鉛筆でなぞって書き写す本

2006-09-25 16:55:35 | Weblog
今朝のNHKニュースで「鉛筆でなぞって書き写す本」がブームになっている様子を報じていた。東京の大手の本屋らしく、この種の本だけで1つのコーナーを占有している様子を映し出していた。好奇心にかられてさっそく家内を連れて本屋に行く。わが町の貧弱な本屋に置いてあるかどうか疑問だったのだが、何と置いてあった!私が買ったのは「えんぴつで奥の細道」という本、家内が買ったのは「えんぴつで百人一首」という本だった。
どちらも名のある書家が丁寧に書いたものを下敷きにしている。他人の字をそっくり真似て書くことが良いことなのかどうかは疑問があるけれども、それを上回るメリットが感じられる。たとえば般若心経を写経した経験から言えば、我が文字の下手さ加減に呆れて数行で止めてしまった。他人の字を下敷きにすれば原文を読む苦労が省けるだけに持続するのではないかと思われる。(これは希望的観測で終るかもしれないけれども)本気で写す気があるのならば100円ショップからノートを一冊買ってくれば済むことだが、それが経験上ダメなのだからこういう本は嬉しいアイディアだ。
「奥の細道」に関して言えば、製本に重大な欠陥がある。本を手にしてもらえばすぐに分かることだが、本のカバーが硬いのである。カバーが硬ければ当然ながらえんぴつで書き写す場所によっては大変写しずらいのだ。これは「読者のレビュー」でも指摘されている。しかしそれくらいには目をつぶることにしよう。何やら楽しい作業になりそうだ。楽しめば、それでいいのではないだろうか?

オーデオCD-RかDVDか?

2006-09-22 18:32:51 | Weblog
5~6枚CDを録音編集する用事があったので近くの家電屋に出かけた。ところがどうもおかしい。去年までナマのCD-Rを沢山置いていたのに、データ記録用のCD-Rばかりで音声用CD-Rが殆ど見当たらないのである。次の家電屋でも似たような状況だった。やっと3軒目でかなりの量を置いてあるのを見つけた。CD-Rの代わりにDVDがどっさり置いてある。値段も去年より格段に安くなったようだ。いったいこれはどういうことなのだろう。私はDVDについては再生機も録画機も全然持っていないし使ったこともないのでウカツなことは言えないけれども、DVDは音楽録音再生用のメディアとして本当にCD-Rに匹敵しうる音質を期待できるのだろうか?もちろんDVDは元々録画用に開発されたソフトなのでだ。このソフトを録音専用に使う人はまず居ないだろう。その点気がかりだ。
いずれにせよ、すでにCD録音機を持っているのにDVDレコーダーを買わざるを得ないことになるかも知れない。しかし今は地上デジタル放送との兼ね合いで微妙な時期なのだ。どうせ買うのであれば、地上デジタルにも対応できるDVDレコーダーを買いたいのだけれども、これが高いのですね。
ま、音楽用CD-Rを数パック買いこんで、あとは地上デジタル対応のDVDの値段の推移を見守るしかないだろう。ソフトが変る、というのは実に憂鬱なのですよ。
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進歩しないキカイが良い

2006-09-21 07:07:17 | Weblog
またまた睡眠が浅くなった。夜は寝つきは悪くないのだけれども、朝がいけない。4時前にはもう目が冴える。4時に起きてその日の体調も良好であるならば何も問題はないのだけれども、体調が悪いから困る。しかし、ムリに寝床で寝ようと思ってもかえっていろいろなことが頭を去来して胃がやられるので、4時には起床することにしている。目が悪いのでそういう早朝の時間にはパソコンもいじることができない。本もよめない。前の晩に何か意味のあるテレビ番組を録画しておいて、それを見ることにしている。昨日は家電量販店に行ってコーヒーメーカーと湯沸しポットを買ってきた。両方で5000円だった。これくらいなら1つのゲームとして買える。ダメでもともと、ということだ。しかし、家で使ってみるとどちらも甚だ好調だった。コーヒーメーカーとかポットのような構造の単純なキカイでもこの数十年で相当に「進歩」していることが分かった。「進歩」はあまり好きではないので、これは少々悲しいことでもあるが、嬉しいことでもある。これから冬にかけて、早朝のコーヒーを嗜むことになる。時々コーヒー粉の銘柄を変える楽しみもあることだろう。ほんの少しは人生を楽しまなくてはね・・・・。


