チップス先生のシニア像

2005-07-29 17:29:03 | Weblog
ジェイムズ・ヒルトンが"Goodbye, Mr.Chips"を書いたのは33歳の時のことでした。シニアのことをこんな若造に書いてほしくなかったと思わないでもありませんが、実際に読んでみるとかなりよく研究した跡がありますね。自分の祖父かだれか身近なシニアを観察したのかもしれません。たとえば、「年をとってくると、どうにも眠くてうつらうつらすることがある。そんな時には、まるで田園風景の中に動く牛の群れでも見るように、時のたつのがものうく思われるものだ。」という冒頭のパッセージなどは、
私個人の場合、かなり当っております。この短編は短期間で一気呵成に書いたものだそうですが、事実に反することが多く見られるわけではないようです。逆に考えると、ヒルトンは確実に知っていることだけを書くように自分を戒めたのかもしれません。

To the Lighthouseの訳は?

2005-07-28 19:26:15 | Weblog
ヴァージニア・ウルフの「灯台へ」は名作の誉の高い作品ですが、なかなか凝った文体で書かれております。最初の1箇所の原文をコピーしますので、訳に自信のある方はどうぞ試してみて下さい。岩波文庫から訳が出てますので参考までに。

To her son these words conveyed an extraordinary joy, as if it were settled the expedition were bound to take place, and the wonder to which he had looked forward, for years and years it seemed, was, after a night's
darkness and a day's sail, within touch. Since he belonged, even at the age of six, to that great clan which cannot keep this feeling separate from that, but must let future prospects, with their joys and sorrows, cloud what is actually at hand, since to such people even in earliest childhood any turn in the wheel of sensation has the power to crystallise and transfix the moment upon which its gloom or radiance rests, James Ramsay, sitting on the floor cutting out pictures from the illustrated catalogue of the Army and Navy Store, endowed the picture of a refrigerator as his mother spoke with heavenly bliss.

*難かしいのは2番目の文です。
*sinceで始まる大きな節が2つ並んでおります。
*この文全体の主語はJames Ramsayで、動詞はendowedです。
*endow A with B → AにBを与える
*rest upon~ → ~に基づく


以上、暑い夜の慰みまでに・・・・。

サピア・ウォーフ仮説

2005-07-27 20:45:32 | Weblog
人間の認識や思考の在り方は、使っている言語によって左右される、という趣旨の仮説のことです。
これは「強く左右される」という考え方と「弱く左右される」という考え方と2つがあります。現在では「強く左右される」という考え方は殆んど支持する人がいないようですが、「弱く左右される」という考え方は多くの人によって支持されているようです。つまり、考え方や認識の仕方は、言語の如何によってある程度影響を受ける、ということです。
サピア・ウォーフ仮説は今日でもその真偽について決着がついたわけではないようです。
私個人的には、「弱く左右される」方向を取る限り、この仮説は真理なのではないかと思っております。
たとえば色彩の認識についてです。太陽の色は日本語では「赤」で、英語では「黄色」です。そこで日本人の子供は太陽を赤く描きますし、英米人の子供は太陽を黄色く描くそうです。
ここで疑問も出てきます。「太陽は赤い」という日本文を英語に訳す場合、"The sun is red."と訳すのが正しいかどうか、というようなことです。言語的な実質を取るのか、認識としての実質をとるのか、というようなことも問題になってくるようです。
なかなか厄介な問題で、今後私も勉強させていただきたいと思います。

俗字の字典

2005-07-26 14:44:12 | Weblog
面白いサイトを見つけました。タイトルを「俗字の字典」といいます。国語学者に正式の文字として認めてもらえない語が並んでおります。カタカナのトに半濁点の゜をつけたものとかひらがなの「ま」の上の横棒が右側だけしかない、という文字などが並んでおります。URLは
http://hp.vector.co.jp/authors/VA000964/html/zokuji.htm


交通事故による死傷者は?

