小さい秋とは?

2004-11-10 23:02:18 | Weblog
この有名な歌の「小さい秋」という表現は日本の秋の情緒を実に的確に表している。だれでもよく分る。しかし、「小さな秋」とはどういうことだ、と開き直られると、これは答えるのが難しい。

私の勝手な解釈によれば、秋とは万物が次第に縮小して、遂には無に帰す季節である。万物が縮小すると共に人間の心も考えも縮小するに違いない。「小さな秋」とは「小さな秋の中の自分」ということなのではないか?心が縮むと目も縮む。目が縮めば、何でも小さく見える。象を見てもネコくらいにしか見えない。したがって象を見て涙を流す人もいるかも知れない。私は今朝アラブ人が懸命に英語を話しているのを聞いているうちに、ふと涙が出てきた。これは何なのだろう?
老いれば人生の秋である。したがって何でも小さく見えるようになる。

「小さな秋」とはそういうこと、つまり縮小した自分のことなのかもしれない。それを「見つける」とは何か「自分探し」に通じるようでもある。道を歩いていると、少し前方に「縮んでしまった自分」がヒョコヒョコ歩いている、というような感覚なのかもしれない。なんだかアイルランドの妖精の話みたいだけれど。

たとえば小さな落ち葉を見てそれを「小さな秋だ」と称するのはいかがなものだろうか?たしかに落ち葉は小さい。そして今は秋、それも晩秋である。でも、それだけでは落ち葉の小ささと秋とを結ぶものが無いのではないか?その2つの間に縮んだ自分の心が介在して、始めて落葉は「小さい秋」になることができる。

年1個(?)

2004-11-10 21:45:08 | Weblog
今日のNHK教育で、最近助数詞が少しづつ変ってきていることがテーマになっておりました。1個、2個、の「個」も助数詞には違いありませんが、本来の助数詞の性格を失う寸前の言葉です。なお、「助数詞」とは、「鳥1羽」「本1冊」「紙3枚」などに見られる、羽、冊、枚、などのことです。日本語は名詞によって助数詞が違うという外国人にとっては極めて厄介な数体系を持っております。いくらやっても外国人は助数詞だけは難しいと言う方が多いようです。
ところが、最近、ごくわずかながら、日本語の物の数え方が英語なんかに似てきたようです。つまり、「***個」という普遍的な助数詞を今までにない物事に使うようになってきた、という話でした。たとえば、「私はあなたよりも年が1個多い」などと言うことが若者の間に広がっているのだそうです。私はアンテナが低いので、こんなことは始めて聞きました。そして驚きました。日本語のどこか奥深い所が変ってきている、と思います。助数詞は外国人にとっては実に厄介なものではあるけれども、1つの日本の文化なんです。助数詞を失った日本語なんて羽をむしられたニワトリみたいなもので、日本語の大きな部分が欠けることになります。「年1個」はほとんど幼児語ですね。オトナが平気でこんな日本語をしゃべるとなると、これは大変なことです。意味が通じさえすれば表現などはどうでもいい、というかなり怠惰な気分の表れではないでしょうか?