学校受難の時代

2006-10-31 20:56:28 | Weblog
連日のように学校が報道されている。まるで嵐のような・・・。ほとんど毎日であって、これは連鎖現象なのかもしれない。そうでないのかもしれない。学校側の不手際が目立つ。でも学校は事務的な手際よさが何にも増して要求される職場ではないはずだ。むしろ不手際でも、教え方が上手でよく勉強している教員の多い学校が良い学校であるに決まっている。学校長の言うことが9時と10時とで食い違っても、そこに誠意が認められるのであれば、それは致し方のないことではなかろうか。発言の整合性をあまり過度に追及すると、それは一種の裁判所である。裁判所で勉強したい生徒はあまり居ないだろう。
こういう時代はいずれは去る。こういう時は知らぬ顔で本を読んでいる教員が優れた教員なのだろうと思う。目先の現象にいちいち目をパチクリさせていてはイノチがいくらあっても足りない。

世界史等の履修時間不足のこと

2006-10-29 19:47:03 | Weblog
いま日本の学校を揺るがしているこの履修時間不足問題について悪い頭で考えてみる。ある方のブログに次のような主旨の投稿があった。生徒の方ではやりたくもない世界史などを習いもせずに単位をもらったのだから、一種の利益を得たことになる・・・。それはそうですね。しかしそれは学校を信頼した上で得た利益ですよね。生徒が単位取得上の不正を学校ともども共謀してやっている、という悪意があったのではないだろうと思います。私もこのことではずいぶん考えてみましたが、今年だけの特別措置としてレポート等で単位に当てるのがベストではないかと思うようになりました。生徒への負担もさることながら、丸々の補習は師弟の信頼関係を悪く傷つけるのではないか、と危惧されるのです。「信頼した上で得た利潤」は尊重するのが妥当かと思うわけです。ただし、世界史を習わなかったことのツケは大きいことを警告することは必要でしょうね。かく言う私は高校時代日本史を履修しなかった。そのツケはまことに大きいものです。「必要でない学科は履修しない」というのは恐るべき浅はかな利益優先の考えですね。必要でないものこそ学校で履修すべきなんです。必要だったら勝手に自分でやるわけですからね。

単位不足卒業危うし

2006-10-26 21:12:44 | Weblog
世界史等を履修しなかったためにこのままでは卒業できない学校が多数出ている模様である。(朝日の調査では全国で93校)どうしてこうなるかというと、センターテストでは社会1教科だけを選択すればいいために、受験する教科(多くは日本史)だけを履修させそれで世界史を履修したことにする、ということらしい。問題の学校では、こういう履修形態を当然のこととしていたようだ。そして、県教委もこれを黙認していたらしいのである。しかしこのたび、富山県で表ざたになりさらには全国規模の問題となってしまった。
この件の底には高校教育の根深い問題が横たわっている。今の受験校は、教育の場であるよりはむしろ利潤(=有名大学受験合格者数)を上げることを至上命令とする企業なのだ。教育10%、企業活動90%、と踏むのは酷すぎるだろうか。そういう状況だからムダは極力省いて「効率」だけを重要視する風土がすでにしっかりと根を張っている。国公立の有名大学への進学率を高めるためなら何でもやるのが受験校というものだ。今回の問題もその一環に過ぎない。今回の単位不足の問題そのものは補習をやってそれで終ることだろうが、学校が企業であることには何の変わりもないだろう。立花隆氏に指摘されるまでもなく、高校で生物を履修しなかった者が医学部へ入学する時代なのだ。入試の際の効率だけを重視すればこうなるのは当然だ。
今回だって、どこかの受験校の生徒が言っていた。「世界史の補習は受けるけれども、その時間は受験のための勉強をする」と堂々と言っていましたよ。

鉛筆でなぞる本、その後

2006-10-23 19:47:28 | Weblog
前に「鉛筆でなぞる本」のことを書きましたので、その後のことを・・・。
私が買ったのは「おくの細道」と「般若心経」でした。「おくの細道」は最初の2ページと、あとは点々と気に入った箇所を2~3行写して、それで放棄してあります。このように続かない最大の理由は、なぞって写しているテキストの内容をよく理解していないためだろうと思います。分からないテキストをただオーム返しになぞるのでは作業が空しくなるのも当然です。
この作業で得た教訓は、まずテキストを暗唱できるくらいにしっかりと読み込むのが最初だ、ということでした。般若心経にしてもそうだろうと思います。まずテキストの理解、そして朗読です。なぞることや写経はその後の作業だろうと思います。もっとも般若心経については、テキストの理解そのものが容易ではありませんけれども。

自殺事件

2006-10-16 20:36:17 | Weblog
福岡県で級友にイジメラレた中学2年生が自殺したそうだ。連日のようにマスコミは騒いでいるけれども、私は自殺した本人にも、その親にもあまり同情はできないのだ。まず、本人であるが、自殺する前に生を肯定するための実務的な作業をやったのだろうか?断固として、「もうあの学校へは行かない」となぜ宣言しなかったのだろうか。死ぬ代りに・・・・。それで10日か1ケ月、あるいは1年くらいはゴタゴタしたことだろうが、死ぬよりは良いではないか。なぜ生きたままで闘う立場を取らなかったのだろうか。死ねばいじめたやつに復讐できる、と思ったとすればそれは浅はかだった。死ねばほぼそれで終わりだ。あとは忘れ去らせるばかりだ。
次に両親である。まことにお気の毒ではあるけれども、無条件で同情はできない。というのは、子供さんに多少のことではびくともしないしぶとさ頑強さ、そして図々しさを植えつけてやったのだろうか?子供が小さい頃から子供と遊んでやったのだろうか。答えがイエスであればいい。ノーであれば、真っ先に子供に詫びなければならないのは親御さんである。酷いようだがそうだ。今の日本はあらゆるところでイジメが猛威を振るっている。職場でも老人会でさえも。組織あるところにイジメあり、という状況であるらしい。それを認識されるべきだ。いちいち自殺していたのではイノチがいくらあっても足りない。それを認識されたら、軽々しくマスコミの騒ぎに乗って、声高に学校当事者を非難することはなかったのかもしれないと私は思う。
学校をいくら非難してもどうしようもない。非難に値する学校でもないようなのだ。こんな学校ばかりではない。だから敗者復活は、その気にさえなれば出来ないことはなかったのだ。

集落営農のこと

2006-10-07 20:00:25 | Weblog
昨日NHK東北から集落営農についての番組が放映された。これまで集落営農について関心も知識も甚だ薄かった小生も多少は目が醒める感じで拝見した
ともかく、また政府主導の農業政策ですか、とウンザリする思いだった。
たとえばこの番組の出席者であった東北農政局のお役人の方の能天気な発言には驚いた。この政策によって明るい農業の未来が開けるのだ、という発言だったが、何という役人気質丸出しの発言だろうと半ば呆れた。
農業と一口に言ったところで物的・人的条件は多種多様なので、中には上手く行く所もあるだろう。(たぶん短期的には・・・)しかし上手く行かない所の方が多いのではないだろうか?そして後に残るのは、農業後継者の更なる減少、そして農地の更なる荒廃・・・そういうことで終る所が(圧倒的に)多くなりそうな気がする。一口で言えば「農業の工業化」なんでしょう?
昨日の放送でもまずは「コスト」だったものね。それに「効率化」・・・。こういう言葉が飛び交うようでは上手く行くものも上手く行かないような気がする。ま、以上はド素人の独り言であって、これが本当に日本農業にとって起死回生の政策となった、という結果に終るのであればそれは本当にメデタイことです。でもそんなことにはならないように思う。