家電製品の「進歩」

2006-09-20 07:58:44 | Weblog
最近、わが市に売り場面積の巨大な家電量販店がリニューアルオープンした。2階が洗濯機だの冷蔵庫だの台所くさい製品、3階がパソコンを主とした製品を置いている。退屈するとこの店に行って何も買わずに眺める。見て楽しいのはオーブンだのレンジだのという調理関係のコーナーだ。なぜここが楽しいのか考えてみた。たぶん、「進歩」が少ないから、ではないだろうかという気がする。このコーナーの製品はいずれも水を温めたり食品を加熱して焼いたり蒸したりするキカイばかりだ。そういうキカイにはそうそう「巨大な進歩」などあるはずがないのだ。そう、電気ポットなど、湯を沸かし保温するだけのキカイだから、進歩しようがない。変るとすればせいぜいデザインくらいだ。これが何やら心をほのぼのとさせるようなのだ。大昔40年も前だったか、単に湯を沸かすポットが発売されて、何と便利なキカイかと驚いてさっそく買ったものだ。湯を入れてコードを差し込む。しばらくするとジジと湯が沸く音がする。しまいには沸騰する。この音のプロセスは聞いていて快いものだった。持っていたのはたしか1リッター入りのキカイだったようだ。それと事実上同じ構造の1リッター用の単なる湯沸しポットがここで売られていたのだ。これを見た時はふと数十年前に帰ったようで嬉しかったね。そう、別に保温機能などは要らない、という独身者にとっては便利な製品なのだ。こういう製品には「進歩」などはあり得ないわけだ。保温装置つきのポットもある時期で「進歩」はピタリと止まってしまったようですね。毎年同じ機能で同じデザインだ。これは気持ち良いことなのだ。

それに反して、3階に登るとあらゆる「進歩」に取り囲まれる。たとえばビデオである。今ではテープによるビデオは消滅寸前で、それに代わってDVD録画機が全盛である。これが騒々しいのだ。つまり、***とか***とか、考えられるありとあらゆる新しい機能を満載している。そして1年に2回もモデルチェンジするのだ。ケータイも同じ。パソコンも同じ。まるで新幹線で突っ走っているようなものだ。
そういえば、電気洗濯機もその意味では騒々しいキカイのようだ。真横から洗濯物を入れたりする。背の高い人は困るのではないかな?まさか、そのうち真下から洗濯物を入れる機種が出現することだけはなさそうだけれども。

ま、品物によって度合いはさまざまだが、もう少しそっと静かに進歩してもらえないものかと思うことしきりである。

「~させていただきます」(2)

2006-09-19 08:46:02 | Weblog
前回は「~させていただきます」という表現についてごく大雑把に考えてみましたが、今日はアルクの「~させていただきます」に並べられている例文を部分的に拝借しながら、どんな場合にこの表現が出てくるのかを考えたいと思います。

1. 喜んでお会いさせていただきます。
2.ご注文はキャンセルさせていただきます。
3.追ってこちらからお電話させていただきます。
4.身分証明書をチェックさせていただきます。
5.破損した商品については交換させていただきます。
6.詳しい情報を提供させていただきます。
7.(当病院では)10分間のみの面会とさせていただきます。
8.喜んでお手伝いさせていただきます。
9.結婚式には喜んで出席させていただきます。
10. 30日間無料メインテナンスさせていただきます。
11. マネージャーからご連絡させていただきます。
12. お電話でご注文の確認をさせていただきます。
13. 電話にてできる限りの対応をさせていただきます。
14. この問題に関する我々の立場をはっきりさせていただきます。
15. 僭越ながら司会を務めさせていただきます。

これくらい並べれば、ほぼどういう状況でどのように使われているのかお分かりいただけるでしょう。前回にも書いたように、「~させていただきます」とは、元々は、相手にとって都合の悪いことをせざるを得ない場合に、相手との人間関係も良好に保ちたい、という願いから生まれたものだろうと思います。しかし、現在ではこれが無限に拡大してしまって、少なくとも企業世界ではこの表現なしには商談が一歩も進まないのではないか、と思われるくらいです。かくまでに広く使われているにも関らず、聞いた時の感じは決して良いものではありません。「勝手にしろ」、と言いたくなることさえあるくらいなんです。

上の15コの文の「~させていただきます」をカテゴリー別に分析させていただきますと、
①相手にとって多少なりとも迷惑ではあるけれども人間関係は温存したい、という動機が感じられる文は、1.4.7.12.14でしょうか。
②相手にとって好都合である場合に、より謙遜の度合いを高めて相手の好感を得たい、という動機が感じられる文は、5と10でしょう。③全くの決まりきった謙譲表現の文は、15、
④単なる謙譲表現の一つで、場合によっては慇懃無礼の悪い感じを与えかねず、「~にいたします」と言い切ってもあまり支障がなさそうな文は、その他全部ということでしょうね。

この④のケースが一番問題になりそうです。
これらの文を、たとえば次のように言ったとして何か問題があるでしょうか?