2005-07-26 10:05:26 | Weblog
このたび福島県で65歳以上の交通事故による死傷者について調査したところ、何と8割以上の死傷者が運転免許を持たない人だった、という。これは頷ける調査結果だ。日常生活で走る車と同居して暮らしているわけだから、車サイドからの見方を知ることが何よりも必要ではないかと思われるのだ。要するに敵を知ることだ。そのためにも老齢になったら、(といっても60歳前後が望ましい)ぜひ運転免許をとった方がいい。ただし乗らないことです。60歳で免許をとって車を気分よく乗り回すのは自殺行為だからね。

本の入手に関する訂正

2005-07-26 08:37:56 | Weblog
昨日の投稿で、ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」と「フィネガンズ・ウエイク」が現在入手し難い、と書きましたが、実際は両者とも入手可能です。「ユリシーズ」は河出文庫で、「フィネガンズ・ウエイク」は集英社文庫で入手できます。調査不足で済みませんでした。

意識の流れ

2005-07-25 18:51:37 | Weblog
ジェイムズ・ジョイスとヴァージニア・ウルフがこの手法で書いた代表的人物です。たとえば、ウルフの「灯台へ」(To the Lighthouse)などはこの手法で書いて文学へと結実したみごとな作品と言えるでしょう。
「意識の流れ」手法で書かれた作品といっても、ただ一人の人間の意識の流れをずっと追うだけではありません。数人の人物の意識の流れを殆んど同時進行のような手法で書くこともあります。したがって、これを読むには若干の慣れが必要です。しかし、ウルフの場合は、慣れさえすればそれほど読み難いことはありません。というのは、一人の人物の思考の途中でいきなり別人物の思考へと移行するようなことはありません。移行するように見えるのは外見であって、前から注意深く各人の思考を追えば、これは人物Aの思考で、次は人物Bの思考だ、ということが分るように書かれております。読みずらいといえば読みずらいかもしれませんけれども。いちいちHe thought とかHe said とかが書かれてないだけに、慣れれば却って楽に読めるのではないでしょうか。被伝達文だけで書かれた間接話法、とでもいうべき話法で書かれております。面白い文学です。ぜひ親しんでいただきたいと思います。ウルフの「灯台へ」は岩波文庫で出しました。ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」は河出文庫から、「フィネガンズ・ウエーク」は集英社文庫から、それぞれ出ております。

古今集と新古今集との「涼しげな歌」

2005-07-24 14:36:49 | Weblog
先日「涼しげな詩を求めて」という駄文を投稿しましたが、今度は2つの勅撰和歌集である古今和歌集と新古今和歌集の中に涼しげな歌があるかどうか探ってみました。できれば「涼」という漢字や「すずしい」という表現を使わないものが望ましいです。そして、間接的な表現で涼しさを表現しているものが良いですね。

その前に両勅撰和歌集についてちょっとコメントします。古今和歌集は醍醐天皇の勅命によって始まり、905年頃に成立したと言われております。撰者は主に紀貫之が中心でした。次に、新古今和歌集は、後鳥羽上皇の勅命によって始まり、藤原定家らが撰者を務めて1205年頃に成立したと言われております。

さて、どちらも、春、夏、秋、冬の四季によって構成するグループが最初に置かれております。「涼しい歌」を探すためにその四季別の歌の数を計算してみました。

古今和歌集
春歌  計133首
夏歌    33首
秋歌  計143首
冬歌    28首
合計   337首

新古今和歌集
春歌  計173首
夏歌   109首
秋歌  計264首
冬歌   155首
合計   701首

どちらの和歌集でも夏歌と冬歌はぐんと少ないことが分ります。新古今和歌集では夏歌は冬歌よりも僅差で負けております。どちらの季節も詩情のボルテージが低いからなのでしょうね。理屈をこねなくても分ります。
さて、古今集にはたった33首しか夏の歌がありませんが、その中に「涼」を感じさせる歌があるかどうか調べてみました。どうもホトトギスの歌がやたらと多いようですね。

