけはどうも人間だけのようです。「はじめにことばありき」ではなくて「はじめに笑いありき」が真相のようです。
笑う、というケッタイな動作はいったいいつから始まったのでしょうか?チンパンジーは笑わないらしいですね。では、原始人は笑ったでしょうか?どこかに原始人の笑いを録音したCDが残ってますか?たとえば、北京原人は笑いましたか?クロマニョン人は笑いました?ホモ・サピエンスが現れて、直ちに笑いましたか?
考えると、笑い、って人間の生存に寄与するところが甚だ少ない動作でしょう?笑うと死ぬのを免れた、ということはありますか?ムダなエネルギーは使わないというのが生物の生きる上での原則でしょう?ところが人間だけは「笑う」とか「考える」とか、一見生存に関係ないような行動をする。これは不思議ですね。
「笑い」の発祥は、やはり仲間どうしのコミュニケーションの一種だったのではないか、と私などは考えます。「おい、佐藤」だけでは、相手に「威嚇」ととられてしまう可能性がある。それで、(パソコンの顔文字みたいに)「アッハッハ」を前にくっつけたのではないでしょうか?じゃあ、疑問が出てきます。「アッハッハ」が「威嚇」の表現ではなくて「親和」の表現である、という共通理解はいつごろから流布したのでしょうか?だって、下等なサルならば、歯を見せることは「威嚇」の表現でしょう?歯を見せないで笑うことはできませんからね。
笑いの発祥は、言葉の発祥に負けず劣らず不可思議であって奥深いもののように感じます。それゆえに、笑いはよほど人間存在に根源的に関わっている動作のように思われるわけです。
ところが、我が日本では、この笑いが減ってきたようです。ま、そもそも武士はあまり笑わなかった階級とされておりますが、時には無礼講などと称して思い切り「ガス抜き」をやったみたいですよ。けっきょく、ごく最近までは、笑いの総量は男女貴賎を問わずほぼ同じで経過してきたように思いますが、違いますか?その笑いがどうも薄くなっているような気がするのは間違いでしょうか?皆さん、硬直していらっしゃる。「斯くあらねばならない」という思考形態がいろいろな活動分野で幅をきかせるようになっているようです。たとえば、教育
の分野ではそうですね。だから笑いも少ない。ひょっとしたら、豊かであることは笑いをあまり要しないことなのかもしれません。すべて達成されてしまったら、前進、希望、努力、などというd>動きは必要ありませんものね。笑い、などという動きも必要ありませんね。
動かなければ人間は半分死にます。最近のNEETという現象も豊かであるが故の動きの停止、と関係ないのでしょうか?
もっとも、私は今の日本が豊かである、とは全然思いません。極貧ではないけれども貧しいなあ。モノもカネも溢れているけれども貧しいなあ。そう思いませんか?