1.→喜んでお会いします。
3.→追ってこちらから電話いたします。
6.→詳しい情報を提供いたします。
8.→喜んでお手伝いします。
9.→結婚式には喜んで出席します。
13. →電話にて出来る限りの対応をいたします(のでご安心ください)。

もちろん、これだけをポツンと言うのではなくて前後に何かを追加するのが普通だと思います。そうすれば、この④の場合には「~させていただきます」は全廃してもあまり差し支えはなさそうです。いかがでしょうか?この気に障る変な謙譲表現を追放して日本語をクリーンなものにするためにもやってみる価値はあるように思うのですが。


「~させていただきます」

2006-09-18 08:21:49 | Weblog
これも最近あまりにも多用されすぎている感じの表現です。

明日は休業します。
明日は休業いたします。
明日は休業させていただきます。

以上の3つのうちでどれが一番丁寧に感じられるでしょうか?ちょっと見ると3番目かと思いますが、少々慇懃無礼ではないでしょうか?
この表現は相手にとって都合の悪いことをやらざるをえない時に、相手との人間関係を壊したくないという下心が感じられます。特に企業の方が公の場で話すのを聞くと、この表現が頻繁でうんざりすることが多いのです。休業するのは自分の権利なのですから、堂々と「休業します」で通せばいいのに、なぜか相手の目も気にする日本人独特の心情の現れであろうと推測されます。

念のためにアルクの英和辞典で検索しますと、「~させていただきます」はかなり多くの場合無視されてますね。当然のことでしょう。自分の権利に属することを述べる時には無視することが多いようです。ただし英語でも丁寧体を使う場合もけっこう多いようです。たとえば、「これから***についてお話しさせていただきます」というような場合は、"I would like to speak on ***."などが適当のようです。ケースバイケースということですね。


「あなたにとって***は何ですか?」

2006-09-17 07:43:09 | Weblog
前にも取り上げたことのあるテーマである。NHKのインタビュアーに多いことだが、インタビューしている相手に「あなたにとって***は何ですか?」と質問するのである。相撲取りに向かって「あなたにとって相撲とは何ですか?」とか、ピアニストに向かって「あなたにとってピアノとは何ですか?」などと平気で質問する。「あなたにとって***は何ですか?」というのは答えるのが大変難かしいし、場合によっては殆ど不可能な質問である。
はっきり言うと、この質問はインタビュアーである質問者の怠惰に根がある。本来であれば質問者の方でよく相手のことを勉強して具体的に質問すべきところなのに、面倒くさいから質問の相手に考えることを預けてしまうのである。または、もう少し好意的な見方をすれば、これがインタビューの一つの定型化した語彙になっているのかもしれない。しかしいただけませんね。質問された人も、ここら辺はよく心得ているようで、きまりきった答え方をするか、またはその質問そのものは無視して、周辺的な事についてしゃべって終る、ということも多いようだ。たとえば、「相撲は私の生きがいです」「ピアノは私の魂です」などと、無内容な答え方をするか、または、「あなたにとって相撲とは何ですか?」と問われたら、「先日モンゴルに帰国してきましたが、そこで日本の相撲がどれほどモンゴルの人々の関心を集めているかを知りました」などと別の方面から「答え」たりする。「あなたにとって***は何ですか?」はたしかに質問された人の頭の回転の良さ悪さを示すバロメーターにはなるようだ。しかし、インタビュアーとしてはあまりに無責任ではないだろうか?
立花隆がある本に書いていたけれども、自分が人々からインタビューされるときに、相手があまりに自分(立花)について不勉強なので腹が立つことが多いそうだ。ろくに自分の書いた本を読んでもいない、というのだ。こういう不勉強がマスコミのインタビューにも多く見られるのである。英語雑誌「アルク」には英語を話す人々どうしのインタビューを毎月(今もそうだろうと思う)載せているが、その中で,"What is *** for you?"などという種類の質問を見かけたことは一度もない。ABC放送のインタビューなどを聞いていたも同じだ。インタビューアーはプロとしてインタビュー相手について実によく勉強しており、必ず具体的な質問に終始する。インタビューアーがかなり長々と相手の分野についての薀蓄を傾けて、しかる後に「あなたはこのことについてどう思うか?」と攻めるのもよく見られる。これはオトナの会話である。ロクに相手について勉強もせずに、いきなり「あなたにとって***は何ですか?」とは恐れ入るしかない。

妻など持つなかれ!

