リリー・マルレーン

2005-04-30 21:22:54 | Weblog
今から25年近く前、1981年頃のこと、午後4時から6時までの2時間にわたってNHKFMに「軽音楽をあなたに」という番組がありました。今から考えるとなかなか素敵な番組だったなと思われます。その1981年10月2日にNHK大阪の制作で「リリー・マルレーン特集」という番組が放送されました。たまたま私はそれを録音しておりました。このカセットには、最初はララ・アンデルセンから始まって、フランス、イギリス、アメリカ、そして日本と、世界を網羅するように多種多様な人が歌うリリー・マルレーンが収録されております。作曲者自身によるテープ録音のもの、などという貴重なのも入っております。私はこの番組によって初めてリリー・マルレーンに多種多様なバージョンがあることを知りました。1981年の時点で約300種のリリー・マルレーンの歌詞が世界に存在するのだそうです。これには驚きました。
リリー・マルレーンは第二次世界大戦の軍歌や歌謡の中でも1つの「社会現象」に近い歌となってしまいました。かくして、今の日本でもロートル(でなくても)の中にはこの歌を愛し歌う人が居るようなのですね。そこで今日はリリー・マルレーンの歌詞にスポットライトを当てて、少しばかりバージョンの違いについて、主に日本語の歌詞によって考えてみたいと思います。
なお、原曲の作詞家はハンス・ライプで、1915年に書いた詩集に収められております。
作曲家はノルベルト・シュルツで作曲年は1936年です。
まずライプによるドイツ語の原詩の1節目をコピーしておきます。

Vor der Kaserne           
Vor dem großen Tor
Stand eine Laterne
Und steht sie noch davor
So woll'n wir uns da wieder seh'n
Bei der Laterne wollen wir steh'n
|: Wie einst Lili Marleen. :|

次は原詩にかなり忠実な英語の訳詩です。

At the barracks compound,
By the entry way
There a lantern I found
And if it stands today
Then we'll see each other again
Near that old lantern we'll remain
As once Lili Marleen.

次は梓みちよが歌った盤の日本語歌詞である片桐和子の訳です。

夜霧深く立ちこめて
灯りともる街角に
やさしくたたずむ
恋人の姿
いとしいリリー・マルレーン
いとしいリリー・マルレーン

もう一つ加藤登紀子の盤で歌っている自分の訳詩です。

ガラス窓に灯がともり
今日も街に夜が来る
いつもの酒場で
陽気に騒いでる
リリー・マルレーン
リリー・マルレーン

ま、こんなわけです。それぞれだいぶ違います。ハンス・ライプの詩はごく単純な昔の恋人を想う詩だったのですが、なぜかこんな具合に部分的にせよ、歌詞を変えることが多いようです。なぜこうなるのかというと、リリー・マルレーンで重要なのはメロデーであって歌詞は二義的な重要さしか持たないからなのだろうと思います。
リリー・マルレーンは今ではヨーロッパの主要言語の殆んどすべてに訳されております。それは、それぞれ原詩とは微妙に、あるいは大きく、違うものなのかもしれません。でもあの2拍子的なリズムとどこかセンチメンタルなメロデーは同じです。
私個人の好みとしては、たぶん1939年にリリースされたララ・アンデルセンのオリジナル盤が一番好きです。歌唱力だけあげつらったらもっと上手な人はいくらも居りますが、アンデルセンの声には独特の暖かみがあります。これが良いですね。

リリー・マルレーンが歌い継がれているナゾに迫るには未だ勉強が足りません。今日は歌詞の紹介だけにさせていただきます。ただ、この歌の「履歴」についてごく簡単に書きます。
この歌は最初は1939年のララ・アンデルセンの盤からすべてが始まりましたが、しばらくは全然売れなかったそうです。ところが何かの偶然でユーゴーのベルグラードを制圧したナチスドイツがベルグラード放送局から夜の21時57分にこのアンデルセンのリリー・マルレーンをかけたところどういうわけか大ヒットして、やがては連合軍の間でも熱心に聞かれるようになりました。ララ・アンデルセンは一躍大スターになってしまいました。
敵・味方を超えてこのようにヒットした歌はリリー・マルレーンだけだったようです。歌そのものは単純で素朴な歌なのです。そこで、この歌が「現象」と呼ばれる所以だろうと思います。この歌はやがてマレーネ・ディートリヒが取り上げこれまた大変なヒットとなりました。あとはイギリスのベラ・リーンとかフランスのスージー・トリドールなども熱心に歌うようになりました。日本では先ほどの梓みちよが代表格かと思われます。




老いることが良いことであった時代

2005-04-29 20:30:39 | Weblog
日本で最初にシェイクスピアの全作品を訳したのは坪内逍遥ですが、その逍遥はシェイクスピアを好んで「沙翁」と呼びました。この呼び方には大詩人であり戯曲作家であるシェイクスピアへの尊敬の念が籠められているのはもちろんです。実際のシェイクスピアは「翁」と呼ぶには若すぎる年齢で亡くなったようですけれども、そういうことは関係ありません。松尾芭蕉も実際の没年は50才であるにも関わらずしばしば「芭蕉翁」と呼ばれます。西郷隆盛も没年は50才ですが彼を尊敬して止まない庄内藩では「南州翁」と呼んでおります。西郷の言葉をまとめた「南州翁遺訓集」という本があって、今でも山形県鶴岡市の一部ではこれはバイブル扱いにされております。
この日本をも含めて東洋には年をとることを好しとし、年寄りを尊敬する伝統がありました。そのために、たとえ多少若い人であっても偉大な業績のあった人には「***翁」という尊称をつけたわけです。今では老人の「価値」は地に落ちてしまい、粗大ゴミ扱いなのですが、それでも心のどこかに老人を尊敬したい気持ちが我々の心の中にあるようなのです。
私個人的な経験でこういうことがありました。
アメリカにノーム・チョムスキーという有名な言語学者がおります。1928年生まれですから今年は77歳になっているわけです。彼は1957年に"Syntactic Structures"という革命的な本を出し、さらに1965には"Aspects of the Theories of Syntax"というこれまた奥深い本を書き評価を不動のものにしました。(前著は「文法の構造」、後著は「文法理論の諸相」と日本では訳されております)私は後者のAspectsを読んだ時の圧倒的な印象を忘れることができません。老熟としか言いようのない思索が次々に展開されるスリリングな本であって、私はチョムスキーという人はよほどの年なのだろうと勝手に思い込んでおりました。MIT(マサチューセッツ工科大学)の教授でしたので、「老教授」を想像していたのです。しかし、その後調べるとこのAspects上梓の時点では、わずか27歳であることを知って愕然としたのを覚えております。私は自分で勝手にチョムスキーを「翁」に仕立て上げていたわけでした。
私は「老成」ということは非常に大事なことではないかと考えます。若さばかりがもてはやされる社会は不幸であると思います。でも今の日本で「老成」とか「老熟」などと声高に叫んだら滑稽なだけでしょう。情けないことです。いつかツケは回ってくるだろうと思います。