童話「フランダースの犬」がかくも人気があるのは世界で日本人だけだそうだ。このことに興味を持ったあるベルギー人の映画人が「日本人とフランダースの犬」というテーマでドキュメンタリー映画を作って公開した、というニュースがつい先日新聞に載っていた。
ご存知の通り、この童話の主人公である15歳のネロ少年はクリスマスイヴの夜忠犬パトラッシュと共にアントワープの大聖堂に入り、そこでルーベンスの名画(キリストの降架)を見た後そのまま凍死する、という筋である。上のベルギーの映画人はこの大聖堂のルーベンスの絵の前で自分のドキュメンタリー映画を公開したそうだ。この場所で日本人の女性観光客が泣いているのを見たのが映画制作のきっかけだったという。
日本人と「フランダースの犬」、に興味を持ったのはこのベルギー人が最初ではない。故司馬遼太郎氏が「街道を行く」シリーズの「オランダ紀行」の中でこのことについてかなりのページを割いて書いておられる。司馬さんはご自分の考えを述べるのではなくて、児童文学の専門家の意見を伺っていた。つまり、まず、なぜ「フランダースの犬」が欧米で人気がないのか、であるが、これは15歳にもなった少年ならば運命に逆らってベストを尽くして生きてゆくのが当然ではないか、という理由によるものらしい。
なるほど納得できる説である。
上のベルギー人の映画人の考えでは、「日本には滅びの美学」の伝統があるから、という点が強調されている。これも大変説得力のある説である。なにしろ、歌舞伎の演目を考えても、人気があるのは義経伝説や忠臣蔵、その他、である。まさに滅びの美学というしかない。
義経が元気ハツラツ、生きのびて日本のある地に第二の王国を築いた、などという歌舞伎は想像することもできない。
しかし、これは「フランダースの犬」が日本でだけ人気がある理由のすべてではないように私は思う。
まず一つは司馬さんも言っていたように、「忠犬」というイメージがあるのだろうと思う。ハチ公を考えれば理解できる。
もう一つは日本人の奥深くに潜むある種の「ひ弱さ」が原因の一つなのではないだろうか。それにムラ社会が持つ根深い相互依存の感覚にも根があるのかもしれない。
「フランダースの犬」はアメリカではハッピーエンドの物語としてならば何度か映画化されているのだそうだ。でも、日本ではどうだろう?雄雄しく立ち上がって、パトラッシュを連れてどこかへとチャンスを求めて旅に出かける、などというプロットが日本人に受け入れられるだろうか?たぶんダメのような気がするのだが。
ご存知の通り、この童話の主人公である15歳のネロ少年はクリスマスイヴの夜忠犬パトラッシュと共にアントワープの大聖堂に入り、そこでルーベンスの名画(キリストの降架)を見た後そのまま凍死する、という筋である。上のベルギーの映画人はこの大聖堂のルーベンスの絵の前で自分のドキュメンタリー映画を公開したそうだ。この場所で日本人の女性観光客が泣いているのを見たのが映画制作のきっかけだったという。
日本人と「フランダースの犬」、に興味を持ったのはこのベルギー人が最初ではない。故司馬遼太郎氏が「街道を行く」シリーズの「オランダ紀行」の中でこのことについてかなりのページを割いて書いておられる。司馬さんはご自分の考えを述べるのではなくて、児童文学の専門家の意見を伺っていた。つまり、まず、なぜ「フランダースの犬」が欧米で人気がないのか、であるが、これは15歳にもなった少年ならば運命に逆らってベストを尽くして生きてゆくのが当然ではないか、という理由によるものらしい。
なるほど納得できる説である。
上のベルギー人の映画人の考えでは、「日本には滅びの美学」の伝統があるから、という点が強調されている。これも大変説得力のある説である。なにしろ、歌舞伎の演目を考えても、人気があるのは義経伝説や忠臣蔵、その他、である。まさに滅びの美学というしかない。
義経が元気ハツラツ、生きのびて日本のある地に第二の王国を築いた、などという歌舞伎は想像することもできない。
しかし、これは「フランダースの犬」が日本でだけ人気がある理由のすべてではないように私は思う。
まず一つは司馬さんも言っていたように、「忠犬」というイメージがあるのだろうと思う。ハチ公を考えれば理解できる。
もう一つは日本人の奥深くに潜むある種の「ひ弱さ」が原因の一つなのではないだろうか。それにムラ社会が持つ根深い相互依存の感覚にも根があるのかもしれない。
「フランダースの犬」はアメリカではハッピーエンドの物語としてならば何度か映画化されているのだそうだ。でも、日本ではどうだろう?雄雄しく立ち上がって、パトラッシュを連れてどこかへとチャンスを求めて旅に出かける、などというプロットが日本人に受け入れられるだろうか?たぶんダメのような気がするのだが。