2006-09-16 08:05:10 | Weblog
徒然草でシニア関連の文を探していると、ふとひどく新鮮な考えに突き当たって驚くことがある。この190段などもシニア関連ではないけれども、内容はまことに痛烈で痛快でもある。

徒然草第190段

妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。「誰がしが婿になりぬ」とも、また、「いかなる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、むげに心劣りせらるるわざなり。殊なることなき女を、よしと思ひ定めてこそ添ひるたらめと、賎しくも推し量られ、よき女ならば、らうたくして、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそとおぼえぬべし。まして家の内を行い治めたる女。いと口惜し。子など出て来て、かしづき愛したる、心憂し。男亡くなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
 いかなる女なりとも、明け暮れ添ひ見るには、いと心づきなく、憎かりなむ。女のためも半空にこそならめ。よそながら、時々通ひ住まむこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊りゐなどせむは、珍しかりぬべし。

現代語訳

妻というものは男が持つべきではないものだ。「いつまでも独身ですよ」などと聞くと、その男性の人柄に深みが感じられる。
「だれだれの婿に入った」とか「これこれの女を家に入れて同居している」などと聞くと、本当にがっかりする。つまらない女性を素晴らしい女性だと思い込んで夫婦になったのだろう、とその男がつまらぬ人物であると想像される。逆に良い女ならば、(この男を)いとしく思い、仏のように大事にしていることだろう。たとえて言うならば、(良い女といえども)その程度であることがわかってくるはずだ。ましてや、家をちゃんと切り盛りする女はつまらない感じである。子供などが生まれて大事に育てている姿は不愉快なものである。男が死んだ後に尼になって年を取る様子は、男の生前はもとより死んだ跡でさえも醜いものだ。
どんな女でも、明け暮れ一緒に居て顔をつき合わせていれば、ひどくうとましくいやになるだろう。これは女にとっても中途半端で不安な状態であろう。ふだんは離れ離れに暮していて、時々通ってきて夫婦生活をする方が互いの心は長持ちするだろう。突然やってきて泊ったりすれば、二人とも新鮮な気分を味わえる。


兼好法師に「賢人」という先入観を持っている人はこの190段を読むとびっくりするはずだ。しかし読みようによっては、これは永遠の真理を語っているようにも思われる。「結婚は恋愛の墓場である」という箴言をちょっと長目に語った文章、といえばいいのだろうか。男女の仲の華はあくまで恋にありロマンにあるのであって、女が結婚して家庭を切り盛りすることを始めるならば、ロマンは雲散霧消してしまう。ましてやギャーギャーうるさく泣く子供が生まれて子育てを開始したりすれば、ロマンや恋どころではなくなる。ま、兼好法師はここで「恋に対する恋」を語っているのかもしれない。さすがは法師として独身を通した人だけのことはある、と思わざるをえない。

しかし我々凡人の庶民にとってはこのような考えは無縁のものである。そもそもオトナならば、「結婚する」と決めた以上は、時が経つにつれて最初の「好き!」という感情も醒めてしまって家庭を守り子供を育てるという甚だ日常的でつまらない「仕事」がそれにとって代わるだろう、ということを心の隅のどこかで理解しているはずだ。そうでなかったら兼好法師のような道を取るしかない。しかし世の多くの人々が兼好法師に従うならば、現在の少子化にますます拍車がかかって国は滅亡するしかないだろう。
非常に面白いけれども、現実性は全くない論議、と読み流すしかない段なのだろう。また、これは女性から見たらどう感じるのだろうか?時々通って夫婦生活をする、などは斬新な感じの話だが、夫が遠くに赴任している夫婦などは日常茶飯事でやっていることだ。