五月雨の空もとどろに 郭公(ほととぎす) なにをうしとか夜ただ鳴くらん

といった具合です。貫之の歌です。意味は明快です。
どうも少ないですね。ただ1首あるといえばありますが・・・。

夏と秋と行きかふそらの通路(かよひぢ)は かたへすずしき風やふくらん

これは詠う世界が壮大でいかにも涼しそうですが、残念ながら「すずしき」が入ってます。

さて次は新古今和歌集です。今度は夏歌は109首とかなりの数です。その中から勝手ながら選ばせていただきます。これにはホトトギスも多いものの卯の花もかなり目立ちます。

雨そそぐ花たちばなに風すぎてやまほととぎす雲に鳴くなり

あふち咲くそともの木蔭つゆおちて五月雨晴るる風わたるなり

夕ぐれはいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ

庭のおもは月漏らぬまでなりにけり梢に夏のかげしげりつつ

鵜飼舟あはれとぞ見るもののふのやそ宇治川の夕闇のそら

鵜飼舟高瀬さし越す程なれやむすぼほれゆくかがり火の影

大井河かがりさし行く鵜飼舟いく瀬に夏の夜を明かすらむ

いさり火の昔の光ほの見えてあしやの里に飛ぶほたるかな

窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢

窓ちかきいささむら竹風吹けば秋におどろく夏の夜のゆめ

道の邊に清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちとまりつれ

露すがる庭のたまざさうち靡きひとむら過ぎぬ夕立の雲

庭の面はまだかわかぬに夕立の空さりげなく澄める月かな

ゆふだちの雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山に日ぐらしの声

いづちとかよるは蛍ののぼるらむ行く方知らぬ草のまくらに

蛍飛ぶ野澤にしげるあしの根の夜な夜なしたにかよふ秋風

黄昏の軒端の萩にともすればほに出でぬ秋ぞ下にこととふ

雲まよふ夕べに秋をこめながら風もほに出ぬ萩のうへかな

みそぎする河の瀬見れば唐衣ひもゆふぐれに波ぞたちける

*かなりの数あるものです。両歌集とも岩波文庫版を使いました。ほとんどが新古今集に集まっております。歌のイメージはややワンパタンのような気もしますが、後の「中間色芸術」に繋がる先行型がよく見られます。

中間色と原色の言葉と文化

2005-07-20 21:23:39 | Weblog
芥川龍之介はなかなかユニークな俳句を作っております。自分では余技のように思っていたような節がありますが、とんでもない、素人芸ではありません。その龍之介の俳句の中でもとりわけユニークな感じなのは次です。

青蛙おのれもペンキぬりたてか

この俳句を始めて読んだ時は思わず笑ってしまいました。そして何とはなしに違和感を感じたものです。なぜ違和感なのか考えてみますと、この俳句の世界が原色だからだろうと思います。ということは裏返しますと、日本の俳句は中間色の世界なのかもしれません。いや、俳句ばかりでなく、日本の文化、そして生き方、が総じて中間色の世界なのではないか、という気がいたします。

蚤虱馬の尿する枕もと

事実をポンと投げてあります。だからどうなのかは読む人が勝手に想像してくれ、ということだろうと思います。もちろん、芭蕉翁は心中「良い句ができた」とニタリと笑っているのかもしれませんが・・・。
これを英語に直した訳があります。

Plagued by fleas and lice
I hear the horses staling―
What a place to sleep!

俳句の英訳についてはいろいろなアプローチが可能だろうと思いますが、この訳者は英語に素直に訳しているようです。主語もしっかりと明示してありますし、すべては「私」が感受する苦しみです。これは芭蕉の原作の世界とはかなり遠いものだろうと思います。芭蕉はこの状況を楽しんでるのかもしれないのです。Plagedと訳すと、世界は苦しみに限定されてしまいます。これはいわば原色の感覚です。原作は中間色の感覚です。ずるいといえばずるいですよね。読者に下駄を預けるわけですから。
日本語では、A=Bと言いきることをひどく嫌います。「~と思うのですが・・・」などを私も多用しますが、断定(原色)がいやなのでしょうね。これに対して、西欧語は断定を避けるのがなかなか難かしいように出来ていると思います。