温泉旅行のこと

2006-09-16 05:46:21 | Weblog
秋田の温泉に来る時はいつも一人である。家内が温泉嫌いだからだ。しかし、去年、今年と2年続けて温泉旅行してみて分かったことは温泉旅行は1日で沢山だ、ということである。2日も湯にズボズボ潜ったり浸ったりしていると空しい気分になってくるのだ。玉川温泉などは治療のために10日はおろか1ケ月も宿に泊まっている人も居る。なにしろ病気の多くはガンなので必死の思いで一種の行として湯に入っているのだろうと思う。そういう仲間どうしで集まって情報交換しながらでないとなかなか1ケ月泊ることは困難だろうと思う。しかし玉川温泉は、表面で見た限りではなかなか明るい雰囲気である。いわゆる昔からの湯治場、の趣きを残す数少ない宿だ。湯治場といえば岩手県の夏湯温泉(げとうおんせん)もかなり徹底した湯治場だったけれども今もそのままなのだろうか。素朴な宿が近代的な建物に変るのを見ると限りなく寂しいけれども、実際に湯を楽しむ段になると清潔な温泉であることが望ましい。素朴と清潔とはどうも両立は困難なようで、自分の好みでどちらかを取るしかない。まことに贅沢な悩みではある。

乳頭温泉郷

2006-09-15 08:50:34 | Weblog
今日は昨日に続いて秋田の温泉談義である。後生掛温泉と玉川温泉の次は当然ながら乳頭温泉郷となる。乳頭温泉郷は去年も行ったので、たくさんある温泉の中でどれが良くてどれがダメか、は大体頭に入っている。あくまでも私の趣味であるが、ベストは黒湯温泉だ。ともかく雰囲気が良い。最高は木造の露天風呂である。爽やかに吹き渡る山の風の中にポツンとあって、すぐ側には例の「打たせ湯」もある。さらに良いのは湯の温度で、ややヌル目に設定してあっていつまでも入っていられる天国のような露天風呂なのだ。ただし、この露天風呂には巨大な欠陥がある。それは、この露天風呂が混浴であることだ。混浴を気にする人と気にしない人が居るだろうから一般論としては言えないけれども、私は甚だ気になる。私だって、風呂が大きくてプールのような造りならば混浴も別に気にはならないだろうが、黒湯のこの露天風呂は家族風呂を少し大きくしたようなサイズなのだ。男どうしだって5人も入ればむさ苦しい雰囲気だ。ましてや、相手がバアサンだったとしても女性では気が疲れる。うるさいギャルがどっと入ってでもきたら、たまらんから退散だ。ま、そういうことなんです。どういうわけか、去年はここに私一人で30分もゆっくり漬かったし、今年もジイサンが一人居るだけでまことにのんびり出来た。しかし、他人のブログなどを見ると、いつもそんな具合には行かないようですよ。芋の子を洗うように混む時は混むらしいのである。こうなると、宿の経営者が何を考えているのか疑う。これは怠慢ではないだろうか?一つの案だけれども、どうしても風呂桶を一つだけにするのであれば、男女で時間差にすればいいではないか。30分は男、30分は女、と分けさえすればどちらもゆったり風呂に漬かることができるではないか?どうしてそうしないのだろうか?いや、ほぼ同じような構造の露天風呂をもう一つ設定できればそれは最高だけれども、それを要求するのは酷である。

今年の冬雪崩にやられて浴室などを潰された鶴の湯はすっかり立ち直っていた。外から見る限りどこにも傷跡は残っていない。ただ私個人の趣味としては、この温泉はあまり好きになれないのだ。いかにも観光客様御用達、という感じがギラギラして何か落ち着かないのだ。風呂もあまり良くない。その日は露天風呂は掃除の日で利用できないということだったので持参したオニギリを食べて早々に退散した。改めて鶴の湯の全景を見ると、なるほど本館のすぐ側まですごい急傾斜の裏山が迫っている。これでは冬は危険なわけだと納得した。

あともう一つ私が好きな温泉は大釜温泉である。乳頭温泉郷の中では一番地味な感じなのだが風呂が良い。清潔なのだ。風情があっても不潔な温泉は嫌いだ。去年は大釜温泉で1時間も漬かったのだが、今年はそうは行かなかった。露天風呂の湯が熱いのだ。去年はこうではなかった。水でたえず薄めているのでタイミングのせいだろうと思う。もう一つ小さめの湯船があったので試してみると、これは逆に水に近い温度だった。しかし熱いのよりはましなのでこちらに入る。30分も漬かっていると次第に温まってきて、ウトウト居眠りしてしまった。大空の下で湯の中で居眠りするというこの上ない贅沢を味わうことができた。乳頭温泉なら大釜温泉、というわけだ。昔の小学校を改造した建物なんだそうです。

黒湯露天風呂


鶴の湯正面付近(後が雪崩の落ちた斜面)